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フランス革命 マリー・アントワネット史

Marie-Antoinette"

大公妃マリー・アントワネット
シェーンブルグ宮殿


1755年11月2日、マリー・アントワネットはオーストリア大公マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの十一女として誕生しました。

マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringen)と名づけられました。

ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
ハプスブルグ家 マリア・テレジア
パルマ公女マリア・イザベラ
スペイン・ブルボン朝 王女 マリア・ルドヴィカ
姉妹たち
長女 マリア・エリザベート 3歳で死去
次女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ せむしの皇女として父親以外には愛されなかったマリア・アンナは修道院で奉仕に一生を捧げます。
三女 マリア・カロリーネ 2歳で死去
長男 ヨーゼフ2世 「民衆王、皇帝革命家」と呼ばれる。
四女 マリア・クリスティーナ マリア・テレジアの愛情を受け、恋愛結婚を許される。
五女 マリア・エリザベート 天然痘が原因で醜貌のため、修道院に。
次男 カール・ヨーゼフ 6歳で死去
六女 マリア・アマーリエ 政略結婚、のちに帰国禁止。
三男 レオポルト2世 兄ヨーゼフ2世死後に帝位につきます。
七女 マリア・カロリーネ 死去
八女 マリア・ヨハンナ・ガブリエレ 12歳で死去
九女 マリア・ヨーゼファー ナポリ王との挙式直前に死去
十女 マリア・カロリーナ 姉のかわりにナポリ王に嫁ぐ。
四男 フェルディナント・カール・アントン エステ大公

∵1763年5月 アントワネット8歳 メルシー伯爵が結婚の使節としてフランスに派遣

∵1769年6月 アントワネット14歳 ルイ15世より婚約の文書が届く。この年、王太子妃教育係が派遣


 王太子妃 マリー・アントワネット

Marie-Antoinette by François-Hubert Drouais painted in 1773

王太子妃マリー・アントワネット 1773年
フランソワ・ドルーエ 


肖像画は結婚3年目の18歳のマリー・アントワネット。

王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉

∵1770年5月16日 王太子ルイとヴェルサイユで挙式。

∵(1770年5月15日 デュ・バリー夫人が娼婦あがりの寵姫と聞かされる)

∵1770年頃 ランバル公妃 王太子妃の女官長となる。

∵1771年7月 デュ・バリー夫人 の声がけがアデライード王女により阻止される。

∵1772年1月 デュ・バリー夫人への新年の挨拶。

∵1773年 フェルセン伯爵と仮面舞踏会で出会う。

∵1774年5月 ルイ15世薨去


 凋落への道 王妃マリー・アントワネット





マリー・アントワネット 1775年 作者不詳


「二十歳のうぶな王妃様 ふざけた真似を遊ばすが そのうち御身も城の外」〜この流行歌はフランス革命が起こる14年も前、王妃になりたてのマリー・アントワネットを歌った戯れ歌の一節。

マリー・アントワネットが愛したもの

∵1774年 5月 ルイ16世即位 19歳のマリー・アントワネットは王妃となる。宮廷儀式を簡略化していく。ポンパドゥール夫人のためのプチ・トリアノンを贈られる。

∵1774年 9月頃 「フィガロの結婚」で、のちに「セビリアの理髪師」(1782年初演)となる戯曲のロジーナ役を演じる。

∵1774年 マルシャンド・ド・モードローズ・ベルタンが寵愛を受ける。同年フェルセン伯爵と仮面舞踏会で出会う。

∵1775年 ポリニャック夫人を寵愛、ポリニャック家を取り立てる。

∵1775-76年? アントワネットの圧力でデギュイヨン公爵辞任(モープー、アベ・テレ、デギュイヨン公爵の「三頭政治」はルイ16世の統治のなかで安定していた期間)

∵1776年 ランバル公妃にかわり、ポリニャック夫人が王妃の女官長になる。

∵1776年 兄ヨーゼフ2世訪仏 。

∵1776年 王妃、旧アンシャン・レジーム派によりジャック・テュルゴー罷免。

∵1776年 プチ・トリアノンの改装をリシャール・ミックに依頼。

∵1778年 第一子マリー・テレーズ誕生。

∵1779年 王妃とコワニー公爵のスキャンダル。

∵1779年夏 プチ・トリアノンへの森林移動。(35万2275リーヴルの支出)

Marie Antoinette-children-1785-6-Wertmuller

マリー・アントワネットと子ども達(マリー・テレーズ、ルイ・ジョゼフ)
アドルフ・ウルリッチ・ヴェルトミュラー ストックホルム美術館


王妃は下層民の生活を知ることもなく(知る必要はなく)、国庫の回復で就任した財務総監を次々と罷免させます。王室費を削られるほか、貴族や聖職者が領民からの税金を徴収できなくなるなど、特権階級に不利な政策でした。

マリー・アントワネット フランス紀行から

∵1780年 プチ・トリアノン 王妃の劇場 完成。

∵1781年 第二子ルイ・ジョゼフ誕生。

∵1783-84年 アメリカ独立戦争からフェルセンが帰国。

∵1785年 第三子ルイ・シャルル誕生。

∵1785-86年 首飾り事件 王妃は無関係。

∵1785年 王妃の意見で、オーストリア・オランダ間の戦争にフランスが介入しないよう賠償金を支払う。(オーストリアへの戦争回避における賠償金による財政圧迫)

∵1785年2月 王妃 サン・クルーの館を購入。

∵1786年 凶作と物価高騰のさなか、プチ・トリアノン アモー 完成。王妃の衣装代27万2000リーヴル。

∵1786年7月 第四子ソフィー王女誕生。

∵1787年6月 ソフィー王女夭折。

∵1788年 ネッケル 財務総監就任。

∵1789年5月 三部会 王妃出席。

∵1789年6月 第二子ルイ・ジョゼフ夭折、葬儀の費用を銀器を売却し支払う。

∵1789年7月 王妃の圧力で12日にネッケルが罷免。王妃の取り巻きブルトイユ男爵にかわる。王室財産の破産を宣告。(英国のアーサー・ヤングの日記では、この12日、老婆だと思っていた女性が28歳だと知り、フランスの下層民の格差に愕然としたことを記しています。)

∵1789年7月 14日 バスティーユ襲撃事件(囚人の7人のうちサド侯爵は10日前に療養施設へ移動していました!)

∵1789年10月 5日、ヴェルサイユ行進(10月行進)が向かう。(民衆の怒りを和らげるため、ラ・ファイエット将軍がバルコニーで王妃をに跪き敬愛の情を示したことで緩和されました。このときオランプ・ドゥ・グージェの家には人が押し寄せ、サド侯爵夫人ルネは脱出に成功しています。)

∵1789年 ヴェルサイユ行進後の6日、民衆の要望を聞き入れ、ヴェルサイユを出立。(永遠の旅立ちとなります。)パリのチュイルリー宮殿へ移る。

Marie Antoinette, Queen of the French, 1792

王妃マリー・アントワネット 1792年
作者不詳ということで・・・。


王妃マリー・アントワネットの陰謀と奸計がはじまります。「国王の拒否権行使と逃亡」、「諸外国の干渉による王政の復活」、「亡命貴族との共謀」です。

ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

∵1790年2月 ヨーゼフ2世急死、レオポルト2世が皇位を継ぐ。王妃はレオポルト2世と交渉。

∵1790年春 28万リーヴルの支出、800人の動員でチュイルリー宮殿、王妃の居館の改装が終わる。フランス全土は寒波と干ばつ。凍死者がでる。

∵1790年7月 立憲君主制を主張するオノーレ・ミラボーと会見。ルイ16世がもっとも信頼を寄せた。革命を指導するミラボーは、国王と革命阻止に尽くすことになり、国外の亡命には反対。

∵1790年7月 14日の革命1周年の連盟祭で国王、王妃ともに参加。このとき国王が「フランス王」から「フランスの王」と宣言。憲法を施行することを宣誓。

∵1790年8月 国王一家逃亡を企てる王妃とフェルゼン。ショワズール男爵、ゴグラ男爵らと計画。この頃に王妃は兄ヨーゼフ2世へフランスに向けての軍隊派遣と逃亡の資金援助 を要請。

∵1791年11月 聖職者民事基本法への宣誓を義務付け。国王は承認という形をとる。

∵1791年4月 2日ミラボー急死。14日、国王一家がサン・クルーへ向かうのを逃亡と思われ、中止。王妃は亡命に反対していたミラボーが亡くなったため、国王が悩む民事基本法とミラボーとの議会閉会の計画が中途になったことを理由に逃亡計画を認めさせる。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月

∵1791年6月 ヴァレンヌの逃亡。国王一家はヴァレンヌでつかまり、パリへ戻る。フェルセンは途中で降ろされる。(ミラボーの言うとおりにしていれば・・・)

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月

∵1791年後半 ヴァレンヌに連れ戻しにきたアントワーヌ・ピエール・バルナーヴに、王妃は保護を求め、国王の拒否権、人事介入ができるようになる。オーストリアに逃亡しているフェルセンには、ブルトィイエ男爵とともに王命を持たせ、「諸外国の干渉」を受けるように催促。

∵1791年8月 オーストリアの兄レオポルト2世とプロセイン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「ピルニッツ宣言」を発し、フランス革命に国王の解放をしなければ介入すると発表。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月

∵1791年9月 14日は国民議会に王一家が参加。憲章を奉呈された日。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

このあとしばらくは国も国王一家もつかの間の穏やかさを取り戻します。アントワネットもオペラ座やコメディー・フランセーズにお出掛けしたり。

∵1792年3月 王妃の兄レオポルド2世急死。

記事フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月

∵1792年4月 国王はオーストリア皇帝に宣戦を布告

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月

∵1792年6月 チュイルリー宮殿侵入事件

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月

王妃はオーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵を介して「ブラウンシュヴァイクの宣言」を要望します。

∵ 1792年8月 チュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日事件)、タンプル塔幽閉

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月


 終焉の獄 王妃マリー・アントワネット

Marie Antoinette Elisabeth Vigee Le Brun, 1800


幽閉されたあと、タンプル塔の委員会のメンバーでもあったペティヨン、マニュエルが訪問します。この二人はクレリーの日記、マリー・テレーズの回想録にも登場します。

∵ 1792年 8月タンプル塔幽閉 
∵ 1792年9月虐殺

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

過去記事 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
過去記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス

過去記事 マリー・アントワネット タンプル塔
過去記事 ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸 

1792年の9月虐殺は、ペティヨン、マニュエルも周知の計画だったようです。ただし、タンプル塔に来たあの日の午前中、マニュエルが言うように、まだランバル公妃は元気で生きていました。

くわしくは次のリンク記事からお読みください。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
記事

∵1792年11月 ルイ16世の指物師のフランソワ・ガマンが内務大臣ロランに監査官ウールティエを通して、チュイルリー宮殿の隠し戸棚がつくられていたことを告白。

∵1792年12月 この隠し扉からミラボーの手紙も暴露。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

幸いにして、マリー・アントワネットの証拠書類はここからは見つかりませんでした。あるはずだったようなんですね、本当は・・・。

∵1793年1月 ルイ16世の裁判と処刑

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

∵1793年6月 ジャコバン派モンテーニュ派の独裁政治がはじまる。

記事 マクシミリアン・ロベスピエール
記事 フランス革命下の一市民の日記 ロベスピエール編 1

∵1793年7月 靴屋のシモンがルイ・シャルルの教育係りとなってルイ16世の居室だった部屋に移される。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月

記事 マリー・アントワンネット 記事紹介
記事 アントワネットの子供達 18世紀の子供達
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

∵1793年8月、マリー・アントワネットがコンシェルジュリーへ移送。

過去記事 コンシエルジュリー 囚人のマリー・アントワネット

∵1793年10月、マリー・アントワネットの裁判、処刑。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月

記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル、ジャック=ルネ・エベールは、ロベスピエールが指導者だった恐怖政治のなかでの革命裁判で、恐れられた二人でした。

記事 フランス革命下の囚人たち

記事 フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

この先もいろいろな人物、マリー・テレーズに関しても更新していくつもりです。友人たちのブログ記事もリンクしていきますね。



姉マリー・クリスティーナ?アントワネットにもみえますが。


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マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
今回の記事はジャック・ブロス編集 マリー=テレーズ王女の回想録−王家の幽閉生活に関して、1792年8月10日から弟の死まで−からの引用と要約です。

引用の要約はすべて楓ですので、そのまま本書と比べていただくと困ります。大幅な略がありで、楓が知りたいことだけをトピックしているからです。また読み違えや勘違いもあるかもしれません。

ただし、翻訳の吉田春海さんの訳、文章の調子は変えていません。要約のため言い回しを変えています。

そのためこの記事を引用される方は、楓が文責であること、また著作、訳者、出典元を明記してください。
本題にはいりたいと思います。今日の記事はランバル公妃惨殺までを。

処刑された父と母。そのあとタンブル塔に一人残されたマリー・テレーズは、その悲痛な出来事を綴ります。

1795年、12月18日の夜、半年前に王女の付き添いになったシャントレンヌに別れを告げ、「両手いっぱいのしわくちゃな紙を夫人にそっと手渡した」のが、この回想録です。

ジャック・ブロスは語っています。

非のうちどころがない国王一家が殉教したという美化の回想録だ。批判的態度で読む必要があると。

しかし、彼らの苦悩を知り、タンブル塔の謎に可能な限りせまることができる。

そうです。こうだった、あだったという美化や美談は史実には必要ありません。真実です。

ルイ16世一家の真実は、のちに回想録なども手を加えられ、真実は告げられませんけれど、人の苦悩と悲痛な思いは知ることができるのです。

私はルイ16世、マリー・アントワネットは有罪だと思っています。

(私は少女漫画脳、ロマンス小説脳を併せ持つので、マリー・アントワネット大好きなんですよ!でも有罪です!)

それでも有罪者である二人の悲痛と苦悩、その家族とタンブル塔に連れて行かれた人々の過酷な運命を知るべきだと思っています。


ジャック・ブロス編集 マリー=テレーズ王女の回想録
−王家の幽閉生活に関して、1792年8月10日から弟の死まで−

 
序 ジャック・ブロス

Marie Antoinett Archduchess of Austria and Queen of France - Her Children Marie Thérèse Charlotte of France, Madame Royale

マリー・アントワネットの娘
マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス
(Marie Thérèse Charlotte de France)


アングレーム公爵夫人となったマリー・テレーズは、その原稿を父の従僕だったクレリーを通して取り戻し、写しをつくってスーシー夫人に預けますが、スーシー夫人はそれを出版。マリー・テレーズは大半を買い戻し破棄。1789年に王家が体験した出来事を加え完成させた。

だが、語り手は1789年当時、まだほんの子供にすぎなかった。しかし訂正や注釈が加えられていないものは1792年の9月2日で途切れている。


 
私の父、国王陛下は1792年8月13日、夜7時、家族と共にタンプルに着いた。

(略)

父と私たちは午前一時に塔へ案内されたが、塔の準備は何もできていなかった。叔母はキッチンで寝た。

(略)

ここで、私たちと一緒にその陰気な住まいに監禁された人たちの名前を挙げておこう。ランバル公妃、トゥールゼル夫人と娘ポリーヌ。国王付きの従僕、ユーさんとシャミィさん、叔母の侍女ナヴァール夫人。弟の侍女サン=ブリース夫人。母の侍女チボー夫人と私の侍女バジル夫人。

(略)

父は弟に地理を教え、母は歴史と詩、叔母は算術の手ほどきをした。運良く図書室があったので、父は読書に余念がなかった。母はよくつづれ織りを織った。

役人たちはなれなれしく、父にほとんど敬意を払わなかった。

8月19日から20日にかけて、ユーさんとシャミィさんが連れ去られ、ランバル夫人を連れ去ろうとした。

公妃は王族だと母は強く抗議したが連れて行かれた。

Marie Antoinette, Queen of the French, 1792 by Alexandre Kucharski

母 フランス王妃マリー・アントワネット 1792


母はランバル公妃の腕からなかなか離れられなかった。そして私たちの女官と抱擁した。私たち四人は眠れぬ夜を過ごした。

あくる日の七時、女官たちはフォルス監獄へ連行されたという知らせ。ユーさんは無実だと認められタンブル塔に送り返された。

母と弟、私は叔母と、父は上の階の部屋が当てられた。朝食は父の部屋で、朝食がすむと父と一緒に母の部屋へ降り、一日を過ごす。

父はいつも番兵から侮辱を受けた。

聖ルイの日には、朝七時にタンプル塔のそばでサ・イラ(革命の歌)の歌声があがった。

その日の朝、一人の役人から、ラ・ファイエットさんがフランスを離れたことを知らされた。マニュエルはその話しは本当だと告げ、外から受け取る最後の手紙となったローマの叔母様たち(アデライド王女、ヴィクトワール王女)の手紙を受け取った。

国王の称号を剥奪された父はムッシュー、ルイとよばれ、敬意は払われない。

その父の従僕としてクレリーが、父の世話をするため送られてきた。

そして鍵番兼看守にあの恐ろしい男(ロシェ)をよこした。

その男はわざとマルマニョールを歌い、父と母にパイプの煙を吹きかけたり、王妃の頭をぶったたくなどの悪口。

父は黙々と辛抱し、心から男を許していた。母は尊敬せずにはいられないほど毅然として耐えていた。

9月2日、窓から父に向かって石が投げられた。役人には気付かれなかったが、叔母は、味方と思われる婦人が「ヴェルダン陥落」と書いて窓辺に置いたのを読んだ。

ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe 


9月3日、朝八時にマニュエルがランバル夫人をはじめフォルス監獄で平穏無事に暮らしていると告げる。(この時点では事実。詳細はこちら→過去記事 「ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸」から)

三時、凄まじい悲鳴が聞こえた。父は何気ない振りで話しをするために母とゲームをする。監視の役人は機転を利かせ扉と窓を閉める。

その騒ぎにタンプル塔の人夫、あの恐ろしい男ロシェが加わった。

衛兵隊、士官の役人が部屋に入ってくる。「ランバル夫人の首を持ってきたのさ。」

母が度を失ったのはそのとき一度きりだ。

監視の役人は士官をたしなめたが、父は尋ねた私が悪いと詫びる。

騒ぎは五時まで続いた。

六人の人殺しは首を掲げて塔を一周する。夫人の切り離された遺体は入り口に置かれた。ロシェはランバル夫人の首を見てしきりに歓声をあげる。

母は部屋の中の出来事などひとつも目にはいらず、じっと立ったままだった。

叔母と私は一晩中、非常呼集の太鼓の音を聞いていた。

母のすすり泣く声。

私たちは虐殺がまだ続いているとは思っていなかった。三日間続いたと知ったのはしばらくたってからだった。
| マリー・アントワネット | 21:31 | comments(6) | trackbacks(2) | pookmark |
マリー・アントワネット フランス紀行から


旧約聖書にある「土地に植えたある種穀と樹木の果実とを問わず、その十分の一は神のものなり」をご存知の皆様も多いでしょう。

ルイ16世とマリー・アントワネットの時代の農民にも、収穫に対して十分の一税が教会に収めるようになっています。教会側はそのほかに維持費、祭礼費、救済費と負担しなければなりません。

それでは、国と領主への「租税」はどうだったのでしょうか。

教会に十分の一税とすると、領主には十分の三、国には十分の二となり、不幸にも収穫が不作だったと考えて10束とすると半分以上が手元からなくなります。

田畑を維持するには、来年の種子用と耕作用を貯金しておかなければなりません。つまり、手元にあっても生活の糧にすることも、売ることもできないのです。売るにも税金が課税されるからです。


そう考えると、10束を収穫としていますから、生活の糧の収穫が「0」ということになるのです。

第3身分の税金は、さらにタイユ税、所得税、裁判料、通行税、バナリテ (領主が独占所有するパン焼き釜やブドウ圧搾器、水車などの使用料)、市場税、対物税などを収めなければなりません。
国三部会開催への第三身分の陳情書

農作物を荒す狩猟場、野兎生育場、鳩小屋の規制
農奴制の残存物の廃止
教会に納める十分の一税の撤廃
市民的平等
政府や官吏の浪費、国庫の濫用
官職の売買や世襲の禁止
間接税の弊害
土地台帳と直接税の是正
度量衡の統一
国内関税の撤廃

King Louis XVI with Marie Antoinette

ルイ16世とマリー・アントワネット


作品のマリー・アントワネットが抱いているのルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ?それともはでしょうか。農民のような少女。その横には第1王女マリー・テレーズ?

農民の少女に施しを与えるマリー・アントワネット。こうした王妃の善行も、ルイ14世、ルイ15世による国庫の財政難のための改革には、異を唱えるという矛盾を繰り返します。

英国人アーサー・ヤングは、友人ラゾウスキからラ・ロシュフコー公ファミリー(ラ・ロシュフコー箴言集で有名な!) とピレネー山脈の旅行に誘われたのがきっかけで、はじめてきたのが1787年です。
はじめてルイ16世と王妃マリー・アントワネットをみた印象がフランス紀行に書かれています。
1787年5月27日
(フランス紀行より要約で、引用ではないので本文に忠実ではありません。)

[ヴェルサイユにて]

Marie Antoinette-children-1785-6


アルトワ伯の子息、ベリー公に国王が青綬章を授与した。王妃付の楽団が礼拝堂で演奏したが貧弱で不十分。

国王の無頓着ぶりから狩にいけなくて残念そうだった。儀式が終わると国王が食事をする小部屋へ歩いていった。

王妃はさまざまな表情をして彼らを迎えた。ついでながら、王妃は今日私がみたうちの一番の美人である。

ある人には微笑み、ある人には話しかけ、数人はそれ以上に親しく、ある人には形式的に、ある人にはよそよそしく。

国王が大衆の面前で食事をする儀式は奇妙である。王妃は何も食べなかった。私が君主なら、こうしたばかげた形式のほとんどを取り上げてしまう。

しかしヴェルサイユ宮殿は少しも人の心を打ちはしない。

夕方、サン=クルーのオペラ座に行く。そこで王妃が造営中の宮殿も見た。気に入らない点がたくさんある。


「空っぽな頭」といわれる王妃マリー・アントワネットは、王妃に支給される費用の削減案、そして王族たちに課せられる税金の財政計画に反対したため、成果がなかったのです。

それどころか、王妃の取り巻きたちの役職を優先し、多額の報酬を与えたため、ますます国庫が苦しくなるわけですね。

それが取り巻きたちの「あの手この手」で若い王妃は篭絡されたのだから仕方がないのでしょうか。

王妃として自分の支給される費用、決められた衣装代などを少しでも減額に応じるなどの行為を示すことで、「浪費家」といういわれのない汚名は防ぐこともできましたのに。

1789年6月13日 3度目のフランス旅行 アーサー・ヤング
(フランス紀行より要約 引用ではないので本文に忠実ではありません。)

三部会の危機がもたらすことへの期待の声が聞こえる。内閣など存在しないというのが一致した意見。

Louis XVI
Louis XVI


王妃はアルトワ伯をすえた諸侯の党派と親しく、彼らはネッケル氏に敵意を抱いている。

この世で最も正直な国王には正しいことをしたいという気持ちがあるが、困難を見抜き、避ける決断力がないのでどんな忠告に耳を貸したらよいかわからなくなる。

ネッケル氏に不利だという噂があるが、本当ではあるまい。

ヴェルサイユで非公式の庭園を散歩中のネッケル夫人に対し、王妃の取り巻きが彼女に「しっしっ」とさえ言ったという。話半分で聞いても、すみやかに辞めるのは大臣のほうだろう。

ネッケル氏は一定の計画を持たなかったばかりにあらゆる国難の原因になったという。ただ彼の親しい友人たちは王権にも、民衆の生活状態の改善にも誠意はあったという。

ただし絶好の機会をみすみす失った。

MON PIED DE BOEUF by BOILLY Louis Léopold

ルイ=レオポルド・ボワリー(Louis-Leopold Boilly)
ディティールです。


過酷な労働と飢え。硬い皮膚と深い皺の農民の女たち。すべてが失われ、泣き叫ぶ赤子にお乳を与えることもできない。作品の女性も貧困に疲労しきっています。

1789年7月12日 
(参考: フランス紀行 アーサー・ヤング より)

長い坂の途中、一人のみすぼらしい婦人といっしょになる。彼女の夫に与えられているのはほんの一片の土地と一頭の雌牛と貧相な子馬。それなのにタイユ税、諸税と領主に1フランシャールの小麦と三羽の若鶏を地代として、別な領主には4フランシャールのオート麦と1羽の若鶏と1スーを支払わなければならないという。

「神様がもっと、よくしてくださるでしょう。」とその婦人はいう。年齢は60あるいは70位だろうか。

偉い人々がこのような哀れな人々のために何かをしなければなるまい。しかし、彼女は誰がどのようにしてやってくれるのか、知らなかった。

「貧しい農民の家族」 ル・ナン3兄弟


その婦人は腰が曲がり、労苦で顔に皺があり、こわばっていた。

しかし彼女は実際に28歳だったのだ。

両王国における下層民のこうした風俗の格差を何に帰したらよいのだろう。政府にだ。−23マイル
みすぼらしいという農民たちの衣服は、死んだ誰かの服をお下がりで着るため、たとえば病気で亡くなった人の衣服だと感染する危険もあったようです。

不衛生で貧しく、子供は20歳までの生存は50%に見たず、60歳までの生存は20%に満たないのです。平均寿命が25歳と35歳説がありますが、どちらにしても、花の命は限りなく短かったのです。

さらに18世紀後半のフランスの乳児、幼児の死亡率と考えると、
1歳未満の乳児の死亡率は25%、フランス全土の幼児死亡率は25.6%です。4人に1人の乳児が、1歳の誕生日を前に亡くなっているのです。

Gainsborough, Girl Gathering Faggots (Daughter of the Abdy family) 1782


作品はゲインズボローの描いた農民の少女。

フランスの農民は、「自耕自給」がほとんどです。地主は不在地主の貴族たち。ですから、田畑を耕し収穫するものが生活の糧ですが、重税に飢饉となるとどうなるでしょう。

1787年6月1日
(アーサー・ヤング フランス紀行より要約)

惨めな農村地がラ・ロージェまで続く。

神は私にぐっとこれえる辛抱強さをさずけてくださり、持ち主の不在と無頓着ぶりにあびせる私の呪いを大目にみてくださる

1787-88年の飢饉は歴史に残ります。

ルイ16世の農民への「施し」


「悲惨な収穫の後に最悪の時期は来る。たいてい翌年の初夏の頃だ。それは収穫された穀物が底をつくからだ。そして今年の収穫の時期はまだ来ない。」

この飢饉のために、王妃は慈善事業を支援します。銀食器類などをチャリティーで大麦パンに変えるために。

自然回帰のパーマカルチャーは、自分たちで家を建て、生態系を破壊しないよううに田畑や庭をつくり、暮らしの全てを手工業のように手作りをする、そんな「永続可能な文化」を提唱していますが、この時代の飢饉と厳冬はそんな文化とはかけ離れています。

あの日。マリー・アントワネットの結婚式当日のこと。不吉の一つといわれたセレモニーの「嵐」は、このルイ16世時代の3度の飢饉を予告していたのでしょうか。

Richard Westall, A Peasant Boy, c. 1794

リチャード・ウェストール(Richard Westall)
「農民の少年」

一度目のフランス旅行のアーサー・ヤングは、作品の少年のような人々をみて日記に記しています。

1787年6月10日(フランス紀行より要約)

ぺラックを通る。ついぞ見なかった多くの乞食に会う。乞食も立ち働く農夫も靴や靴下をはいていない。これは根底から打撃を加える貧困である。

貧民による大量消費が富裕者によるそれより重要だ。ポン=デ=ロデスを通り、数軒の小屋を通る。ガラスが1枚も入っていない。マニファクチャなしの国が果たして繁栄できるだろうか。雌牛の飼料は雑草。もうひとつの貧困だ。


アーサー・ヤングは最初の年に、美しい農園に心打たれることは稀で、貧困の農村を見てやるせない気持ちを抱いています。



Jean-Baptiste Siméon Chardin

フランス紀行より要約

1787年5月17日
この日記で農業を講義するつもりはないが、耕作方法がまったくひどい。小麦は雑草と混じり、土地は休閑。フランス人には人にみせるだけの農業がないとしても道路がある。忌まわしい夫役についてしらなかったら、ほめそやしかねないところである。彼らの強制労働からこの偉業は絞り出された。雌牛にやる牧草や雑草を森で摘む婦人たちは貧困の象徴である。

5月31日
悲しきソローニューという貧困な地方に入る。強度の遅霜。ここの貧農は、分益小作農。

つまり経営資本をもっていないのに土地を貸借する人である。土地所有者は役畜と種子を提供してやらざるを得ない。彼と小作農が作物を分ける。貧困を永続化し、農業技術の導入をさまたげる悲惨なやり方だ。

Jean-Baptiste-Siméon Chardin

Jean-Baptiste-Siméon Chardin
(どちらかというと貧農ではない暮らし)


6月6日
リモージュにて。当地の農業協会は愚にもつかぬものを刊行している。

なぜなら農民は全く文字が読めないのに。

教育水準の低さ!

会員に自分で土地を経営しているかを聞いた。屋敷の周辺に分益小作農を置いて、土地を貸すことを経営することだと思っているのであった。

なんのことはない、彼らは全農村の災いと荒廃の原因になっている。まさにあの賃貸様式を自慢しているのである。

6月8日
イギリス人の目にとてつもない光景がはいる。ガラスのない窓。多数の家屋の光景である。



1774年にマリー・アントワネットが王妃になり、「王妃の飾り帯」という国民から祝い金を贈る風習を廃止したのがルイ16世です。

このときのマリー・アントワネットは自らも「王妃はもう飾り帯を締めることはないでしょう。」と感銘を与える名文句を残しています。

ルイ16世とマリー・アントワネットは、病気や高齢者を保護する「博愛の家(メゾン・フィランソロピー)」を後援し、農民のために撒きや毛布をはじめ施しものの配布し、じゃがいもの普及の支援に努めるのです。

実際の農民は、いったい誰が施してくれているのかを知っていたのでしょうか。

1789年1月4日(アーサー・ヤング フランス紀行)

チュイルリー宮殿を散歩。ここではいま、異例の光景を目にする。国王は6人のブルジョワ民兵の近衛兵と1〜2名の宮内官、そして一人の小姓と散歩している。王妃は一人の女官とブルジョワ衛兵。

Marie Antoinette


国王の散歩の時には閉め切った庭園の戸扉は、国王が宮殿に入ると開けられる。王妃はまだ散歩をしているのに。

開かれた扉から一団がくる。王妃が通ると帽子を脱ぐが敬意を示さない。これは私の想像以上だった。

王妃は身体の調子が良くないようで、たいへん大儀そうだ。

囲みの小さな遊び場には近衛兵が二人。皇太子が遊んでいた。5、6歳で感じのよい、とても可愛い気立てのよさそうな少年。すべての人が敬意をあらわし帽子をとる。それを見て、私はたいへん嬉しかった。

しかし国民が革命の嵐でつかんだ自由を確保するために、あらゆる手段を取ったからと非難できない。

Le Pigeonnier (Le Moulin de Charenton) by Francois Boucher

Le Moulin de Charenton by Francois Boucher
「鳩小屋」( シャラントンの水車小屋)
フランソワ・ブーシェ 1750-51


最近、フランソワ・ブーシェの作品を観て、この画家は風俗の格差を痛烈に描いているのでは?と思うようになりました。

この「鳩小屋(コロンビエ)」が、単なる「古典的叙情性を感じさせる風景画」ではないと考えました。

連作のような「水車小屋」、「森」ですが、この主題のものは、当時のフランス農民を苦しめた税にほかなりません。

第3身分が収める税は、貴族の特権をも象徴します。

この「鳩小屋」は、領主権にあるワイン醸造、狩猟、漁撈権と同じ領主の独占権にあたります。そして農民に対しての領主の使用強制権にあたる水車。

鳩小屋の独占権ってなんでしょ?食材?儀式用?それともノアの箱舟にあるように伝書の務め?

伝書が郵便制度と同じ性質を持っているのなら、幌馬車の郵便制度より安いから?あるいは軍事用の伝達だったのでしょうか。

Le Moulin Description

Le Moulin   by Francois Boucher
「水車小屋」 フランソワ・ブーシェ 1750-51


水車小屋は領主のもの。領主の水車を借りて、小麦粉を作るときの水車小屋使用料を支払わなければなりません。

フランソワ・ブーシェの描く風景は、ルイ15世の時代です。この時代にダルヌヴィルは「二十分の一税」を導入しました。

ブーシェの描いた水車小屋は1750年代のフランス。1789年、イギリスのアーサー・ヤングのこの日の日記をお読みくださると領主と農民の税金がよくわかると思います。

1789年8月7日(フランス旅行記より要約なので本文に忠実ではありません。)

明日、ムランから8マイル離れたデ・グッド候の売り地を見に行くことになった。

デ・グッド候の城館に隣接している土地は6アルパン。半分は菜園、半分は果樹園。そして12の池。年額1000リーブルで賃貸に出される二つの水車。

小川はコイ、テンナ、スズキ、ウナギがとれて所有者の食卓をにぎわすし、1000リーブルの定期的な収入がある。

上等なぶどう酒を産する畑と栽培者の家。城館の燃料に十分な森林、収穫物の半分を小作料にした分益小作農、自由小作農に借地にだされる9つの小作地。

Queens Boudoir at the Petit Trianon, a painting by John Claude Nattes

プチ・トリアノン
by John Claude Nattes


それらは金額に換算して15,000リーブルをもたらす。

したがって小作地、水車、そして魚の純益は12,500リーブルになる。

支出は地租、修繕費、一切の領主的権利と上級裁判権があるためギャルド・ド・シャス(狩場の番人)を雇い、土地管理人のための出費、ブドウ酒醸造の費用当は地主負担で、約4400リーブルになる。故にこの所領の年収は純益で8000リーブル強になる。

所領で飼っている羊1000頭、雌牛60頭、雄牛72頭、雌馬9頭、それに豚多数分が入っている
こういう仕組みなんですね。

15世紀後半には、タイユ税(taille)、間接税(aids) そして塩税(gabelle)といった税は国王の利益のために恒常化され、17世紀後半から18世紀には人頭税、十分の一税(dixième)、二十分の一税(vingtième)といった直接税そして多くの間接税がの設けられた。 by wiki

eanne Marie ou Manon Phlipon, vicomtesse Roland de la Platière

グレース・エリオット
オルレアン公ルイ・フィリップ2世の愛妾
王党派を支援、オルレアン公は反王妃派


デ・グッド候の土地を売る話から、税から得た純益で潤される領主の生活と税金の種類や領主権がよく理解できました。

貴族は村の共有地を三分割令によって、三分の一を自分の所有にし、土地台帳に基づかない十分の三の収穫を徴収します。

三圃制農業は冬穀・夏穀・休耕地のローテーションで、休耕地は放牧がされますが、厳しい冬には家畜を飼うことが困難で、とくにルイ16世の治世には霜や雹、セーヌ川の川底が23日間完全凍結するなどの異常な気候が原因のひとつです。

98%を占めるフランスの第3身分(市民)にも、ブルジョワ層(富裕な商工業者や銀行家)、知識層(弁護士や医者や文筆家ほか専門的職業)がいますが、フランスの80%を占める農民がこの第3身分に所属しています。

第3身分 ブルジョワ層
モードの商人
マリー・アンワネットのドレス ローズ・ベルタン

Jean Meslier (15 January 1664 ? 1729) Church of Étrépigny.

Étrépigny, l'église dont Jean Meslier
était curé de 1689 à 1729 by wiki


ヴォルテールは、片田舎の司祭ジャン・メリエ(農民出身)の「覚え書」を 抜粋して出版しました。その覚書には不平等と圧政に対して立ち上がるよう民衆へ呼びかける啓蒙思想とキリスト教を非難した遺書ともいえる手記。写真はジャン・メリノのいたエトラピギニー教会?です。
特権階級は
王族と第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)は税金を支払う義務がありません。

特権階級は俸給のほか御下賜金拝受、領主権などのさまざまな特権があり、第三身分からの税金だけでも純益がでます。

特権階級 女官長
ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸
第三身分は
第三身分(平民)は、権利が無く、重税の義務があります。

Hauer, Jacques (1751-1829) - General Lafayette and Madame Roland

第2身分 ラファイエット侯爵
第3身分 知識層 ロラン夫人
「ラファイエット侯爵とロラン夫人」



大寒冷化現象などの気候によって飢饉になり、不作で貧しい生活が続くなか重税を納めなくてはなりません。

ルイ16世は、ジャガイモ普及、王妃の寄付あつめ、施設の支援、毛布や薪の配布などに援助しました。これでは慈善事業にほかなりませんよね。

第3身分の銀行家のジャック・ネッケルは王妃マリー・アントワネットとその寵臣に質素倹約を進言しますが、アンシャン・レジーム( Ancien régime)の社会では疎まれ、罷免されます。後任のカロンヌ、ロメニー・ド・ブリエンヌは貴族に課税を試みますが、やはり失敗。またまたネッケルですが、三部会の開催を就任の条件とするのです。

アーサー・ヤングの日記にありましたね。「ただし絶好の機会をみすみす失った。」と。

アンシャン・レジーム側の王族の王妃たち、貴族は利権を手放すことを拒否します。

Marie Antoinette als die Muse Erato

革命前年の王妃の肖像画
エラトーに扮するマリー・アントワネット 1788年
 Marie Antoinette als die Muse Erato


国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが、国を治め、永続的な国家をつくりあげるための考えがなかったのですね。慈善事業と同じように考えていたのでしょうか。

いろいろとアントワネットの誤解や捏造があったようですが、それはモラルのことですよね。レズビアン、近親相姦などなど酷い中身。

ですが、断頭台での処刑は、そういった誤解が原因ではありません。嫌悪感を高めることにはなったでしょうけれど。

結局、国を救えなかったことです。平民の暮らしの水準が極限まで低下していて、改革を試みなかったことなのです。

1789年の選挙で農民や民衆は社会の仕組みを理解するようになったのですから。

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マリー・アントワネット テアトロマニーの時代

Le petit Theatre de la Reine

王妃の劇場 1780 建築家リシャール・ミック


劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732-1799)は、1775年、三部作となる最初の戯曲セビリアの理髪師(Le Barbier de Séville)を書き上げます。作曲はロッシーニが有名ですね。

1784年、フィガロの結婚 (La Folle journée ou Le Mariage de Figaro)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作曲。

これは「アンシャン・レジーム」に対する痛烈な批判。つまり王制社会と貴族たちの告発をしている戯曲です。

アントワネットは、王太子ルイ・オーギュストとの結婚式までの道のりで、「フィガロの結婚」の「セビリアの理髪師」を観劇し、大公女らしくない笑いに、側近はあきれたというほど。

1774年、ルイ15世が亡くなったあと、自らセビリアの理髪師に登場するロジーナを演じています。

とにかくアントワネットはセビリアの理髪師が大好きで、貴族を痛烈に批判したこの作品の上演を強行におこなったのです。ロジーナを演じたマリー・アントワネット。失笑と怒りの観客たち。

王妃の賭け事、仮装舞踏会も第1王女が誕生してからは、控えめになったというものの、この当時で賭博の借金は50万リーブル近く。

Maria Antonietta suona larpa nella sua stanza a Versailles1777 by Jean-Baptiste Gautier Dagoty Musée national des Châteaux de Versailles et de Trianon

ヴェルサイユでハープを弾くマリー・アントワネット
1777年 ヴェルサイユ宮殿・トリアノン
ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ


宝石、服飾の熱中はタンプル塔へ幽閉されても止りませんでした。

王妃が子供の誕生以来浪費が止ったというのは、舞踏会や賭博からプチ・トリアノン、そしてこの演劇に傾倒していったからなのです。

建築家リシャール・ミックと画家ユベール・ロベール、植物学者クロード・リシャール達がプチ・トリアンをつくり上げたのです。

1780年、この王妃の劇場が完成しました。王妃のお気に入りだけが許されるトリアノン。

プチ・トリアノンジャン・ジャック・ルソーの「自然回帰をテーマにした建築と庭園」と言われていますが、ルソーの思想を根本的に取り違えています。それでも王妃の劇場ではルソーの作品が上演されたそうですよ(苦笑)。「村の占い師」とかでしょうか。

アカデミー・フランセーズのミシェル=ジャン・スデーヌ(1719∼1797)は、ジャン=ニコラ・ブイイの「レオノーレまたは夫婦の愛」の脚本も手がけています。1787年の「ダルベール伯爵」(グレトリー作曲)もこのレオノーレから。

これはルイ14世時代にあった実話がもとにブイイは物語を書いたのですが、スデーヌはこの物語で、男装して無実の罪で囚われた夫を救出する場面を戯曲にしています。

これも権力への告発を主題にしているもので、フィガロの結婚を好んでいるアントワネットにとっては、この作品にも政治的意図を読み取る力がなかったのかもしれません。(この戯曲が上演されたという記録はありません。)

Portrait en pied de la marquise de Pompadour Maurice Quentin de La Tour

ポンパドゥール夫人 1755年 ルーヴル美術館蔵
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール


先代の宮廷で、ロココ文化をつくり上げたポンパドゥール夫人。彼女との違いは何だったのでしょうか。

ラモーのオペラ、ラシーヌ、モリエールらのフランスの古典主義の作品、スペインの音楽バレエ、ヴォルテールの戯曲で、貴族たちの子女らが集まった宮中演劇を催し、絵画の巨匠たちが肖像画を描き、百科全書をはじめ啓蒙思想家たちのパトロンになり、セーヴルの窯を発展させ、ロココにポンパドゥール様式を残しました。

アントワネットは、当時の文学や思想、そして芸術のパトロンとして名を残すことがありませんでした。

ポンパドゥール夫人は浪費を文化にも残すほどの名誉欲を持っていましたが、アントワネットは自分の楽しみだけに費やしたのですね。つまり公妾ポンパドゥール夫人の「文化」と王妃アントワネットの「娯楽」の違いです。

そして思想。政治的配慮、政治的意図、政治的立場を考えたポンパドゥール夫人とは大違いで、面白ければいいという、政治的に無頓着なアントワネット。

こうした啓蒙思想、権力への告発になるようなオペラも平気で上演した王妃。

「空っぽな頭」とアントワネットを呼んだのは、ほかでもないヨーゼフ2世だったのです。
| マリー・アントワネット | 18:29 | - | - | pookmark |
マリー・アントワネットが愛したもの
Jean-François Janinet (1752-1814) マリー・アントワネット(1777)21歳のアントワネット「これはフランス王妃の肖像画ではなく、派手に着飾った女優の絵!」と、母マリア・テレジアは、アントワネットの送られた肖像画をみて愕然としました。いったいどの肖像画だったのでしょうか。

王太子ルイのもとへ14歳で嫁ぎ、マリー・アントーニアから、マリー・アントワネットと呼ばれるようになったのは、1770年。
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王大子妃 マリー・アントワネット
ハプスブルグ家 マリア・アントーニア

クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
この肖像画は(タイトル、画家は、画像にカーソルをあわせてください。)、すでに王妃となった7年後の、21〜2歳のとき。あのオスカルを近衛連隊長に願いでたのは、王妃となった5年前ということで、16歳の頃ですね。(笑)この肖像画は、下のジャン・バティスト・ゴーティエ・ダゴティのフランス王妃の左右を逆に描いています。



Portrait of Marie Antoinette Queen of France Jacques Fabien Gautier d'Agoty

作品「マリー・アントワネット」の肖像画の画家はこちら
ゴーティェ・ダゴディ 二人の画家
フランス王妃となったマリー・アントワネットの肖像画です。アントワネットは、奢侈に身を費やしました。そのために「首飾り事件」などに巻き込まれていきます。宮廷生活を楽しみ、フェルゼンとの恋もあったとしても、マリー・アントワネットの求めた王妃像は、美しく慈悲心にあふれた王妃であり、その理想に近づこうと、努力を怠らなかったという擁護の言葉もあります。



左:「Marie Antoinette at the age of 12」Archduchess Marie Antoinette Habsburg-Lotharingen  中央:Marie Antoinette. Kreide-Rötel-Zeichnung von J. E. Liotard, 1762 (Gottfried-Keller-Stiftung, Genf) 右:Marie Antoinette Daughter of Emperor Francis I and Maria Theresa of Austria ジャン・エティエンヌ・リオタール

左から、12歳、7歳ですが、右は3歳〜5歳くらいでしょうか。23歳にして若き君主となった「女帝マリア・テレジア」の末娘として育てられた時代。この頃からクグロフが好きだったのでしょうか。



Marie Antoinette Sitting for a Portrait in Her Bedroom Jacques Fabien Gautier d'Agoty ジャン・バティスト・ゴーティエ・ダゴティ王太子ルイのもとへ嫁いだあと。邦題にピアノを弾くとある肖像画がありますが、「フォルテピアノ」かも。求愛されたモーツァルトが、ウィーンのシュタインのピアノを手に入れるのが、王妃となる1777年のこと。彼女も作曲の才能があり、C'est mon ami (それは私の恋人)など、フロリアンの詩に12曲程、現存しているそう。絵は、ベッドルームでハープを弾くアントワネットです。



Joseph Ducreux マリー・アントワネット(1769) 14歳のアントワネット14歳の頃。ヴェルモン神父にフランス語を学び、母国語のほか、イタリア語(ラテン後)も堪能だったそうです。この思春期にはいったばかりの少女が、翌年に異国へと嫁ぎます。孤独を感じないはずがありません。思惑がどうであれ、取り巻きを「やさしい」と思い、信頼を寄せていく。ランバル公妃ポリニャック夫人、王弟アルトワ伯爵、そしてフェルゼン卿へ。


追記
マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世の手紙に、彼らの取り巻きについての意見が述べられています。下記リンク記事で、「注釈」のところにありますが、さすがオーストリア皇帝の洞察力!

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月


甘言で、奢侈に走らせた彼らこそが、もっとも華やかな宮廷生活を送ったのではないでしょうか。事実、それを指摘する貴族を追放させています。この追放された貴族達がマリー・アントワネットへの憎悪を煽ります。

A Fine And Important Miniature Of Queen Marie-Antoinetteローズ・ベルタン嬢につくらせたトリアノン・スタイルでしょうか。エンパイア・ドレス風のシュミーズ・ドレス、白・緑・うす紫・青というブルー系、そして矢車菊の食器などを好んだアントワネット。牧歌的なプチ・トリアノンの庭にはローズ等の花々を植えさせ、その香りを楽しんだそうです。

その庭には、ロサ・セイティフォリアは植えられていたのでしょうか。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの描いた、何枚ものアントワネットの肖像画で手にしている薔薇の花。それがロサ・セイティフォリアらしい。



Marie Antoinette (1755-93) with a Rose, (1783) 28歳のアントワネット資生堂限定のロイヤル・ローズに使われているのが、ロサ・セイティフォリア。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの描いたアントワネットが手にしています。彼女は、アントワネットの肖像画を次々と描いていきます。でも、ヴィジェ=ルブランの描くアントワネットは、どれもマネキンで、ほかの肖像画より魅力を感じません。

彼女は、アントワネットに好意を持っていなかったのでしょうか。ヴィジェ=ルブラン自身の自画像は、素晴らしく美しいのに・・・。(この肖像画の2年後、1785年に首飾り事件が起こります。)



このヴィジェ=ルブランの描いたアントワネットの肖像画を中心に、薔薇の花を集めてみました。下の段の中央は、ロサ・セイティフォリア。


この薔薇はロサ・セイティフォリア系で、たくさんのロサ・セイティフォリアと名がつく薔薇があります。ルイ16世王妃マリー=アントワネットの博物蒐集室付素描画家の称号を得たルドゥーテ。のちにジョセフィーヌ皇后の庇護を得るのですが、彼の描いた花と野生のロサ・セイティフォリアを、こちらからご覧ください。とても綺麗です。



portrait_of_marieantoinette_de_habsbourgこの可憐なアントワネットは、フランスには愛されませんでした。ジャン・ジャック・ルソーが「告白録」の中で、「偉大な王女の言葉」として「Qu'ils mangent de la brioche」-(パンがなければ)彼らにブリオッシュを食べさせなさいと言ったことを記しています。1740年のことです。ルイ15世の娘、アデレイド内親王が言った台詞は、そこから拾ったのでしょう。

ご存知のように、それはアントワネットの言葉として広がりました。ルイ14世、アントワネットを憎む民衆たち。革命側が事実を捻じ曲げて伝えた成果です。
実際の平民の生活
マリー・アントワネット フランス紀行から
Marie-Antoinette


そうして、王太子ルイ・ジョゼフが7歳で亡くなったとき、葬儀が出せないほど財政が悪化しているのを、アントワネットは初めて知るのです。そして1789年、フランス革命勃発。1791年、タンプル塔に幽閉。ルイ・オーギュストの事を最も愛していたアントワネットと子供達は、つかの間の家族愛を確かめ合います。生き延びた姉マダム・ロワイヤルが最後まで沈黙したのは、ルイ17世(ルイ・シャルル)の行方。


こうした彼女は「悲劇の女王」なのかもしれませんが、断頭台での毅然としていたアントワネットは「誇り高き女王」であり、民衆の憎悪に対して、美しく慈悲心にあふれた王妃であったのでしょう。悲劇とするなら、政治に無関心でありながら、民衆に愛されたい思ったこと。結局、愛したものに愛されなかった。フランスという国、そして民衆に。

こうして憎悪の対象となった「オーストリア女」の王妃マリー・アントワネット。

王妃もフランスの民衆に憎悪を抱かれ、マリー・アントワネットもフランスの国民に対して、深い失望と復讐を心に誓うのです。

民衆の憎悪の中傷はあくまでも中傷。中傷は罪状にはなりませんよね。

マリー・アントワネットの罪状は。

∵諸外国をフランス革命に介入させる陰謀。
∵諸外国の介入でフランスを壊滅させるために敵国と内通。
∵国外へ亡命し、フランスを攻撃する計画(ヴァレンヌの逃亡)。

裁判では、こうした罪状の証拠が遅れて届かず、あせった検事側が捏造したのが「母子姦通」なんですね。

はやくから、マリー・アントワネットが内通していたことに、女性の権利を提唱したオランプ・ド・グージュ。このオランプこそ、「王妃の内通」を言い続けた人なんですね。

そして王妃の処刑。1793年10月16日。

「早くすませて下さい。」 最後にアントワネットは、そう言ったのです。

追記:アントワネットの遺書 エリザベート王女へ
記事 「エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から

 マリー・アントワネット関連記事 その1

Marie Antoinette Portraits
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薔薇 ロサ・センティフォリア
アントワネットのショコラ ドゥボーブ・エ・ガレ
記事をご紹介していただきました。
アントワネットが愛した薔薇 ロサ・センティフォリア

「blog 英文 ダウジング翻訳のメモ」さまですが、知識のひろさを痛感しますよ!ちなみに、「北アフリカ 1860 プロシアの男爵Adalbertと医者の Robert Hartmann」は、こんな美しいリトグラフがあるの!という感激を受けました。こちらのブログでしか拝見できない記事です。

さて、マリー・アントワネットが遺した品々です。

2008年エキシビジョンから
「A Visit to the Exhibition on Marie-Antoinette at the Grand Palais 」

A Visit to the Exhibition on Marie-Antoinette at the Grand Palais

こちらはマリー・アントワネットの母、マリア・テレジアのランチセットです。輝いた金は鏡のようです。

マリア・テレジアは旧敵フランスと7年戦争でマダム・ド・ポンパドゥール夫人と提携し、アントワネットはその後も関係を続けるための縁組となったのです。

アントワネットのコレクション

ヴェルサイユ宮殿の装飾で日本の陶器でできた「鶏」の小箱です。


アントワネットのコレクション

これも「扇子」の漆塗りの小箱。マダム・ド・ポンパドゥールはどちらかといえばシワノズリが残っています。

アントワネットのコレクション

とってもお気に入りだったよう。ニップル・ボウルって呼ばれてたらしい。あれぇという感じ。(笑)

これこそアントワネットという調度品

こちらは有名はマルタン・カルランのコンフォートです。マダム・ド・ポンパドゥールにルイ15世が贈ったセーブルの陶板がはめ込まれたものもあります。デュ・バリー夫人のコモードも残っています。

マリー・アントワネットは、寝室の装飾に使用していたらしい。

ヨーロッパ中から集められた300点以上の作品は、教育や芸術および政治に関する、マリー・アントワネットの人柄の各側面を知る手がかりを与えてくれます。中には、絵画(ヴィジェ=ルブラン)、彫刻(ルモワンヌ、ボワゾ、ルコント)、工芸品(カルラン、リーズネル、 ヴァイスヴァイラー)の素晴らしい作品もあります。(C)R.M.N


マリア・アントーニアの時代。兄のヨーゼフ結婚祝賀でのバレエを踊る姿が描かれています。




Marie-Antoinette and her children in the gardens of Trianon

画家 フランソワ・デュモント(フランソワ・デュモン)

こんな家族愛を遺した肖像画です。子供たちはマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)。



Mounted vases once owned by Marie-Antoinette, 1779

エリザベス2世女王陛下のコレクション
(C)The Royal Collection
マリー・アントワネットの装飾品 セーブル陶器 1779年



The Royal family in 1781 at the birth of the Dauphin Louis-Joseph

1871年の王太子誕生
アントワネットとルイ16世の王子ルイ・ジョセフ誕生



刻々とフランス革命が襲ってくる8年前。王太子誕生は一時の幸福を与えてくれます。

ルーヴル美術館では、アントワネットの書き物机やセーヴルの食器などを所蔵しています。

Adam WEISWEILERこの「書き物机」はサン・クルー城のアントワネットの内居室にあったもの。

アダム・ウェイスワイラーが制作し金鍍金工フランソワ・レモンが金箔のブロンズの装飾を手がけたとありました。日本の漆器の板がはめ込まれたジャポニズム。(C)louvre



マリー・アントワネットの肖像画は多くの画家が描いています。王妃ですが、母マリア・テレジアと違い、寓意画のように、なにかにたとえているような肖像画も多いと思いました。

特に次の2点です。フランソワ・ドゥールエは右手に水差し(?)をもたせ、左手に大きな杯を持たせています。タイトルは「マリー・アントワネット」です。いつごろの作品なのでしょうか。

Portrait of Marie Antoinette by Francois Drouet

フランソワ・ドゥールエ
女神へーベーに扮するマリー・アントワネット

女神へーベーに関してはこちら
過去記事 「王太子妃マリー・アントワネット


erato

Ludwig Guttenbrunn
エラトー(マリー・アントワネット)


まさか、この作品がマリー・アントワネットとは思いませんでした。叙情詩・恋愛詩をつかさどる女神エラトを象徴しているんですね。フェルゼンへの贈り物だったのでしょうか???1788年の作品。


Queen Marie Antoinette of France, 1778大人びたアントワネットの肖像画。

薔薇を持たせたアントワネットを描いたエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの1778年のこの作品はドレスの素材を美しく描いています。


アントワネットのヴェルサイユの私室です。装飾、調度品も見事ですが、中央にある肖像画は誰の肖像画なのでしょうか。この大きさだと男女の区別がつかない私です・・・。

Cabinet doré de Maria Antoinette. Versailles


ここは、この記事の前半に紹介した「ヴェルサイユ宮殿でマリー・アントワネットの肖像を描くゴーティエ・ダゴティ」の描かれた部屋とそっくりです。ほとんど同じ視線でみることができます。

追記 2010年8月にコメントをひろこさんから頂戴しました。

「ひろこさん : 最後の肖像画と言われているクシャルスキーのパステル画ではないかなと思いました。」

そのとおりです!ありがとうございました。


マリー・アントワネットは読書よりも音楽を好んだといいます。本を手にしているのが1枚掲載していますが、こちらも同じように本を手にしています。

Marie Antoinette von Frankreich


フランシスコ・ドゥールエ 1781年


マダム・ド・ポンパドゥールの肖像画も、ブーシェは同じ構図で何枚が描いていますが、この作品も同様で、マリー・アントワネットの髪型、室内の明るさ、ドレスのカラー、そして肖像画の右手奥の「冠」が違います。


エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


左が1778年、右が1779年の作品です。実物もこんなに彩度が違うのでしょうか。そうならば、ルブランはアントワネットの「日の出」と「日没」を描いたのでしょうか。

どちらもアントワネットは礼装しています。とくに右側の1779年に描かれたものは、青地に百合の紋がはっきりとわかります。

※3年前の記事の追記は、記事の半分以上になってしまいました。またいずれ追記するつもりです。

左肖像画
13歳のマリア・アントーニア

14歳までのマリー・アントワネットの記事。
アントーニアと姉妹たち
ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
どうぞご覧ください。


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