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ベラスケス没後350年 王妃マリー・テレーズの肖像画



ルイ13世 王妃 アンヌ・ドートリッシュ1622-25
バロック・スタイルのルイ14世の母、マリー・テレーズの叔母
by ピーテル・パウル・ルーベンス


ルーベンスとベラスケスは親しい仲だったようですね。ルーベンスがこのスペイン・ハプスブルグ家をどうみていたのかを、ベラスケスの肖像画をみて語ったことを記事の最後のほうに書き添えるつもりです。

さて、「神の飲み物」とよばれたショコラをフランスに伝えたのは、この肖像画のルイ13世の妃スペインの王女アンヌ・ドートリッシュです。1615年のこと。

このスペインにショコラを伝えたのは、アステカ帝国(1325年-1521年)を征服したのが文化破壊行為として知られているエルナン・コルテス(1485-1547)です。



スペイン王女 マリア・テレサ (マリー・テレーズ)


コルテスはアステカ文明を紛糾し、原住民を虐殺・虐待し、多くのものを略奪しました。その略奪品のひとつがショコラとして飲まれていたカカオ。

このショコラを伝えた王女アンヌ・ドートリッシュの姪マリー・テレーズ(マリア・テレサ)がルイ14世に嫁いでさらにひろまったわけです。

マリー・テレーズ(マリア・テレサ)はスペイン王フェリペ4世とマリー・ド・メディシスの娘イサベル・デ・ボルボーンの第八子として誕生しました。つまりアンリ4世は祖父で、王妃マルゴのあとの妃マリー・ド・メディシスが祖母になるんですね。



スペイン王女 マリア・テレサ(マリー・テレーズ) 
ディエゴ・ベラスケス


マリー・テレーズの父フェリペ4世が18歳のときに、ディエゴ・ベラスケスを見出し肖像画を描かせました。ベラスケス24歳のとき。彼の死因は過労死で、ルイ14世とマリー・テレーズ(マリア・テレサ)の結婚式準備の責任者でもあり、無事に式が終わった2ヵ月後に亡くなりました。

王の家族を描いた有名な「ラス・メニーナス」は、マリー・テレーズ(マリア・テレサ)の異母妹マルガリータ王女。

記事 Baroque 歪んだ真珠 青い血のスペイン・ハプスブルグ家

ここからはマリー・テレーズのほかの画家の肖像画のほかに、父フェリペ四世の二人の王妃、子供たちが記事になっています。
マリア・テレサ(マリー・テレーズ)がルイ14世のもとに嫁ぐことになり、このときは5歳のマルガリータ王女がスペイン・ハプスブルグ家を継ぐことになっていたからでしょう。名作のなかのヒロインの影に隠れていたマリー・テレーズ。



肩にある装飾 金刺繍


ところが歪で道化のようなカルロス2世の誕生で、このいかがわしき佇まいのマリー・テレーズの異母弟がマルガリータ王女に変わって継ぐことになります。

ルイ14世の弟王フィリップ1世(オルレアン公)と王妃ヘンリエッタ・マリアの娘マリー・ルイーズ・ドルレアンがカルロス2世の最初の王妃となり、心労による憂鬱症で急死しています。



スペイン王女 マリア・テレサ(マリー・テレーズ)
ディエゴ・ベラスケス


1660年8月26日、マリア・テレサはマリー・テレーズとしてパリに到着すると優雅に手を振ります。可愛らしい性質です。

弟王に嫁いだヘンリエッタ・マリア、その侍女のルイーズがルイ14世の愛人となり、彼女の心痛を和らげるのは叔母でもあるアンヌ・ドートリッシュとのカード遊び、子猫や子犬、そしてショコラで一息つくことくらいでしょうか。

もしかすると、16世紀になって流行した「慰みもの」とよばれた道化師や矮人、狂人に黒人を召使として連れてきていたのでは?

政治や文学に無関心であったというマリー・テレーズですから、退屈な時間を埋めるには彼らが傍らにいたのではないかと考えました。



胸の飾り コサージュ


よくルイ14世は王妃も愛妾も同じように接していたとありますが、そうではなく、絶対王政のなかで、王妃を軽んじることはルイ14世の王権神授説にあってはならないことですものね。

ルイ14世の絶対王政時代には王妃に敬意を持って接した偉大さも、サン・シモンあたりに書かせたのではないでしょうか。そしてあからさまに不貞をはたらいてるのです。

それでもなお「王とショコラは私の情熱そのもの」と語るマリー・テレーズ。悪臭と歯抜けの国王がそんなに魅力的だとは・・・。



マリア・テレサ(マリー・テレーズ)1653年
ディエゴ・ベラスケス


ルイ14世が恋していたマリー・マンチーニのことも知らず、そして愛妾となる侍女のモンテスパン夫人の野心と、マリー・テレーズの周囲ははじめから儚い幸せの結婚でした。

そしてルイ14世は愛妾には許していた宝石や衣装を子犬に着せて散歩させることを、王妃だけには禁じます。王妃として地位にふさわしい行動を望んだからですね。

ベラスケスは結婚前のマリー・テレーズを描いていますが、当時のパニエの流行とスペインで流行していた髪形を作品の中で印象つけています。

横に広がった「ヴェルチュガダン」(輪骨入のパニエ)で、籐でできた輪骨は独特な広がりを見せていますが、どうでしょうか?髪型も「ヴェルチュガダン」のようですよね。

  

手、胸に咲く花飾りにゼンマイ時計でしょうか?


当時スペインの宮廷ファッションはルイ14世以前はヨーロッパの流行そのものだったのです。

「モードはフランスから」といわれたのはルイ14世以降です。
記事「ヴィヴィアン・ウェストウッド 画家 ヴァトーのドレス
記事「シャネル以前 宮廷のクチュリエ ウォルト
記事「マリー・アンワネットのドレス ローズ・ベルタン

それではフランスに嫁いだマリー・テレーズの肖像画をご紹介します。ドレス、髪型もスペイン・モードとは違います。



百合紋章の「王妃マリー・テレーズ」 
もう1枚 another→click image
by シャルル・ボーブラン&アンリ・ボーブラン

 

左マリー・テレーズ・ドートリッシュと王太子
by ピエール・ミニャール
右 マリー・テレーズ・ドートリッシュ ミニャールっぽいですよね?



ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュとマリー・テレーズ・ドートリッシュ
もう一枚 ↓another →click image ↑
百合紋章のドレス 「王妃マリー・テレーズ」 シャルル・ボーブラン作


フランスのピエール・ミニャール、シャルル・ボーブランが描いたマリー・テレーズ。ドレスもバロック調に変わっていますね。

それではもう一度ベラスケスに戻りましょう。



マリー・テレーズ Maria Theresa of Spain
ベラスケス Diego Rodríguez de Silva y Velázquez


フェリペ4世とイザベル・デ・ボルボンの第二子のマリー・テレサの肖像画を描いたベラスケスは、イタリアから帰国したあと描いた作品で、ウィーンに送られたそうです。

この威厳を示す飾り立てた鬘に、宝石を飾った豪華な衣装。ベラスケスは乳白色の絵の具を薄塗りした上に襟と袖、朱で無造作に描いたコサージュ、白とグレーで描いた真珠の飾りは、ある一定の距離から眺めるときにその実在感がみえてくるそうです。



マリー・テレーズの母 王妃イサベル・デ・ボルボン騎馬像
ベラスケス?ともいわれている作品


この騎馬像は、マリー・テレーズの両親と、祖父フェリペ3世、王妃マルガリータ・デ・アウストリアの二世代の国王夫婦、そして急逝したカルロスを描いたものです。ベラスケスのものと断定しがたいもので、加筆の可能性があるとされている作品。マリー・テレーズのお母様はとっても美人でした。マリー・テレーズが幼いうちに亡くなったようです。


右のマリー・テレーズは穏やかな顔つきです。左のお顔はどうでしょう。まるで不愉快さを隠せずにいまにも泣き出しそうな顔。

マリー・テレーズの4つ違いの従兄妹。マリアーナ・デ・アウストリアは、王妃イサベルが亡くなって、フェリペ4世に嫁いできたのでした。マリー・テレーズの義母となったのです。



left: Mariana de Austria 王妃マリアナ・デ・アウストリア
right: Marie Thérèse d'Autriche マリー・テレーズ
by Diego Velázquez ディエゴ・ベラスケス


マリアナはフェリペ4世の長男、スペインの王太子バルタサール・カルロスに嫁ぐことになっていましたが、バルタサール・カルロスが急逝したために王妃もなくしたフェリペ4世に嫁いだのです。

フェリペ4世とマリアナの子カルロス2世は、この近親の血に呪われたのでしょうか。



王妃マリー・テレーズの義母マリアナ


マリアナは「ラス・メニーナス」のマルガリータを産んだあと病床に伏していたそうです。ウィーンからマドリードの宮廷に、30歳も年齢差がある叔父に嫁いできた異国の花嫁。

雪山行二氏はマリアナの別な肖像画の作品解説で、「積もりに積もった不満は何よりもふくれっつらとへの字口が物語っている」と書いていましたが、どの作品もベラスケスの描いた肖像画はそのとおりのお顔。

そっくりだといわれていたマリアナとテレーズは肖像画も間違えてしまいそうですが、ふくれっつらは義母のほうです。



Felipe IV de España(フィリップ4世)
Isabel de Borbón (イサベル・デ・ボルボーン)
by Diego Velázquez ディエゴ・ベラスケス


なにかの本(最近出版されたもの)に、「フェリペ4世はベラスケスの肖像画以外はすべて宮廷から撤去した」とあり、よほどベラスケスの才能に魅入られたようですが。

でも、ベラスケスの実際は多くの廷臣の一人で、「絵のかける廷臣」に過ぎない境遇だったようですよ。

フェリペ4世がベラスケスの才能に目をかけるなら「宮廷画家」として彼に多くの作品を描かせる機会を与えるでしょう。ところがベラスケスには「合間に絵をかかせる」ほどの扱いでした。




ラス・メニーナスのベラスケスとフェリペ4世、マリアナの肖像画


スペインに来たルーベンスはそうしたベラスケスをみて、イタリアに来るように声をかけます。

ルーベンスは画家としてのベラスケスが時間に制約されているのを知っていました。制約しているのはフェリペ4世。ルーベンスはフェリペ4世に失意の念を覚えたのではないでしょうか。

ヴィレム・ファン・ハーヒトの描いたルーベンス
「コルネリス・ファン・デル・ヘースト(フェリペ4世の叔母の夫)の収集室」でおなじみのシリーズにルーベンスも描かれています。

記事 Baroque 歪んだ真珠 青い血のスペイン・ハプスブルグ家

ここからはマリー・テレーズのほかの画家の肖像画のほかに、父フェリペ四世の二人の王妃、子供たちが記事になっています。

この騎馬像という作品がベラスケスとしてよいのだろうか・・・。専門家たちの疑問ですが、ルーベンスはベラスケスの描いたフェリペ4世の肖像画から次のような発言をしています。

「他人をいとも簡単に信用するわりには自分(フェリペ4世のこと)に自信をもたなかったしっぺ返しを今になって受けている。」とルーベンスはフェリペ4世を酷評したのです。



マリー・テレーズの義妹マルガリータ王女 by ベラスケス


沈み、疲れきった国王をありのままを描いたベラスケス。「陛下賛美をもって報いる画家ではなかった。」と清水憲男氏は解説しています。(ルイ14世の絶対王政のもとの宮廷画家とは正反対ですね。)

先の最近の出版物では「醜い顔だが黒い服をまとい空間にたたずんでいるだけで、王の威光を放っている」と書いてありましたが、ルーベンスの酷評、清水憲男氏の解説のほうに肯いてしまう私です。

「ただ一人の女性、ただ一人の友、−国王、ただひとつのアトリエ、−−宮廷」(オルテガ)がベラスケスの人生だといいます。

そのただ一人の妻はベラスケスの後を追うように亡くなりました。ですがベラスケスは国王を唯一と思っていなかったように、実は隠れた女性が一人いたのでした。


シャルル・ル・ブランによるタペストリーの下絵は、上がピレネー条約でのルイ14世とフェリペ4世の会見です。なんとマザラン、アンヌ・ドートリッシュ、弟王弟王フィリップ1世(オルレアン公)まで描いています。さすがフランスの宮廷画家。フェリペ4世側はマリー・テレーズのほかはよくわかりません。ここにベラスケスがいるような気もするのですが・・・。下の画像は二人の結婚式のものになります。

記事「「ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王 」にはピレネー条約の大きな画像があります。


ベラスケスの最後のお仕事になったと思われるマリー・テレーズとルイ14世の結婚式準備。はじめはこの2枚のタペストリーはベラスケスの従兄弟にあたるドン・ホセ・ニエト・ベラスケスが勤めるタペストリー工場で織られたものかしら?って思ったのですが、フランスの宮廷画家シャルル・ル・ブランの下絵ですので王立タペストリー工場で織られたものですね。

マリー・テレーズの持参金の交渉も画家ベラスケスが引き受けたのかどうかわかりませんが、350年前に、一人の才能のある画家が宮廷の激務で亡くなったことは事実なんですね。


機会をみつけて本記事の更新をしたいと思います。

ディエゴ・ベラスケス関連記事
記事「ディエゴ・ベラスケス 二人の聖女
記事「パブロ・ピカソ ラス・メニーナス
記事「没後350年 ディエゴ・ベラスケス

そしてフランス王ルイ14世とマリー・テレーズの結婚から350年も今年なんですよ。
| ハプスブルグ家 | 23:40 | comments(0) | trackbacks(4) | pookmark |
ハプスブルグ家 マリア・テレジア



Maria Theresia


ハプスブルグ家きっての才媛マリア・テレジア。皇帝カール6世と「色白のリースル」と呼ばれた妃エリザベート・クリスティーネの長女として誕生。23歳のマリア・テレジアは父カール6世の急逝でハプスブルグ王朝の女王となりました。



マリー・テレジアと子供たち 1760年
1760年?子供たちが特定できそう。
by アレクセイ・ペトローヴィッチ アントロポフ


フランス王とバイエルン、フリードリヒ2世らは占領にかかりますが、国家継承したハプスブルグ帝国を守ることはできました。

The coronnation of Maria Theresa in St. Martin´s Cathedral

Maria Theresa with Franz I. c. 1746


女帝マリア・テレジアと夫フランツ・シュテファンを描いたのはピーター・ケブラー(ペーテル・ケブラー)。皇帝フランツ1世となったフランツ・シュテファンは女帝の脇役として宮廷で扱われ、格下の席を用意されたといいます。

それでも侍従長は、「皇帝がいなければ世の中の混乱ははるかに大きかったと思い抱いている。」と記してあるように、いつも末席に扱われる皇帝には「人柄」というものに、人々は敬意をあらわしていたようです。



Maria Theresia


現在開催中の「THEハプスブルグ」(国立新美術館)で展示されているアンドレアス・メラーの「11歳の女帝マリア・テレジア」です。この11歳よりももっと幼少だった5歳のマリア・テレジア。その初恋の相手がフランツ・シュテファン。

フランツ1世の魅力はマリア・テレジアだけを虜にしたわけではありません。国家継承者の配偶者として貴公子のフランツは候補者としては有力ではありません。


フランツ1世は洗練された容姿と性格に、たいへん趣味もよく、宮廷での屈辱に屈することなく人生を楽しむ人柄だったようです。皇帝カール6世がフランツを特に気に入ったのは、手紙にある「頭の回転が速く、礼儀を心得、非の打ち所がない。」だけではなく、敏捷なフランツは、狩猟好きなカール6世のパートナーとしても十分に才を発揮していたのです。

こうして国が決めた結婚ではなく愛によって結婚をした二人。この作品にはヨーゼフ2世が描かれています。

Kaffeeservice zur Rokokozeit um 1750


このコーヒー&ティーセットは、マリア・テレジアが愛用していた陶器ですが、ウィーンのアウガルテンの陶器工場で、逸品の陶磁器生産に着手したのは、実はフランツ1世です。マイセンについで2番目に建てられました。

フランツ1世は美しいもの、趣味のよいものに目がありません。皇帝は宝石と金貨をコレクションしていました。現在はウィーン美術史美術館に所蔵されています。

そして自然のもの。世界最古の動物園はフランツ1世が手をかけました。

MariaTheresia with family (1754)


オーストリアの宮廷画家マルティン・ファン・マイテンス(Martin van Meytens)の作品ですが、女帝マリア・テレジアから末子のマリー・アントワネットまで多く作品を残しています。

マリー・アントワネットに関しては以前の記事をごらんください。
マリー・アントワネットが愛したもの

肖像画は女神エトラに扮したアントワネットなど更新しています。


ご紹介したマリア・テレジアファミリーの作品がかけられています。

次のアリア・テレジアファミリーは同じ1754年が制作になっていて、同じ配置。もしかすると1755年の作品だとしたらアントワネットでしょうね。
では、もう一枚の同じ配置のマルティン・ファン・マイテンス(Martin van Meytens)作「マリア・テレジアファミリー」 をご覧ください。

マリア・テレジアは3人の子を1754年までに亡くしています。1754年にはフェルディナント・カール・アントンが誕生して、子供は12人描かれているはずです。つまり、アントワネットは誕生していないので描かれていないということでしょうね。


こちらは、1758年の作品なので、アントワネットも、末っ子の「ふとっちょマクシィ」も描かれているはずです。

長女 マリア・エリザベート 3歳で死去
次女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ せむしの皇女として父親以外には愛されなかったマリア・アンナは修道院で奉仕に一生を捧げます。
三女 マリア・カロリーネ 2歳で死去
長男 ヨーゼフ2世 「民衆王、皇帝革命家」と呼ばれる。
四女 マリア・クリスティーナ マリア・テレジアの愛情を受け、恋愛結婚を許される。
五女 マリア・エリザベート 天然痘が原因で醜貌のため、修道院に。
次男 カール・ヨーゼフ 6歳で死去
六女 マリア・アマーリエ 政略結婚、のちに帰国禁止。


三男 レオポルト2世 兄ヨーゼフ2世死後に帝位につきます。
七女 マリア・カロリーネ 死去
八女 マリア・ヨハンナ・ガブリエレ 12歳で死去
九女 マリア・ヨーゼファー ナポリ王との挙式直前に死去
十女 マリア・カロリーナ 姉のかわりにナポリ王に嫁ぐ。
四男 フェルディナント・カール・アントン エステ大公
十一女 マリア・アントーニアマリー・アントワネット)フランス王妃 断頭台の露に。
五男 マクシミリアン・フランツ ケルン大司教 ベートーベンのパトロン。


愛情を持てなかった親子、兄弟、姉妹となるのですが、仮面の家族ではないと思います。歴史上には古くから親子や兄弟、姉妹の愛憎はあります。現代社会では不幸あるいは常識的ではない家族という烙印が押さされそうですが、ともだち親子だってちょっと不思議。

こういう立場や社会的な制約がある家族というだけでなく、ファミリーにはいろいろな形があるということです。




Maria Theresia


家族のなかでのマリア・テレジアは、後継者問題と結婚政策の女帝です。育児や愛情を与える時間よりも、子供と国の両方がいいように駒を進めていたのだと思います。子供たちの恥ずかしくない地位と嫁ぎ先。しかもハプスブルグ家にとっても。

「戦争は他国にまかせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」

Stefan Holcik

Maria Theresia


わたし個人ですが、アリア・テレジアって、夫のフランツ1世と同様に趣味がよい人だと思うのですね。人でもモノでも周囲に好きなものだけを配置する。センスのよさなんですけど、仕事でもそうですが、センスっておしゃれというわけではなく、手順がいいんですよね。

マリア・テレジアの政策や軍の配置なんかも戦略じゃなく、手順のよさじゃないかと。




Maria Theresia


マリア・テレジアが何を国家として築いたかというとオーストリアと中央管理国家としたことですね。そしてのちの啓蒙思想。教育改革、軍隊制度、徴税制度、官僚体系を整えながら富国強兵を目指します。そして財政は夫フランツ1世が力を発揮します。

マリア・テレジアは父カール6世からの重臣を丁重に扱いながら、能力のあるものを抜擢する。そういう人の扱いも巧いですよね。

ところがマクシミリアン1世からの結婚政策でフランス、イタリアと嫁がせたものの「ドイツ」にいたっては、一人も嫁がせていません。



Maria Theresia


宿敵プロイセンた打倒のため、仇敵フランスと和解。ルイ15世の寵妃ポンパドゥール夫人と、ロシアのエリザベート女帝との「3枚のペチコート作戦」の同盟で、7年戦争に突入します。

プロイセンのフリードリヒ2世に対しマリア・テレジアの最愛の息子ヨーゼフ2世は尊敬と憧れを抱き、ロシアの女帝が急死したあと、共にポーランド分割を行い、マリア・テレジアを嘆かせます。

結局、3枚のペチコート作戦もアントワネットの輿入れも、マリア・テレジアの政策の成功にはならなかったのですね。やはり「戦争は他国にまかせておけ」でしょうか。



Maria Theresia


マリア・テレジアの栄華は、食卓や料理、お菓子にもおよびます。フランス ブルボン家からはワインが初お目見え。そして絵画などのコレクションも、マクシミリアン1世、レオポルト・ウィルヘルム大公に続き、息子のヨーゼフ2世とともにハプスブルグ家の収集に貢献していくのです。

こうした収集品はあのウィーン美術史美術館に、夫フランツ1世のコレクションとともに所蔵されています。

Maria Theresia as Queen of Hungary

Maria Theresia


マリア・テレジアのこうした采配は、のちに大きな痛手になるものもありますが、当面の跡継ぎの問題も、スペインのブルボン家から次男に嫁いだマリア・ルドヴィカによってハプスブルグ家の栄華を保つことができました。

残念ながらヨーゼフ2世の最愛の妻マリア・イザベラは佳人薄命で、二番目の妻はたいへん不幸でした。


まだまだ栄華は続きます。モーツァルトやハイドンなどの音楽。作品はモーツァルトがマリア・テレジアファミリーの前での演奏。ここがシェーンブルン宮殿の「鏡の間」でしょうか。

ヨーゼフ2世はモーツァルトを宮廷音楽家として迎えますが、弟のレオポルド2世はモーツァルトやサリエリを疎んじます。

晩年は喪服でちょっぴり孤独なマリア・テレジア。それでも自分の我がままをとおし生きた女帝だと思います。

さて、この子孫たち。ヨーゼフ2世もレオポルト2世も皇帝につき、そのまた子孫も皇帝につきます。マリア・ルドヴィカによって。
| ハプスブルグ家 | 21:05 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
黒衣の皇后 エリザベート
さっそくのトラックバックありがとうございます。掲載されているシシの画像4枚ははじめてみました。おすすめです。

エリザベート皇后 兎穴の少女さん記事
BLUE MOON
シシ 皇后エリザベート とってもかわいい記事。
Fin de siècle
ハプスブルグ家 エリザベート皇后  初見の写真必見! 
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記事「トワレとビデとガルデ・ア・ロー」 なんと一番最後に・・・。必見ですよ!

オーストリア皇后であり、ハンガリ王妃であったエリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ(Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach)

愛称はシシ(シシィ)。

ジャン・デ・カールによると、それは「ポシ」と韻を踏んだように呼ばれていたようです。

肖像画は1867年、セーケイ ベルタランの作品。

タイトルは「オーストラリア皇后、ハンガリー王妃("Sissi") の戴冠式のローブ」です。

シシはのびやかで気が強く、自立した女性。少女時代は「人民の春」が謳歌し、自由で行動的な気風を備えていました。

気性の波の荒さは少女時代からのもので、写真でのシシはあまり微笑んでいません。どちらかというと口元をとじ、目に力のある険しい表情です。

マクシミリアン公の第三子として生まれた野育ちのシシは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められ、いとこ同士の結婚。

皇后・妻・母としての役目を果たす義務より、旅と乗馬への情熱を注ぐ皇后。浪費家で権威主義のシシでしたが、アントワネットのように国民に憎まれはしなかったのです。

うえは1867年のハンガリー戴冠式でのエリザベート。フランツ・ヨーゼフはゲオルグ・ラープに画かせ、ホーフブルグの執務机の前に飾りました。

どの画家も美しく描いていますが気難しい気質はしっかりと残しています。バイエルン公女時代のシシは自由闊達。ゲオルグ・ラープはこの少女時代のシシも描いています。

Keizerlijke vertrekkenホーフブルク宮殿(Hofburg)には、カイザー・アパルトメンツ(Keizerlijke vertrekken)の公開、シシィ・ミュージアム(Sisi museum)、宮廷銀器コレクション(Zilver Kamer)などを見学できます。写真は皇帝フランツ・ヨーゼフ祇ぁ▲┘螢競戞璽箸離▲僖襯肇瓮鵐函

父親のマクシミリアンは芸術家らしく家庭人ではなかったようで、この父親譲りの気質のシシ。狩猟や釣り、チターの演奏、「オリエント紀行」の出版(筆名ファンタジウス)など、軍服の職務より熱心だったということです。

wikiによると、父マクシミリアンはチター奏者のふりをして、連れのシシにチップをもらう娘を演じさせるなどの変わった趣向を好みます。

王族の公爵家にふさわしい厳格さはなく、エリザベトも馬や犬とともに野原を駆け回る闊達な少女。

反面、死や悲しみをロマンティックに仕上げた詩をつくります。

13歳のシシの詩はたいそう大人びています。



「さいは投げられた
ああ、リヒャトルはもはや
葬送の鐘が響く
主よ 我を憐れみ給え」(引用:麗しの皇妃エリザベト)

この詩は1851年の初恋の少年が亡くなったときのもの。



ところがシシの二度目の淡い恋の少年も亡くなってしまいます。

「おお、なぜ私に死がないのか
君とともに、天にありたい。」

ジャン・デ・カールは、シシには早くから身近な死が住みついていたと書き添えています。
(引用:麗しのエリザベト)

「私たちは皆、変死する。」

シシの予感は未来の予言となります。

自由で楽しかったバイエルン公時代。スウェーデン王の家系であるヴィッテルスバッハ。アトレウス家の古代ギリシャ神話と重ね合わせられる呪われた家系。

Georg Raab:unknown:Philip Alexius de László

左は結婚20周年にゲオルグ・ラープに描かせたもの。ラープはエリザベートの少女時代から描いている画家。
エリザベトの家系ヴィッテルスバッハはヨーロッパの歴史のなかで病的で狂信的であると言われ続けてきました。血族結婚が多く汚れた血の家系。繰り返される同族内の紛争。

私見です。幼い頃から癇癪もちのシシ。束縛や義務を嫌い、現実逃避をしていきますが、あまりにも狂信的。そして芸術家気質の変わり者の父。その血をいちばん濃く受け継いでいたのがシシではないでしょうか。


宮廷の堅苦しさ、誹謗中傷などで露見したのではないでしょうか、もともと持っていた呪われた血が。義理のいとこの子にあたる狂信王ルートヴィヒ2世の溺死に、シシは錯乱。

荒々しい言葉と態度のシシ。ところがわずかなことに恐れおののき、殻にとじこもるその人もシシ。



アマンダ・ベアグステッドの「后妃エリザベート」(1855)は、とくに優しい眼差しのシシを描いています。めずらしく微笑んだ顔。18歳のシシは結婚2年目でした。姑ゾフィー大公妃の名をつけられた王女ゾフィーが誕生。王女をゾフィー大公妃に取り上げられたという思いが、シシを反逆の皇后とさせるのです。

か弱く、涙にくれるエリザベトの反面は、向こう意気の強さの凄まじさ。一人の人間に二人の精神があるかのようです。

1856年には第2子のジゼルを出産。その年にフランツ・ヨーゼフと反オーストリア感情の強いイタリアの旅は、恩赦の勅令を発布するなど世論を逆転させていきます。


そして訪問国で「奇跡を起こす妖精」とシシの人気が高くなっていくのが、ヴェネツィアの手袋。

フランツ・ヨーゼフに嘆願した元ヴェネツィア軍将校。宮殿の事務所に入れてもらえないとすがる姿をみて、ヨーゼフの手袋を渡したものを入れるように取り計らいます。このときシシは19歳。

Eduard Kaiser, Kaiserin Elisabeth「・・・私は牢獄で目を醒ました 手に鎖が重く 憂いは日々に篤い 自由よ、お前は私から奪われた」

現代でいえばうつ病となるとありましたが、「バイエルンの鷲鳥」エリザベトは外へ向かっていくことはできるのです。

肖像画はエドゥアルド・カイザーのシシです。髪飾りの美しさ。

ヨーロッパ宮廷一といわれた美貌と語り継がれていますが、美貌というより異彩な顔立ち。開いた口元は醜く、つねに扇子で隠していたといわれています。ミルク色のトゥースは美貌を損なっていました。

Franz Hanfstaenglこの肖像画は婚約中のもの。1853年とあります。婚約中のフランツ・ヨーゼフは執務机のシシの肖像に夢中になります。シシの肖像のまえに立ち尽くすこともあるという肖像画。

その肖像はフランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター(Franz Xaver Winterhalter)が描いたもので、カールされた髪を結い上げたものとされています。

こちらはフランツ・ハンフシュテングル。




Gustav Krovy festményeたまたま知り合いにスロバキア人の女性が2人います。二人ともたいへん「ムハ(ミュシャ)」が好きな方ですが、偶然借りたハンガリー語?の本にクリムトらしい作品が。しかもシシに似てませんか?スロバキアはハンガリー語もさかんなので聞いてみました。クリムトです。

若い頃からフランツ・ヨーゼフ皇帝の宮殿装飾を引き受けるなどしていたのに、この本を見るまでまったく思いつきませんでした。

この作品は、エリザベートの寝室に装飾されたものだと書いてあります。ウィーン大学天井画の前の作品となるのでしょう。モノクロで残念です。ごめんなさい。



もう一枚がハンガリー画家によるエリザベート。ミヒャエル・ジチでいいのかしら。ちょっと別な方面での作品も有名な方なので、カタカナ表記にさせていただきます。タイトルは「フェレンツ・デアークの葬儀(棺?)のエリザベート」です。

1864年の秋、エリーザベトは、ハンガリア語のレッスンのために、一人の女官を人選します。字引がわりで情勢を伝える任務。ハンガリア貴族の子女リストに、質朴で自然な23歳のイーダ・フェレンツィの名に目を留めます

Erzsébet királyné Deák Ferenc ravatalánálイーダへの手紙

「ゆっくり髪をとかしているとき、散歩に出かけるとき、一日に何度もあなたのことを思います。(略) イーダ、わたしがいない間に、たとえあなたの国のコロマン王のようなプリンスが現れても、結婚したりしないで、私のもとにとどまってくださいね。」
引用:「麗しのエリザベト」

Ida Ferenczyこのイーダは、ハンガリー自由主義勢力のジュラ・アンドラーシやフェレンツ・デアークらと密接な関係をもち、1867年にフランツ・ヨーゼフはハンガリー王、エリーザベトは王妃として戴冠します。

アンドラーシはたいへん魅力的。引用の「麗しのエリザベト」にも頻繁に登場しますが、作品のデアーク卿の名を冠したデアーク・フェレンツ広場がいまも有名ですね。ちなみに「アンドラーシの葬儀(棺)のエリザベート」もあります。




エリザベートの黒衣姿は長男ルドルフの死後続きますが、バイエルン時代から黒いドレスは着用していました。

この人の記事を書いているとき、アントワネットやポンパドゥール夫人のように楽しく、あれもこれもと書きたくてならないっ!という気持ちにならないんですね。

不自然さ?魂のない生き物?

ファンの方には申し訳ないです・・・。

この皇后を嫌悪する気持ちが時々あらわれて、皆さんが彼女の記事を書いているように、100%好意を寄せて綴れない。

気を取り直して、皆さんも続きを読んでくださいな。

さて、アントワネットやポンパドゥール夫人ほど国費を費やすことはなかったと思いますが、「美貌」にかけての執念はクレオパトラや楊貴妃に匹敵するかもしれません。

これは自分自身の誇りが美しさだったと思うのです。

他国の女王や后妃と自分の美しさを比べるところなど、白雪姫の継母のようです。

「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは誰?」

歯の醜さ、年齢とともに衰える容貌に、シシィはひたすら扇で隠す。その美貌の衰えを自然に受け取ることができなかった自己愛。美貌に匹敵するほかの何かが見つからなかった。気性が激しいほどには自信がなかったのでしょうか。



この作品はディティールです。幅がながいのでメインの二人だけにしました。全体像でみかけるものはこの二人の位置が逆かもしれませんが、今回選んだ画像は二人の衣装も細やかにみえるはずです。フランツ・ヨーゼフのビザンチン風の王冠には七宝の十字架がつけられていますが、重さ一キロ半という重さ。

パイプオルガンからはリストの戴冠ミサ曲を奏でます。

賛美はやがてキッチュと囃し立てられていきます。
ゾフィー大公から取り戻したとたんに息子を手放して・・・。
幸せのまがいものの姿を野次られて。


ルドルフは成人していくにつれ、エリザベートと緊張した親子関係になり、父フランツ・ヨーゼフとも政治的対立があり、マイヤーリンクで謎の死を遂げます。

それがある貴婦人の証言で明るみになります。

亡命生活を余儀なくされ、1982年のころにようやくウィーンに戻ったチタ皇后。フィガロの取材でジャン・デ・カールのインタビューに答えています。ルドルフの死の真実をです。

その声明は翌年に発表されています。「政治的な暗殺をされたのです。」と。


自らも不幸を嘆くだけではなく周囲の不幸をも嘆く生涯。「わたしたちは皆変死する」といった、あの若い時代のシシの予言はあたります。

3枚の作品の中央は皆さんご存知の美しいシシですが、私はあまり好きではありません。でも一番人気ですね。ヨーゼフ・フランツも絶賛したフランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターの作品。
中央はご存知のフランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターの作品ですが、髪につけられている宝石が、どうやらこの写真のものらしいです。2種類あるはずで、こちらは小さいほうの飾り。
「私たちは皆変死する」

1867年のメキシコ。ヨーゼフ・フランツの弟マクシミリアン大公が銃殺。六発の銃弾が十字架の形となったそうです。エドゥアール・マネが「マクシミリアンの処刑」を描いています。

1886年の初夏。「私の亡き後は、この城を破壊せよ。」というエリザベートの従兄弟ルートヴィヒ2世は、湖で心臓麻痺に。身を投げたという説より湖に逃亡したといわれています。

1889年のマイヤーリンク。王位継承者ルドルフの暗殺。片手首のない遺体。画家のフランツ・フォン・パウジンガーに「わたしは皇帝にはならないでしょう。」と言っていたといいます。

1897年のパリ。上流夫人が開催する慈善バザーで出火。アランソン公爵夫人は「わたしは最後。皆さんは先に!」と叫び亡くなった高潔な貴婦人。シシの大切な妹ゾフィーでした。


Retrato oficial de Elisabeth Sissí, Emperatriz de Austria y Reina de Hungría (1837-1898)


wikiより引用
実際の彼女は尊大、傲慢かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみ欲しいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり莫大な額の買い物をしたりするなど自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かった。贅沢ぶりは際立っており、国民の税金で宝石・ドレス・名馬の購入、ギリシア・コルフ島に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建造、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行等を行っていた。


エリザベトにとって、長く重たい髪は自慢だったのでしょうか。。「私はこの髪の奴隷なの。」といったといいますが、民族的な特徴のある顔立ちに、絵画ではなく写真のシシをみると、顔の輪郭も覆うよう。

この髪は卵をコニャックで溶いたもので丁寧に洗髪し、3時間ほどの時間をかけるそうです。卵をコニャックで溶く・・・。一度くらいは試すことは可能ですね。

また入浴はミルクといいますから、やはり先に述べたように、クレオパトラや楊貴妃に負けていませんね。

この作品もフランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターによるものです。タイトルは「オーストリア皇后エリザベト」になります。

Anton Romako


なんとも解せないお顔をなさって・・・。アントン・ロマコの作品ですが、ロマコは評価をされずに亡くなった画家です。あまりにも本質を描きすぎるからでしょうか?たぶんごらんになっている皆さんも好き嫌いがある画家だと思いますが、なんともいえず気になる作品がおおいんですよ。分離派系でしょうか。美醜が重なったシシ。

歴史上1、2位を争うとされている美女シシだそうですが、民族的な際立った特徴で、わたしのなかでは10位にははいりますが一桁ナンバーでなないのです・・・。美と醜が重なり合って見えるんですよ。写真でも。


フランツ・ハンフシュテングルの皇后エリザベートです。
中野京子さんの著作に「エリザベート皇后」があります。
そのなかから引用いたします。

アントワネットと同じで−−(略)−−身の丈にふさわしい地位につけば歴史に名を残すことなくとも幸せな人生を送れただろう−−(略)−−結婚式当日、馬車から降りようとしたエリザベートはドアの枠にティアラを引っかけ、おとしてしまう(アントワネットが結婚契約書にサインをするとき、インクのしみをぽたりと落としたことが思い出される)


1898年のこと。そのとき一人の男性とぶつかったシシ。何事もなかったように乗船しました。まもなく胸が苦しいと倒れそのまま眠るように亡くなります。皇后の胸にはルドルフの髪が入ったロケットと、もうひとつにはモーセの祈りが記されている薄紙。

「(略) あなたは人を塵に帰らせていわれます。人の子よ、帰れと」

「白い貴婦人」といわれた黒衣の皇后はこうして望みどおりに死への旅にでたのです。


フランツ・ヨーゼフは皇后陛下崩御の電報に目をとおすことになりました。

「この地上ではあらゆる不幸がわたしを襲う」

フランツ・ヨーゼフは「私がシシをどれほど愛したかは、誰にもわからないだろう」と、死のその日まで言い続けたとありました。

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神聖ローマ皇后 エリーザベト・クリスティーネ


エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブランシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(Elisabeth Christine von Braunschweig-Wolfenbüttel)

神聖ローマ皇帝カール6世の皇后エリザベート・クリスティーネです。のちの女帝マリア・テレジアの母です。

カール6世が「色白のリースル」と呼んだほどに、透き通るような白く滑らかな肌。

皇后は北ドイツのブラウンシュバイク=ヴォルフェンビュッテル家の出身で、日本でいうと「分家」ながら大諸侯の血筋。プロセイン王妃エリザベート・クリスティーネは同じブラウンシュヴァイクのリューネブルク家の出身で、プロセイン王妃は姪にあたります。


Kaiserin Elisabeth Christineカール6世との相思相愛の結婚生活で不自由したのが世継ぎです。マリアツェル寺院で祈祷し、ようやく長男レオポルト・ヨーハンが誕生するもののその年に死去。

まもなくのちに女帝となるマリア・テレジアを身ごもります。その後も女子を産み、国事詔書(プラグマティッシェ=ザンクツィオン)の発布となるのです。


マリア・テレジア(1717-1780)
Maria Theresia von Österreich

ハプスブルグ家 
マリア・テレジア

詳しくは↑の記事をご覧ください。

Maria_Anna_by_Andreas_Moller_1727マリア・アンナ(1718-1744)
Maria Anna Eleonore Wilhelmina Josepha von Habsburg
マリア・テレジアの夫の弟と結婚しました。恋愛結婚のために、父カール6世が逝去したあと嫁ぎます。第1子を死産し急死。

Maria Amalia Archduchess of Austria 1724 - 1730マリア・アマリーア(1724-1730)
Maria Amalia d'Asburgo

作品は1727年に描かれたもので3歳でしょうか。

この3年後に夭折します


追記
2009年9月25日〜12月14日「THEハプスブルグ」(国立新美術館)で展示されているアンドレアス・メラーの「11歳の女帝マリア・テレジア」です。 このマリア・テレジア、そしてマリア・アンナ、マリア・アマリーアともにアンドレアス・メラー(Andreas Möller)の作品で、ウィーン美術史美術館所蔵のもの。

Kaiserin Elisabeth Christine und Maria Theresia「クリスティーネとマリア・テレジア」

この記事とあわせてご覧ください

マリア・テレジア
マリア・イザベラ
マリア・ルドヴィカ
マリー・アントワネット
ポンパドゥール夫人
エリザベート

エリーザベト・クリスティーネが産み育てたマリア・テレジア。マリア・テレジアが女帝として自分の子供たちに嫁がせたブルボン家の二人のマリア。マリア・ルドヴィカこそ、ハプスブルグ家の後継者を生み、そしてマリア・ルドヴィッカの孫には善良な君主フェルディナント、ナポレオン・ボナパルトに嫁いだマリー・ルイーズ、エリザベート皇后の姑ゾフィーと結婚をしたフランツ・カール・ヨーゼフなどと歴史上に名が残る子孫が多く育ちます。

ハプスブルグ家、ブルボン家の栄華と衰退の物語。
プロローグはエリザベート・クリスティーネからはじまるのでしょうか。
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ハプスブルグ家 マリア・アントーニア

Marie Antoinette Young

7歳のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)1762

マルティン・ファン・マイテンス(Martin van Meytens)


マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringen)がオーストラリアの大公女時代の名前です。

1755年11月2日にマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)は、女帝マリア・テレジアとフランツ1世の大公女として誕生。

右がアントーニア誕生の肖像です。

アントーニアは誕生とともにハプスブル家の結婚政策としてフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(ルイ16世)の結婚を決められます。

シェーンブルグ宮殿では母マリア・テレジアが娘たちと水彩画や刺繍を楽しみます。朝食の間に飾られている「プチ・ポアン」とよばれる手づくりの宝石は、母マリア・テレジアと大公女たちの刺繍によるものです。

Johann Franz Greipel

             ↑
一番手前がアントーニア。

「人を指に巻く娘」といわれたマリア・アントーニア。それは、他人を自分の言いなりにさせるという意味だと藤本ひとみさんの著作本にありました。

なるほど、口も達者だったのでしょうか。

長女のマリア・エリザベートは3歳で1740年に亡くなっていますのでアントーニアの誕生時にはこの世の人ではありませんでした。

次女マリア・アンナはアントーニアが2歳の頃、背骨の病気で女学校に入学。アントーニア誕生時は17歳の頃だと思われ、シェーンブルグ宮殿での暮らしをほとんど共にしていません。

マリー・アントーニアの姉
次女マリア・アンナ
(1738-1789)

過去記事
ハプスブルグ家 マリア・アンナ


三女のマリア・カロリーネ(1739-1741)は、2歳で死去。アントーニアには「マリア・カロリーネ(カロリーナ)というう姉が3人いました。7女(1748)のカロリーネは生まれた年に死去。そして3番目のマリア・カロリーナ(マリア・カロリーネ)は、もっともアントーニアと一緒に育った姉です。

もうご存知かもしれませんが、マリア・テレジアをはじめ、大公女たちに「マリア」というネームがつけられていますが、江村洋氏によると「可愛い女の子」という意味だそうで、マリア・アントーニアは「可愛い女の子のアントーニア」となるわけです。

Archduchess Marie-Christines wedding on 8th April 1766.

四女クリスティーナの結婚式出席のアントーニア 1766年


四女のマリア・クリスティーナ(1742-1798)はアントーニアが誕生したころ13歳。マリア・アンナと同様に絵画に才能があり、アントーニアをはじめ、家族の肖像画をたくさん残しています。

アントーニアが11歳のときにクリスティーナは結婚をします。結婚式肖像画はディティールです。

アントーニアの姉
四女マリア・クリスティーナ
(1742-1798)

過去記事
ハプスブルグ家 マリア・クリスティーナ
(C)Sophia Trefusis' photostream

13歳上のクリスティーナは結婚前も結婚後も、アントーニアと一緒の時間を過ごすことも多くありました。

Marie-Antoinette, her brother and sisters 1767


左の幼児はヨーゼフとイザベラの子マリア・テレジアでしょうか。椅子に座るのがクリスティーナ、中央がアントーニア、そして弟マクシミリアン。アントーニア11歳。

長女と同じ名前の五女アリア・エリザベートは、天然痘で一命を取り留めたものの、一夜で醜女となり、次女マリア・アンナと同じ女学校に入学しています。たぶんアントーニアの誕生時は12歳なので、それから数年後のこと。

アントーニアの姉
五女マリア・エリザベート
(1743-1808)

過去記事
ハプスブルグ家 マリア・エリザベート
(C)Sophia Trefusis' photostream

9歳(?!)らしいこの肖像画。7歳の頃より幼い。この頃、21歳のエリザベートは天然痘に美貌を侵された頃でしょうか。エリザベートはアントーニアに、「ちびののろまさん」がヴェルサイユに送られるのを非常に驚いたと言い放ったことがありました。
シェーンブルン宮殿の角部屋の朝食の間の隣には子供部屋。そこにアントワネットをはじめ、姉のクリスティーネ、カロリーナ、アマーリア、ヨーゼファが幸せに過ごしていました。

Caroline, Josepha, Antonia(Antoinette)


この肖像画は左からカロリーナ、ヨーゼファ、アントーニアの3人が描かれています。中央の九女のヨーゼファは姉妹のなかでも美しいと評判でした。

シェーンブルン宮殿には、クリスティーネ、カロリーナ、アントーニアの3人が天使のように可愛く描かれた肖像画などもあります。ただ、クリスティーネとするには大変幼すぎて、ヨーゼファではないかと思います。

「Triumph of Love」 Johann Georg Weikert

「愛の勝利」ディティール ヨハン・ゲオルグ・ヴァイケルト 1765年


全体像は過去記事「マリー・アントワネットが愛したもの」からごらんいただけます。右で踊るのは10歳のアントーニア。1765年の兄ヨーゼフとマリア・イザベラの結婚式。ひとつ上の兄フェルディナント、ひとつ下の弟マクシミリアンと中央に描かれてます。

 Amèlieアントーニアの姉
六女マリア・アマーリア
(1746-1804)

過去記事
ハプスブルグ家 マリア・アマーリア
(C)Sophia Trefusis' photostream

六女のアマーリアはアントーニア誕生時には9歳でした。それぞれの結婚後も交際が続いています。7女のマリア・カロリーネはすぐになくなり、十女のその名が継がれます。

八女のマリア・ヨハンナ・ガブリエレ(1750年 - 1762年) は12歳で亡くなっています。

マリア・ヨハンナが亡くなったときのことを、アントーニアが記しています。

3年前の今日、ヨハンナは亡くなり、当時のヨハンナの年齢にも達していないわたし。マイテンスがヨハンナを描いた肖像画をママンは降ろすように命じた。

わたしたち姉妹、兄弟は、彼女の魂のために祈ります。そして目をつぶり、ヨハンナの姿を胸に覚え描きます。



12歳のアントーニア 1767年
マルティン・ファン・マイテンス


12歳のアントーニアはまた姉妹の死をむかえなければなりませんでした。

わたしの姉ヨーゼファ。
天然痘に侵されたのです。ヨハンナのように。
死に脅かされる姉。

あの悲鳴が聞こえてくる。彼女はひどい外観のまま。そして、またあの悲鳴が聞こえてくるのです。
ヨーゼファの肖像画はたびたびアントワネットの肖像画とともに見ることができます。



マリア・ヨーゼファ


いま左側だけの肖像画になっていますが、もともとは姉妹が描かれている肖像画です。1759年にPierre Benevault によって描かれたもの。アントーニアと紹介されているものでもありますが、わたしはヨーゼファだと思います。

マリア・アントーニアの姉 九女 マリア・ヨーゼファ
過去記事
ハプスブルグ家 マリア・ヨーゼファ
この作品、8歳のヨーゼファと4歳のアントーニオ、もう一人描かれているような肖像画。

この肖像画は12歳のヨーゼファと8歳のアントーニオです。左のヨーゼファはミネルヴァ、右のアントーニオはディアナにたとえられて描かれています。作者不明の肖像画。
13歳になったアントーニア。姉妹の死におびえるのも束の間、日常は快活で奔放なアントーニアで暮らします。

特別に敬虔でもなくて、学究的にめざましいわけでもなく、宮廷音楽家のグルックにならう音楽やダンスにバレエ、乗馬や愛犬に明け暮れます。

そのため、まだフランス語は翌年ヴェルモン神父が教育することに。

E.J. Alphen, 1768

13歳のマリア・アントーニア 1768年


母のマリア・テレジアは、フランスの宮廷娯楽を知っていて、アントーニアにカードゲームを教えます。それは「ゲームに勝つ」ということを学んでほしかったのでしょう。

ヴェルサイユでの夜通しのパーティ。アントーニアがそこで負けるとなれば・・・。

アントーニアの姉
十女マリア・カロリーナ(マリア・カロリーネ)
(1752-1815)

過去記事
ハプスブルグ家 マリア・カロリーナ
(C)Sophia Trefusis' photostream

十女のカロリーナです。アントーニアが誕生してからずっと同じ部屋で同じ教育を受けてきました。母マリア・テレジアは二人の悪戯、遊びにカロリーナが引き込まれるのを黙って見ていたわけではありません。二人の教育は別々に行うことになりました。カロリーナが亡くなったヨーゼファーのかわりにナポリに嫁ぐことになってアントーニアは号泣します。

Joseph Ducreux, 1769

14歳のマリア・アントーニア

Joseph Ducreux, 1769この肖像画も上の肖像画も1769年、ジョセフ・デュクルー(Joseph Ducreux)の作品です。

オーストリアに残す肖像画と、左はヴェルサイユに嫁入り道具としてもって行く肖像画としたのでしょうか。

1770年5月まではマリア・アントーニアとしてハプスブルグ家の大公女として過ごすまでわずか。

マリー・アントワネット
オーストリアの公式肖像画
Joseph Hauzinger
作品ウフィツィ美術館の特別展示室」で有名なヨハン・ゾファニーの肖像画。ゾファニーはハプスブルグ家の肖像画を多数残しています。

アントーニアはここシェーンブルン宮殿で過ごした生活がフランスでも続けられると考えていたのでしょう。

フランス行きには、二人の俳優が語法を手直しするなど、ここでは舞台から学び、歩いて動くことを言葉と共有し、美と優雅さを身に着けました。

十代から髪をとき、入浴するのも召使を使うことは許されず、エチケットはフランスの宮廷とは違います。

大好きな演劇を観劇するだけではなく、宮廷の公女、公子らが舞台に立って演劇やオペラ、バレエを披露する家族的なオーストリアのハプスブルグ家。

肖像画の好みやフランスの娯楽にいたっては、マリア・テレジアはよく知っていたにもかかわらず、たぶんポンパドゥール夫人を真似たくらいに考えていたのでしょうが、一番大切なヴェルサイユの序列、その取り巻き、しきたり、慣習などを、嫁ぐアントーニアに少しでも授けていたならと思います。
 

Johann Franz Greipel


いまでは知られているこの集団肖像画(ディティール)です。シェーンブルン宮殿にあるこの作品を長い間、何を描いているのかわからなかったそうです。そして、もう一枚の集団肖像画と同じものだということがのちに解明されたようです。

この作品は1765年に描かれています。ヨーゼフとイザベラの結婚式。先に紹介したフェルディナント、アントーニア、マクシミリアンの年少組みバレエに対し、年長組みの4人のオペラ。舞台の下にはオーケストラを指揮するレオポルトがいます。

シナリオはアントーニアの音楽教師でもある宮廷音楽家のクリストフ・ヴィリバルト・グルック。

ここに描かれているのが上の作品で舞台にいる少女たちのなかで一番右に描かれている二人です。おわかりですね。アントーニアの姉妹が描かれています。
シェーンブルンの宮殿の壁には、この作者ヨハン・フランツ・グレイペルが描いた集団肖像画の2枚で共通している人物は4人の少女。

上の少女の反対側の左部分が、このカロリーナです。うえの少女は珍しくエリザベート、そしてヨーゼファ。

樹木が茂った背景に4人の少女が描かれています。舞台と観客が描かれている講堂と、4人の少女たちだけが描かれている2枚の肖像画。



アポロのアマリーア、女神メルポメネーのエリザベート
女神エウテルペーのヨーゼファ、女神エラトのカロリーナ

女神エラトーに扮したマリー・アントワネット 最初の記事「マリー・アントワネットが愛したもの

幼少時代から幽閉までの肖像画のほか、アントワネット愛用品など、全体の流れの記事です。ぜひご覧くださいな。

この肖像画はエラトに扮したマリー・アントワネットです。カロリーナの演じたエラトを思い出したのでしょうか。
| ハプスブルグ家 | 23:02 | - | - | pookmark |
ハプスブルグ家 マリア・カロリーナ

Archduchess Maria Carolinaマリア・テレジアの十女
マリア・カロリーナ(1752-1814)
Maria Karolina von Habsburg-Lothringen

ナポリとシチリアの王フェルディナンド4世および3世の王妃となるマリア・カロリーナ。

ルイ16世との縁組は、姉マリア・ヨーゼファの急死で、ヨーゼファが嫁ぐ予定だったナポリ王へとかわります。

こうしてルイ16世との縁組は妹のマリー・アントワネットになるのです。

マリア・カロリーナのお相手フェルディナンド1世(シチリア王ではフェルディナンド3世、ナポリ王ではフェルディナンド4世)は、マナーや教養にはちょっと縁遠く、人の善い気さくな人柄だったようです。

Maria Karolina of Austria Queen

Maria Karolina of Austria Queen


誇り高きハウスブルグ家に育ち、お妃教育を学んできたマリア・カロリーナにはどのように映ったでしょう。

結婚政策で恋愛結婚ではなかったカロリーナですが、フェルディナンド1世を「かわいいおばかさん」と可愛がったようです。

思いもよらないことです。驚きました。彼女は泣き叫んで母マリア・テレジアに結婚を拒否しましたのに!

Maria Carolina and ferdinand with their Children


Maria Carolina and ferdinand with Children


「かわいいおばかさん」はマリア・カロリーナにメロメロで、カロリーナもフェルディナンド1世を上手にあやして、思い通りに野心を達成していきます。

Maria Carolina d’Austria regina di Napoli e Sicilia

Maria Carolina, Queen consort of Naples and Sicily


マリア・テレジアは「シャルロット(シャーロット)」とマリア・カロリーナを呼び、マリー・アントワネットと双子のように育てていきます。この二人の姉妹の違いが「学術熱心さ」なんですね。

のちにマリア・テレジアはカロリーナとアントワネットの教育を完全に分離します。

Maria Karolina of Austria Young

Maria Karolina of Austria Young


ナポリ王との縁組では、マリア・カロリーナが最初の男子を誕生させたあと、彼女に政治上の全権を委ねるという約束がされていました。

士官学校の設立、軍隊編成など、マリア・テレジア譲りの手腕を発揮します。彼女の野心は、ナポリ王国を大国にすること!

Maria Carolina and ferdinand with their Children

Maria Karolina of Austria Family

Angelika Kauffmann


美しく、マリア・テレジアのように賢明で多くの子供を出産します。

マリア・カロリーナの意図的で激しい気性、強い個性は、国を統治するために生まれてきたということがマリア・テレジアにも、カロリーナ自信も確信していたのでしょう。

マリア・テレジアはその個性とともに、カロリーナに寛大で優しい女性であることを強く望みました。

Maria Carolina, Queen consort of Naples and Sicily

Maria Carolina, Queen consort of Naples and Sicily


フェルディナンド1世は手と手袋へのフェティシズムが強く、マリア・カロリーナの願いは、その手を差し出すことで願いが叶っていきます。

最愛の妹マリー・アントワネットがフランスの革命で断頭台で果てたときも。

夫に手を差し出し、フランス革命軍との戦いにナポリ・シチリア合同軍を組織させるのです。

Angelika Kauffmann Portrait Maria Karoline von sterreich VLM

Maria Karoline von sterreich VLM

Angelika Kauffmann
アンゲリカ・カウフマン(Angelica Kauffmann 1741-1807)


ナポリでも革命がおこり、マリア・カロリーナとフェルディナンドは共和派を処刑していきます。容赦なく。そののちナポレオン・ボナパルトがフェルディナンドを退位させ、マリア・カロリーナは1812年まで実権を握るのですが、息子のフランチェスコ1世との共同統治とはなりませんでした。

オーストリアへの亡命。

アントワネットの処刑をはじめ、マリア・カロリーナを襲う不幸から逃れるため、アヘンを常用します。

マリア・テレジアの子でマリア・カロリーナ(マリア・カロリーネ)という名をつけられたシャーロット(シャロット)は、3人目のマリア・カロリーナ。

晩年はマリア・テレジア以上に孤独で、病死で62歳の生涯を閉じました。
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| ハプスブルグ家 | 02:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ハプスブルグ家 マリア・ヨーゼファ

Archduchess Maria Josepha of Austria by Martin van Meytenマリア・テレジアの九女
マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1751-1767)
Maria Josepha Gabriella Johanna Antonia Anna

アンドレアス・メラーによる肖像画。

アンドレアス・メラーは本当に愛くるしく描きます。この幼女が天然痘で亡くなるとは・・・。

マリア・テレジアの結婚政策によって、16歳のマリア・ヨーゼファはナポリ王に嫁ぐ予定でした。

ところがまた天然痘がマリア・テレジアの公女を襲うのです。



Archduchess Maria Josepha Habsburg-Lothringen (1751-67)

Archduchess Maria Josepha of Austria




Maria Josepha von Österreich結婚式を目前に死去したマリア・ヨーゼファのかわりにナポリ王に嫁いだのは妹の十女マリア・カロリーナです。

マリー・アントワネットのすぐうえの姉でもあるマリア・カロリーナは、ルイ16世との縁組も持ち上がっていたのですが、九女のマリア・ヨーゼファの急死で、運命の歯車がまわりだしました。



マリア・ヨーゼファは、ともかく短い花の一生を終えました。もし彼女が生きていたなら、カロリーナはフランスに嫁いだのでしょうか。


Archduchess Maria Josepha of Austria


歴史の「if」ですが、フランスの国の運命がそうであるなら、やはり同じ運命をたどったのかもしれません。

| ハプスブルグ家 | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ハプスブルグ家 マリア・アマーリア
マリア・テレジアの六女
マリア・アマーリア(1746-1804)
Maria Amalia von Habsburg-Lothringen

マリア・アマリーアのすぐうえの姉にマリア・クリスティーナがいます。マリア・テレジアの公女のなかで唯一恋愛結婚を認められたクリスティーナ。

このマリア・アマーリアは結婚政策でパルア公のフェルディナンド・ディ・ボルボーネと結婚することになりました。

このフェルディナンド・ディ・ボルボーネの姉マリア・イザベラは、アマーリアの兄ヨーゼフ2世の兄嫁です。妖精のような可憐さと天使のような優しいイザベラ。

ところが弟ときましたら!



Archduchess Maria Amalia of Austria

 Martin van Meytens

姉マリア・クリスティーナ(マリア・クリスティーネ)同様に、小国公子との恋愛があったようですが、マリア・テレジアのクリスティーナへの偏愛と、ブルボン家との同盟と強化するため、アマリーアは政策のために北イタリアのパルマに送り込まれたのです。

アマーリアは、傍若無人な振る舞いで我が意のままに国政を動かそうとします。マリア・テレジアが諌めても無視。とうとう勘当同様の扱いとなりました。



Maria Amalia of Austria and Ferdinand


さてイザベラの弟、アマーリアの花婿のパルマ公はどんな驚きの人物だったか!

栗を焼くこと、教会の鐘を鳴らすことが大好きな仕事だった。
(江村 洋著作 「ハプスブルグ家の女たち」より)

女性のみなさん、おわかりになりますね。がっかりですよね。それでも7人の子供たちが育っているんです。現在のブルボン=パルマ家は分家がルクセンブルク大公。2000年に在位したアンリで4男1女に恵まれ、継承順位第1位ギョーム・ド・ナッソーと、彼らの子孫は絶えていません。



? Archduchess Maria Amalia of Austria ?

Rosalba Carriera


ロザルバ・カリエーラの作品ですが、ちょっと自信がない。たぶんアマーリアだと思います。

アマーリアは、おしゃれで、また個性的な肖像画がたくさんのこされています。アレクサンダー・ロスリン(Alexander Roslin)、マリア・テレジア推薦のヨハン・ゾファニー Johann Zoffany が描いています。

アマーリアが結婚後も親しくしていた姉妹には、マリー・アントワネットマリア・カロリーナです。手紙に贈り物、肖像画を交換しあっていました。

Maria Antonietta di Borbone-Parma フランス革命がおこり、獄中にいるマリー・アントワネットは最後の手紙を密かにアマーリアに送ります。

また、アマーリアは自分の娘にマリー・アントワネット(マリーア・アントニエッタ María Antonietta di Borbone)と名づけます。(右画像)


こうしてアントワネットが処刑され、ナポレオン・ボナパルトがイタリアに侵入します。

夫が亡くなり、パルマを追放され、プラハの城で1804年に亡くなるまで、アマーリアは一人だったといいます。
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ハプスブルグ家 マリア・エリザベート
Erzherzogin Maria Elisabethマリア・テレジアの五女
マリア・エリザベート
(1743-1808)

1764年にポンパドゥール夫人が亡くなるその前年、結婚の使節をつかわせたマリア・テレジア。

このときマリア・エリザベートは20歳。

ところがフランスへの嫁入りにはまだ当時8歳の妹マリー・アントワネットがエリザベートより先に対象となりました。

このあとポンパドゥール夫人が亡くなりるのです。
ルイ15世とマリア・エリザベートを娶わせてはどうか。
最初の結婚使節をつかわせてから3年。
フランス王大子ルイ・フェルディナン、妃マリー=ジョゼフがルイ=オーギュストとの結婚には反対していたのですが王大子の急死により、アントワネットとルイ=オーギュストの結婚が決定しました。

Archduchess Maria Elisabeth


こうしたさなかに、マリア・エリザベートは天然痘にかかってしまうのです。

皆さんもご存知の天然痘です。ルイ15世も天然痘で亡くなりますが、非常に死亡率が高いのですね。治癒した場合にはこの天然痘の醜い痕跡が残ってしまうのです。

こうして姉のアンナと同様に建設した女学校へと追いやられます。

マリア・エリザベートは未婚のままで、やがて修道院長となり、65歳で生涯を終えます。
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ハプスブルグ家 マリア・クリスティーナ
cristinaマリア・テレジアの四女
マリア・クリスティーナ
(1742 - 1798)

マリア・テレジアに偏愛され、唯一恋愛結婚を果たしたマリア・クリスティーナ。

仲の良くなかったといわれる姉マリア・アンナですが、アンナ同様に絵画の才能があったようです。

愛称ミミことクリスティーナは、兄ヨーゼフの妻イザベラとはずいぶんと親密な関係でした。

ミミとイザベラの手紙のやりとりは恋人同士のような文面です。

Erzherzogin Maria Christine (1742-1798) Johann Zoffanyミミ最愛の人はウィーンの王宮に任官しているアルベルト公子です。

下級の貴族のアルベルト公子の結婚は、マリア・テレジアの夫フランツ1世が亡くなってから多くの持参金を持たせ嫁がせました。

政治的貢献に無能なアルベルトは芸術においては有能で、多くの芸術品をコレクションしました。

あのアルベルティーナ美術館(Albertina Museum)がアルベルトの絵画館として1776年に創設されたのです。

公国も領土も与えられていましたが、母マリア・テレジアが亡くなると冷遇されたようです。一人だけ恋愛結婚を認められた故に、この夫妻は一族から見放されました。

Marie Christine of Austriaこの肖像画は自画像です。

ミミの家庭的で女性らしい姿を描いています。

家族の様子を描いた水彩画を多数残しているようですが、1枚しか発見できませんでした。

ウィーン美術史美術館、アルベルティーナ美術館に所蔵されているんでしょうか?

険悪な仲の姉マリア・アンナも絵画の才能もあったようですが、作品は残っていないのでしょうか。

さて最後の1枚が、ミミが描いたマリア・テレジア夫妻と姉妹、弟です。

Maria Theresa of Austria family

Maria Christina von Habsburg-Lothringen

「Maria Theresa of Austria family」


中央後方でお人形を持っているのが妹のマリー・アントワネット。王宮の暮らしというより家庭的なシーンです。
| ハプスブルグ家 | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |