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ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

Portrait of Marie Antoinette and her children by Charles Leclercq

マリー・アントワネットと子ども達 1782年
シャルル・ルクレルク


これはエリザベート王女をウェヌスの処女にたとえて描いた作品と同じ画家です。1782年ですからマリー・テレーズとルイ・ジョゼフ。ルイ・ジョゼフは、ルイ16世の第3子で、はじめて世継ぎの男の子として誕生しました。

これまでのマリー・アントワネットの記事
過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの
過去記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
過去記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
過去記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

マリー・アントワネットが好きなものですから、記事も使用している肖像画もとっても多くなりました。今度は記事に使用した肖像画だけの記事も書いてみようかと思っています。

いちばん肖像画が多いのは「マリー・アントワネットが愛したもの」ですが、そのほかの記事は、大きく肖像画をご覧いただけます。


 Reine de France  王妃のノブレス・オブリージュ

「私は一生涯、戴冠の日を忘れないでしょう。」

1774年、ルイ16世はフランス国王となり、マリー・アントワネットはフランス王妃となりました。

ここで結婚式と戴冠式について、二人をみようと殺到したため犠牲となった国民や農民がいます。(どちらの時だったのかは、それぞれの本によって違います。)

そうした犠牲者とその家族のために、ルイとマリー・アントワネットが、1年間にわたり私財からお金を与え続けていたということです。

マリー・アントワネットが王妃となり、ルイ16世が統治することになったフランスの財政はこれまでの国王の時代の浪費にため、たいへん窮乏していました。

記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

ルイ15世の葬儀の費用はさらに財政を圧迫します。そしてアントワネットと反目していたデギュイヨン公爵の罷免にともなう退職金。アメリカ独立戦争の支援にともなうチェサピーク湾の海戦はさらに財政難に拍車とかけます。

この時代、フランスの国民の3/4が農民です。

フランスの社会制度 「アンシャン=レジーム」では、特権階級の第一身分が聖職者で、第二身分が貴族となります。そして第三身分が平民。つまりフランスの4%が特権階級で、96%が市民だったわけです。

明日がこないかもしれない貧困と激しい労働に重税が農民の若い娘たちの美貌や容姿を侵食します。28歳の老婆というのは、アーサー・ヤングのフランス紀行にでてきます。

つまり、アントワネットや宮廷が美しく着飾っているとき、20代の娘たちは、すでに老婆の顔をもつ容姿と成り果てていたのです。

「フランス紀行」は、フランスのルイ16世時代を旅したアーサー・ヤングによって書かれています。ぜひご一読ください。(現在はフランス旅行記になっているかも)



マリー・アントワネット 1775年 作者不詳


こうした時代に即位したルイ16世は、国民から「王妃の飾り帯」に祝い金を贈る風習を廃止しました。

マリー・アントワネットは「王妃の飾り帯はもう締めません。」と農民に話したエピソードがありましたがたいへん感銘を受けた言葉として残っています。

そして、1776年の冬。

ルイ16世は農民に寒さをしのげるよう、薪を配りに訪問します。施しものを貧しい人々に贈り、生きるための援助を惜しみません。

私財を投じて施し物を配って、ルイ16世はしばしば貧しい人々を訪問しました。 厳しい1776年冬の間、王は農民たちに薪を配ります。 ルイ16世は人道主義で、病院、刑務所、工場にお忍びに行きました。

国王と王妃は、慈善の「メゾン・フィランソロピー(博愛の家?)」(Maison Philanthropique)を後援し、高齢者、未亡人、病人を保護します。

王妃はマリー・テレーズに貧困者のために薪と毛布を買い与え、病気の人々へは、食料の入った籠を贈ることを教えます。

人間愛に基づく活動をルイ16世とアントワネットは活発に行っていたのでした。クリスチャンの基本的な活動として。

そして1792年、オランプ・ドゥ・グージェがエタンプの市長の葬儀の祭典に寄付することを要求してきました。12000リーヴルを王室費から寄付しています。

王妃は「私たちが不運な彼らの幸福のために努めることが、当然の義務です。」とルイ16世に伝えたのでした。


 タンプル塔

タンプル塔では「家族」という絆が強くなった王一家。ルイ16世、マリー・アントワネット、エリザベート王女の処刑。ルイ・シャルルの病死。そして最後まで生き延びたマリー・テレーズ。

真実優しかったシモン夫妻、密告の管理人ティゾン夫妻、悪徳でお名高いバラス子爵が発見したルイ・シャルル、そしてバラスの息がかかったと疑われるローラン、そのローランを監視するためのゴマンと小説ではなくともドラマティックに陰謀のシナリオが進みます。

こうしたなかでも、タンプル塔での贅沢な食事は十数人のコックがいました。スープは3種類、前菜4種類、肉料理6種類、アントルメ4〜5種類で、これだけでも一人15皿。さらにデザート、果物をいれうと19皿。王一家は王権も奪われ、王室費も停止され、カペーと平民の名を与えられながらも、パリ市の財政と思われるところから、特別待遇です。

ローズ・ベルタンは、タンプル塔でのアントワネットのドレスを作り続け届けています。

のちに王家に関わった仕立て屋、宝飾店などの商人たちが断頭台にあがることになりますが、ベルタンが免れたのは、多くのお針子を抱え、当時の雇用促進の要だったからです。

アントワネットはパリ市に衣装一式を依頼します。それがローズ・ベルタンに仕立てさせたと思うのですが、アンドレ・カストロはそのため30人のお針子が働いたと述べています。

もちろん支払いはパリ市の財政からでるのです。苦しいパリの財政。

Tour du Temple

タンプル塔の国王一家


藤本ひとみさんは、「黒いビーバーの毛皮の乗馬服、フィレンツェのタフタ織の長上衣等、上質の衣類が各数点以上注文し、肩掛にいたっては、数百枚。もちろん化粧品、そして莫大な香水の支出。」

マリー・テレーズの回想録は、かなり妙訳が多いのでしょうか。翻訳されていない部分もありますが、藤本ひとみさんの著作本にはこの部分がちらりと書いてありました(抜かりが無い)。

マリー・テレーズの回想録に「母はパリ市へ父の死を悼むため、大喪用の喪服、下着から蝋塗りの履物、黒のタフタ織の扇にいたるまでを注文した。」とあるそうです。

チュイルリーからタンプル塔に幽閉されて、アントワネットは長くいるとは考えることがなかったのです。救出されることができると確信していたからです。

さて、それぞれのタンプル塔はこちらの記事からご覧ください。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年10月
記事 マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達
記事 フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの
過去記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
過去記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
過去記事 マリー・アントワネット フランス紀行から
過去記事 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
過去記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス


 コンシェルジュリーでの元王妃 「ロザリー・ラモリエール記」より


コンシエルジュリーに入った王妃の牢は現在観光コースですが、実際のマリー・アントワネットの独房ではありません。礼拝堂に面した部分だそうです。そしてカーネーション事件後は一番奥の建築物。処刑の一月前です。

王妃のコンシェルジュリーでの食事

朝食はプチ・ロール(ロールパン)にショコラ。王妃時代から朝食のメニューも変わっていませんね。王妃は葡萄酒は口にしない習慣でヴィル・ダブレのお水を愛飲。この手記にもお水しか口にしないとありましたが、ヴィル・ダブレも用意されていました。

この当時、1973年の7月から9月までは物価が高騰して、都市に住む平均的な市民も、パンを手に入れるのが一苦労でした。パンの質がさがり、ひどくまずいパンでさえ入手が難しかったのが8月でした。

そして昼食はいちばん多く取る習慣でしたね。コンシエルジュリーの王妃の昼食はスープ、ミルク粥、野菜、家鴨(王妃の好物らしいです。)、または仔牛のお肉、デザートで、夕食はこの昼食のメニューから選ぶそう。

Postumous portrait of Marie Antoinette in the Conciergerie

コンシエルジュリーの喪服のマリー・アントワネット


当時のコンシエルジュリーは、藁をひいた大監房に集団で投獄されます。

寝台もなく、藁のうえで寝るそうです。排泄物のなかで寝て、死を待つ人々。裕福なものはお金次第で、二人部屋、個室に上等な食事を与えられました。

記事 フランス革命下の囚人たち

マリー・アントワネットには、特別に広い牢、排泄するときの屏風と排泄係りのほか、部屋付きの女中が身の回りの世話をしていました。

ロザリー・ラモリエール(部屋付女中)の手記

9月虐殺の少しあと、私が勤めていたボーリュー夫人が亡くなり、牢獄の管理人リシャール夫人に勤めることになりました。コンシエルジュリーのマダム・リシャールは、囚人に対する私の同情心に対して、すこしも反感を示しませんでした。

8月1日、王妃がこのコンシエルジュリーに移されてきました。ベットは王妃に似つかわしくないものでしたが、私達が用意した上等なシーツと長枕でお休みになられました。

4日目、5日目頃のこと。王妃から金時計を取り上げることになりました。

王妃の下着が届けられたのは10日もしてからでした。ミショニがマダム・エリザベートから預かってきたようです。白麻のシュミーズ、ポケットハンカチーフ、三角スカーフ、絹やあら絹の靴下、白い普段着、夜のボンネット、たくさんのリボンのはしきれ。

王妃は大きな喪の帽子をかぶっておられました。お持ちの寒冷紗でボンネットの仕立てをマダム・リシャールに頼みました。私は残りの寒冷紗をいただきました。まだ大切にとっています。

ある日、マダム・リシャールは彼女の息子、青い目の品の良い一番下の息子を王妃の部屋に連れてきました。王妃はその息子を抱きしめ、優しくキスをし王太子の話をはじめました。マダム・リシャールはかえって苦しめたのではないかと、連れて行くのをやめようと話しました。

マダム・リシャールは法令により、お食事に使う王妃の銀器を隠すことになりました。私は王妃が食事をされる器は銀のように磨きました。

王妃は鳥を二日間食べられるように二つにわけます。その見事な手さばき。二皿目の野菜料理。王妃はかなりの食欲でお召し上がりになりました。

マダム・リシャールがいた頃は、心のこもった食事をだされていました。美味しい鳥、上等な果物。

9月半ば、ド・ルージュヴィルという男がミショニという衛兵によって王妃の部屋へ連れてこられました。王妃の服の裾のところにカーネーションを落としていきました。

女中のアレル(アレン)は何もかも見ていて、フーキエに報告しました。リシャールとマダム、上の息子はサント・ペラジー、マドロネットの独房に入れられました。

Le cachot de la reine ・la Conciergerie

コンシエルジュリーのマリー・アントワネットの独房


新しい管理人はルボー、そして娘のヴィクトワール(マダム・コルソン)。ルボーはマダム・リシャールの投獄の件で、くれぐれも不注意に親しくするのは気をつけるようにと言いました。

管理は厳しくなり、王妃の食事は鳥か仔牛のお肉の主食に、野菜料理は一皿になりました。

そしてマダム・アレルがいつも髪を結っていましたが、彼女がいなくなって、王妃はご自分で髪をお結いになるのです。

王妃は折り返しのある小さな部屋履きを履いていました。私はこのきれいな、うつぼ黒の履物にブラシをかけました。サン・テュベルティ風でした。

ある将校が、私はいつも王妃の部屋履きをブラシをかけているのを見て、王妃の履物をひとつとり、磨いてくれたのです。

不幸なカーネーション事件から、洗濯屋のソーリュウが来なくなり、かわりに私が真っ白に洗って差し上げました。

革命裁判所の書記は、王妃のいくつかの下着類を取り上げ、時々1枚ずつ与えるようになりました。王妃の二つの指輪も取り上げられました。

王妃の生活は、ご不自由で蜀代もランプもありません。裁判を受ける日は断食させられました。

16日、フランス王妃は死刑の宣告を受けたことを知りました。私は自分の部屋まで叫び声と鳴き声を押し殺しました。

夜が明ける前、宣誓司祭がやってきましたが、王妃は断りました。

「今朝は何をお召し上がりになりますか。」

王妃は涙を流しておりました。「何もいりません。すべておしまいですから。」私はあえて「スープとヴェルミセルがございます。しっかりなさらなければなりません。」と言いました。

幾さじか飲み込むのがやっとでした。

王妃は憲兵の前で注意深く、誰かが持ってきたシュミーズを身につけました。朝に身につけられる白いピケの普段着にモスリンの肩掛を身につけました。髪は少し高く結い上げ、ひだのある飾りで縁どられた寒冷紗の帽子。形も変わらなければ傷みもしなかった黒い布製の靴。

私は王妃の前で悲しい思いをさせぬよう、さよならもお辞儀もせずに別れました。そのあと裁判所の守衛長が王妃の品々、1本の藁までを私に拾わせ、遺品を持っていってしまいました。

Death  of Marie Antoinette

?マリー・アントワネットの死に顔?


マリー・アントワネットはいつでも生きる望みを絶つことはありませんでした。そのためにはフランスを犠牲にしても。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月

私の過去記事では3つの罪をあげました。

過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの

いま、フランスでは国王夫妻についてはとても同情的です。でもそれは真実を知ってこそだと思います。アントワネットの弁護士ショーヴォー・ラガルドの手記、処刑に関しては下記記事から。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年の10月

もっとも残念なのは、コンシエルジュリーに投獄されて、無実の民衆や修道女、非宣誓司祭たち、王党派の貴族や宮廷に仕えていた廷臣などの監獄生活を知ることもあったでしょう。

ロザリーの手記には、修道女が毎日祈り続けている姿に目をむけただけ。排泄物と藁の上で死を待つ囚人の姿は見ることはなかったのでしょう。そのことに関して心を痛めることがあったのでしょうか。

そして、仮に見なかったとしても、ルイ16世の全盛期、国王が何のために監獄を視察していたのかもわからなかったのかもしれません。救いと感謝の絆は牢獄からも生まれるのです。

記事 フランス革命下の囚人たち

ル・バトニエ・アンリ・ロベールは「ルイ16世」(レ・グラン・クール叢書)で、不幸のなかで王妃としての義務を自覚して、比類なき品位をそなえた悲運の王妃(悲劇の王妃)と派手に絶賛しています。

王妃はタンプル塔、コンシエルジュリーでどんな王妃の義務を果たしたのでしょうか。投獄前の生活とは比べられないほど、この監獄生活で品位を保ちながら暮らしたことは、義務に値するのでしょうか。

「私たちが不運な彼らの幸福のために努めることが、当然の義務です。」と言ったとされる言葉はどこにあるのでしょう。

ノブレス・オブリージュとは、「従者にかしずかれる高貴な身分の者は、高潔な意志のもとに義務を負うこと」で、社会的圧力ではなく、社会的責任を負うことです。

懐かしいトリアノンのあの遊び。ここで、朝の部屋着にはルブラン夫人が描いた真っ白なピケのドレスを、遊びでもなく、流行でもなく着ていました。「私はこういうドレスが好き」といった王妃。最後まで望みは叶ったのです。

Marie Antoinette Elisabeth Vigee Le Brun, 1800

死後の肖像画 マリー・アントワネット 1800
コンシエルジュリーでの朝の部屋着 白いドレス
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


オリヴィエ・ブラン著作から引用

「アントワネットは7時に起き10時に寝る。彼女は二人の憲兵をメシュー(あなたがた)と呼び、部屋付きの二人の女のうち、一人をマダム・アレルと呼ぶ(→カーネーション事件を密告した彼女ですね)。

警察理事官たちと、公式に彼女に近づく人らりは、アントワネットをマダムと呼ぶ。アントワネットはたいへんな食欲で食べる。しかし彼女達は、この元王妃と隣り合っていることに気づいているそぶりを見せない。」
1793年9月の王妃脱獄計画事件(カーネーション事件)の前のお話しですね。

「朝はショコラとプチパン、夕食はスープと多くの肉、鶏、仔牛肉、羊肉のカツレツ。彼女は水しか飲まない、母親とおなじように。母親は葡萄酒は決して飲まなかったとか。

彼女は「イギリスの革命」の読書は終わり、現在は「若きアナシャルシ」を読んでいる。

彼女は自分で身繕いをする。最後の最後まで女性から離れることはないおしゃれ心で。彼女の部屋は(最初の部屋のこと)、女達の監房に面していたあと、監獄の薬局が置かれていた場所に移る。

外界との交渉を防ぐために再補修された。これまで云々されてきたこととは反対に、彼女は最後までいい待遇だった。彼女の革命裁判所に、彼女は優雅な白のドレス、それも清潔なドレスを着てあらわれた。」
それでも健康を損なっている囚人たちですが、マリー・アントワネットも不正出血がありました。ロザリーの手記でも処刑当日に血に染まったシュミーズをアントワネットは壁の隙間に隠したとありました。


 不思議な逸話

コンシエルジュリーの王妃を見たという男の証言があります。部屋付きのロザリーの手記とは違う印象。

「王妃は粗雑なシーツのベットと古びた衝立の部屋だった。世話をする部屋付きの女はとても下品で、王妃はそのことをこぼしていた。

いつ拷問されるのだろうと王妃は、その覚悟で、一日中喪服を着ている。警察当局者のド・ミショスはそのことを切なげに泣きながら訴えた。」とあります。

不思議ですね。この証言に、まずミショスがでてきます。ということは、ルージュヴィルの証言ではないでしょうか?あのカーネーション事件で、失敗した瞬間に一人だけ逃げ出した「ルージュヴィルの騎士」です。

こういうルージュヴィルのような男が、哀れなお話しをつくるのですね。人を悲劇的にみて、不運、不幸と決め付ける、いやらしい人格です。それができるのは才能ある作家だけ!もし成功していたら自分が救世主だと名乗るつもりだったのでしょう。

私は私以外の誰かに、私の生涯が不幸で不運な悲劇的だなんて思われることにゾッとします。気位のこの高い王妃こそ、もっとも忌々しく感じることでしょう。

Sophie Prieur, 1793, Museum of Carnavalet

喪服を着るタンプル塔のマリー・アントワネット


王妃は悲劇的で不幸な王妃として後世に名を残したいわけがありません。そして私も私以外のその人の生涯を悲劇、不幸と決めることはしたくありません。

マリー・アントワネットは、美しく敬虔で、もっとも気高い王妃として名を残したかったのです。

マリー・アントワネットの遺体は、尊厳を奪われた埋葬だったとされていますが、身分の違いを死後にわかるように「両足の間に首をはさむ」とされていたようです。

マダム・タッソーがアントワネットとルイ16世の首をお墓から掘り出して、デス・マスクをつくっています。

王妃の遺体が2週間も野原に放置されていたという逸話がありますが、本当でしょうか?当時自殺した国民議会の一人が発見されたときには、獣に食べられていたあとがあったようですよ。

でもマダム・タッソーはお墓からアントワネットの首を持ち帰り、デス・マスクをつくったのですよね?

マダム・タッソーは、アントワネットの顔に傷がついていましたら、あのようなデス・マスクはつくれなかったと思うのは私だけでしょうか?それともあのデス・マスクは「作り物」なんでしょうか。


 マリー・アントワネットと子供たち


7年間もルイの不能で子供ができなかった二人に、第1王女マリー・テレーズが誕生します。 

1778年のマリー・テレーズの誕生時は、異常気象の年は続いていました。浮浪者、失業者があふれていたそうです。



マリー・テレーズ


マリー・テレーズについては回想録を記事にしていますが、ルイ18世が改竄しているところもあるようですが、「この世でいちばん不幸な子」と自分で数行の詩を壁に書いた彼女を、別記事でアップするつもりです。

死後100年後に公開の彼女の遺言は、いまだに封印されたままのようで、それも気になるところです。

過去記事 マリー・テレーズ王女の回想記録1

ルイ・ジョゼフ

1781年、第2子に王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ(1789年 8歳で夭逝)が誕生しました。

1785年には第2王子ルイ・シャルル(ルイ17世)、1786年にマリー・ソフィー・ベアトリス(1787年天逝)が誕生と4人の子が誕生し、革命前に2人が天逝。ルイ・ジョゼフとマリー・ソフィー・ベアトリス。

Louis-Joseph-Xavier-François, en 1781-82

フランス王太子誕生に集まる王室(部分) 1782


ルイ・ジョゼフの誕生では、王妃と王太子の肖像画が多く描かれています。wiki によると、「幼い王子は驚くほどの賢い子供であったと同時代の人々は記している。」とあります。

ちょうどあのフェルセンはアメリカ独立戦争に行っている頃なので、王妃マリー・アントワネットは、ルイ16世と二人で子ども達を育てる時間が与えられたのでしょう。

1783年、アメリカ合衆国の独立を認めるパリ和平条約(ヴェルサイユ条約)の調印の9月。国庫は空になりました。

フェルセンは1785年頃、パリに在住するようになります。

Louis Joseph Xavier Francois, Dauphin of France_by Adolph-Ulrich Wertmuller

ルイ・ジョゼフ
アドルフ・ウルリッチ・ヴェルトミュラー


1784年に王子の健康が損なわれ、ムエット(ミュエット)で静養します。3歳の頃ですね。1785年、静養先でルイ・ジョゼフは天然痘のワクチンの接種を受けているようです。

1786年、結核の初期症とが王太子は診断されました。乳母だったジュヌヴィエーヴ・ポワトリンヌからうつされたとされています。彼女はどうなったのでしょう。

ルイ16世が王太子のために、地理学者マンセルに注文したという大きな地球儀は、このルイ・ジョゼフに与えたものらしいですね。

1786年に王太子の背中が曲がりだし、歩行が困難になっていくのです、鉄製のコルセットをした王太子。結核菌が脊椎に感染してしまった。

Portrait by Elisabeth Vigee-Lebrun Princess Marie Thérèse Charlotte of France, Madame Royale, and her younger brother Louis Joseph Xavier of France, Dauphin of France, the eldest children of King Louis XVI of France and Queen Marie Antoinette of France, grandchildren of Empress Maria Theresia of Austria and Holy Roman Emperor Franz I. Stephan of Lorraine

マリー・テレーズとルイ・ジョゼフ 1784年
(ルイ・シャルルではありせん。) ルブラン夫人


王太子の背中は湾曲して、下半身は麻痺しだしたのですね。1787年のルブラン夫人の「マリー・アントワネットと子供たち」では、亡くなったマリー・ソフィー・ベアトリスの空のゆりかごに手をかけているルイ・ジョゼフの作品があります。

すでにルイ・ジョゼフの身体を侵蝕している病魔を取り除いた姿。すでにルブラン夫人は王太子の命が尽きることを知っていて、ゆりかごに手をかけた姿を描いたのでしょうか。

アントワネットのあの暗い顔。フランス国民には王太子はこんなに元気ですよ、あるいはマリー・アントワネットを理想の母親像としてフランスに知らしめるための作品なのかもしれません。

1788年1月から熱で体力を消耗し始め、病状が急速に進行したとあります。脊椎カリエスで王子の寿命が長くないことが知らされたようです。

Marie Antoinette-children-1785-6-Wertmuller

マリー・アントワネットと子ども達(マリー・テレーズ、ルイ・ジョゼフ)
アドルフ・ウルリッチ・ヴェルトミュラー ストックホルム美術館


1789年6月4日、ルイ=ジョゼフはムードンの城で亡くなるのです。そして葬儀の費用がないことを知らされ、銀器を売り払いミサを受けることができたのです。

王妃だけが浪費した訳ではないにもかかわらず、葬儀の費用はありません。でも王室費2500万リーヴルのほかに毎年支出される王妃の400万リーヴルはどこに浪費したのでしょう。

5月に支出された王室費は、6月にはなかったのでしょうか。賭博の借金の返済?やはりアントワネットが国民の憎しみの対象となってしまったのも仕方ありません。

これから国王となるはずだったルイ・ジョゼフ、これから育つ子供たちのために、母親として、少しでも財務総監のネッケルの提案を受け入れるべきでした。

Portrait de Marie-Antoinette (1755-1793) et ses enfants au pied dun arbre

マリー・アントワネットの子供たち 1790
フランソワ・デュモン


ルイ・シャルル

マリー・アントワネットの子供たちは手元において、ポリニャック伯夫人らが教育係としておりました。ポリニャック伯夫人が亡命してから、ヴァレンヌの逃亡にも同行したトゥルゼル夫人に変わります。

マリー・アントワネットの覚書 トゥルゼル夫人へ(要約)

王太子の健康は特に問題はありません。ただ疳が強くはじめて経験することに怯えます。ただし物心がつく年頃になれば自然におさまるような恐怖についてのこの問題には特別な配慮は無用です。

王太子は自尊心に傷がつくと突然に憤慨しますが、そうでなければ大変優しい愛くるしい子供です。その自尊心を上手にあなたが導いてくだされば、王家の誇りをもつ王太子として育つでしょう。

ただちに配慮せねばならないことは、他から聞いた話を想像した解釈で伝えてしまうことです。まだ自分の高い立場を理解しておりませんが、諂いの言葉を遠ざけ、真実のみを聞かせなければなりません。

Cher par son objet, cher par celui qui le traça, il est pour moi un gage de souvenir et de tendresse. Christies

ルイ・シャルル 1794年12月24日 テンプル塔
マダム・ロワイヤル(マリー・テレーズ)が身につけていた?


この当時のヨーロッパのあらゆる宮廷の流行だったのが、こうした意見を披露することでした。マリー・アントワネットもそれを書き残しています。いく人かのプリンセスが同じようなことを意見するのが最後の部分です。

このトゥルーゼル夫人にはポリーヌという娘がいます。のちにマリー・テレーズに仕えるようになります。

ルイ・シャルルとアントワーヌ・シモン

バッツ男爵ジャン・ピエールが、マリー・アントワネットの救出をくわだてたのが、1792年6月21日のことでした。実はあの靴屋のシモンが阻止したというのですが・・・これは半信半疑。

そして6月29日にルイ・シャルルの教育係として来ることになったのです。

シモン夫妻は下記のリンク先からご覧いただけるように、ルイ・シャルルのために、籐の椅子付きの浴槽まで購入し、小鳥や子馬も与えられ、屋上や庭園でマルセイユを歌うなど、根っからの共和制。

記事 アントワネットの子供達 18世紀の子供達

彼の虐待説は、どうやら王党派でルイ16世の密偵もしていたスイス人のマレ・デュ・パンが絡んでいるようです。(これは私の所見なので、どうぞ鵜呑みにしないでね。)

でも、「平等の思想にかぶれた男を教育係りにしたのか不思議がっていた」とあるように、シモン夫妻の役割は、ルイ・シャルルに共和制の思想を植えつけて、王妃の罪を確定させるためではないでしょうか。

シモン夫妻は本当の子供のように可愛がり、ルイ・シャルルも親に甘えるように懐いていたといいます。

それでは誰がシモンを教育係にしたのでしょう。

ガスパール・ショーメットだということなんですね。コルドリエ・クラブのメンバーです。構成員にはカミーユ・デムーラン、ダントン、マラー、エベールがいました。

マラーの暗殺
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月

Louis XVII au Temple, avec son geôlier le cordonnier Antoine Simon Histoire de la Révolution, dAdolphe Thiers. Ed. 1866. Tome 2, page 161

ルイ・シャルルと靴屋のシモン


しかもメンバーのジャック=ルネ・エベールはサン・キュロットの指導者でもあり、タンプル塔の監視委員でもあったのです。

コルドリエ通りの靴屋、平等にかぶれている無教養のシモンは、エベールたちの思惑にぴったりだったのですね。

そうしてエベールとフーキエの王妃の裁判。

アントワーヌ・シモンは、エベールの操るままに、あの署名をルイ・シャルルにさせたのでしょう。

1794年1月、エベールの役目を終えてくれたシモンに、コミューヌ議員をすすめたのでしょうね。シモンは革命家の道を選び、テミドールの乱で処刑されてしまったのです。

ルイ・シャルルが独房生活から発見されたのがその頃。本当に不思議ですが、アントワネットとフェルセンが6月20日が運命の日であれば、ルイ・シャルルとシモンの7月28日も運命ではないでしょうか。

7月28日に革命に飲みこまれたアントワーヌ・シモンはロベスピエールらと共に処刑されたのです。

そして、ルイ・シャルルの過酷な運命に導いたバラスが、7月28日に彼を発見することになるのでした。

ルイ・シャルルの不潔さについて、マリー・テレーズの書き記したものが記事になりました。

記事 マリー・アントワンネット 記事紹介

シモンとルイ・シャルルは心を通わせていました。でも、バラスが連れてきたローラン。彼はさらに3ヶ月の期間をルイ・シャルルに何もしてあげなかったのです。そこでローランの監視役に来たのがゴマンです。

記事 アントワネットの子供達 18世紀の子供達

藤本ひとみさんは、この頃生命の価値は平等ではなかったといいます。私も平等ではなかったと思います。それが藤本さんと同じ根拠かどうかはわかりませんので、あくまでも私の所見です。

この当時の80%を超える農民達。都市に住まない農家には「ガラス」はありませんでした。彼らはいくら酷く扱われても王家のようにベットで死ぬことはありませんでした。藁か床。あるいは道端。

ルイ16世、マリー・アントワネットはパリの国王、王妃ではありません。フランスという大国の国王、王妃だったわけです。

シモンのように平等を叫んでも、公平に扱われているのですね。階級という名のもとに。

さて、ルイ・シャルルの心臓は、アントワネットの家系と一致したそうです。アントワネットの遺髪との一致ではありません。

私はルイ16世とアントワネットが養子にした子供たちや、一説にあるルイ16世とその愛妾フィリピーヌ・ド・ランブリケの子エルネスティーヌ・ランブリケなどが本当に存在したのかを知りたいですね。

彼女は手術をしたルイ16世の初夜伽の相手と思われますので、出産したあとはどう関係したのかはわかりません。

ルイ・シャルルに関しては、私はまだ謎を秘めたままです。出生にしても。

ただ、そこで亡くなった少年が、犠牲者になった「身代わりの少年」でないことを願うだけです。人の命は平等ですから。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月


オランプ・ドゥ・グージュの叫び さらば、王家よ。



最初の子どもはマリー・テレーズ・シャルロットで、皆様が一番ご存知の王女。マリー・テレーズ王女は女の子でしたので、祝賀を受けるためにパリに出向いたアントワネットへの賛辞が少なく、王妃はいたく憤慨。

大使のメルシーがアントワネットの王妃らしからぬ行為を諌め、大人しくしていたようですが、翌年にはまた仮装舞踏会、そしてトゥ・コワニー公爵とのスキャンダル、トリアノンの改修にその郊外の森林をそっくり移動したため、この年の支出は35万2275リーヴル。

ルイ14世、ルイ15世からの財政赤字でフランス王政は続かないという見通しは誰でもご存知のはずです。

そして兄ヨーゼフ2世も、母マリア・テレジアも彼女を諌めました。よほど酷かったからですよね。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月

フランス革命も、もともとといえば世界的飢饉の頃で、冷害による作物の不作、ル・シャブリエ法によって自由競争ができるようになり、パンは高騰、そして税金で手元にわずかしか残らない市民たち。

それなのに、王妃は国庫を空にする。

個人の生活をしていただけではないんですよね。王室費は「年額2500万リーヴルが支出される。王妃には、未亡人になった場合の寡婦資産を考慮し、年400万リーヴルが支出される。」とaleiの記事にありました。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年 5月

Les Reines de France-Marie de Médicis, Anne dAutriche, Marie Thérèse dAutriche, Marie Leczinska, Marie Antoinette, Marie Joséphine de Savoie et Marie Thérèse Charlotte de France

フランスの歴代王妃 1830 
左下から2番目にアントワネット


ポリニャック一族に年間50万リーヴル。
ランバン公妃に年間15万リーヴル。
フェルセンには俸給8000リーヴル、年金12000リーヴル。

これは王室費からでたのでしょうか。国庫でしょうか。

1791年は、王室費は極端に切り詰められたわけではないのですね。それなのに、1789年にはルイ・ジョセフの葬儀が出せないくらい、王妃は切なかったのです。

ブルボン王朝が立ち行かなくなったのは、先代からの累積赤字のせい?いえいえマリーアントワネットとは関係ないとはいえないのです。

近年、アントワネットの人物像に対して、見直されているのは、中傷のこと、フランスのしきたりのことですよね。王妃の義務ではないのです。

アントワネットが本来の理由で処刑されたのは、このような中傷ではありません。証拠が遅れた為に、中傷を理由に裁判が続けられたのです。決して政治に無関係で完全な被害者だったわけではないのです。

masaちゃんの記事 マリー・アントワネット

記事 マリー・アントワネットが愛したもの
記事 オランプ・ド・グージュ  復讐の女神

オランプ・ドゥ・グージュは、コメディ=フランセーズにいた王妃に大声で叫びました。

「さらば、王家よ。王妃はいつかきっとご自分の思慮の無さに後悔して血の涙を流すでしょう。」


 誇り高きマリー・アントワネット 殉教者としての処刑



 Marie Antoinette

マリー・アントワネット
(1792年のものと別バージョン)


誇り高きフランス王妃とマリー・アントワネット。フランスをはずしてはいかがでしょう。生得的地位、社会的圧制に誇りを持っていたのですから。

誇り高きフランス王妃として評価するなら、敵国と内通し、フランスの国民を犠牲にすることはできないはず。本来、王妃としてフランスを守ることが義務でしょう。

その生得的地位を得ている王族、上流世界での習慣のなかで厳禁とされていることがあります。

他人に対して不愉快な気持ちを表現すること、恐れ、驚きを表すこと、身体の苦痛を表すこと、資産・財産の苦境を嘆くことは厳禁だったのです。

これが上に立つものの誇りを育てるからです。そして身分が高いものとして、「いかに生きるか」、「いかに死ぬか」の心得を持たせるのです。

裁判で姦通の質問には、はじめは無視し無言だったのです。そして繰り返すその質問に、傍聴席の母親に初めて語りかけたわけです。それは彼女の誇り。

そして、社会的圧制を続けたのがフランス王妃マリー・アントワネットです。職権の乱用での人事介入、自分の身を守るための政治介入、王室費と王妃に与えられる費用の浪費です。フランス王妃としての社会的義務を果たさずに。

さて、私が訳に挑戦したエリザベート王女へのマリー・アントワネットの遺書

Madame Elisabeth  CHARLES EMMANUEL JOSEPH LECLERCQ

マダム・エリザベート(エリザベート王女)
全体像、作者名は先のリンク記事からどうぞ。

私は代々信じてきました神聖なるローマ・カトリックの宗教を奉じて死んでいきます。

心の慰め(霊的慰藷)も期待しません。この世にその宗教の司祭がいるのかどうか、いたとしても彼らが私のいる場所に一歩足を踏み入れれば危険に晒されるかどうかもわからぬまま、死んでいきます。

私は生まれてからこれまでの全ての罪の赦しを、神願います。これは今までにもお祈りしてきましたが、私の最後の願いになります。

身分が高いものとして、「いかに生きるか」、「いかに死ぬか」の心得、そして失ってはならない自分への誇り。

彼女の遺書にははっきりと「いかに死ぬか」のシナリオが書き込まれています。

sai からの引用

タンプル塔に幽閉されてから、彼らは徐々に「死刑」を身近に感じ始めたのだろうと思う。「死刑とは犯罪人にとってのみ恥ずべきもの」と考えるマリー・アントワネットには耐え難い屈辱だ。

それを回避する手段はもう残っていないとしたら、どういう扱いで死刑になるか・・・だ。・・・名誉あるもの。

Marriage between Louis XVI and Marie-Antoinette J.-B. Butay, 1785, private collection

ルイ16世とアントワネットの結婚生活 1785 部分
全体像は→王太子妃 マリー・アントワネット


ルイ16世の遺言にも、アントワネットの遺言にも、宣誓司祭、非宣誓司祭に対しての最後まで葛藤が見えてきます。

「 ルイ16世はイエス・キリストの受難と自分を重ねている。無能な王が殉教の王になるために。」とsai は書いています。

ルイ16世は告解を聞く司祭は非宣誓司祭のフェルモン神父でした。アントワネットは宣誓司祭への告解を拒否しています。

これは聖職者の民事基本法を拒否していたルイ16世に準じた行い。つまり、フランスの国民たちが支持した民事基本法の宣誓司祭を拒否し、「神聖なるローマ・カトリックの宗教を奉じて死んでいきます。」と残したアントワネット。

これはあきらかに殉教者としての遺書になるわけです。

記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
この記事の一番最後の一言がルイ16世の殉教を述べています。
このマリー・アントワネットの作品をじっくりご覧くだい。

M. Magnin, Confessor to Marie-Antoinette

マリー・アントワネットの告解を聞く司祭マグニン(伝説です)


アントワネットの告解の伝説の場面が描かれています。聖ジョージの旗を背にしたような司祭。

清教徒(ピューリタン)革命で処刑されたイギリスのチャールズ1世は、 ウィンザー城のセント=ジョージ礼拝堂に葬られました。聖ジョージ、あのゲオルギウスのことですね!

アントワネットは文中でご紹介したように「イギリス革命」の本を読んでいました。ルイ16世もです。ピューリタン革命は、宗教革命です。

これはいろんな解釈ができますよ。ローマ・カトリックとイギリス国教、議会派と王党派。

この作品はマリー・アントワネットが聖体拝領の伝説から描かれたのか、告解をしなかったアントワネットへの揶揄なのか、物語の中から創作された部分なのか、いずれにしても想像力を試されますね。

非宣誓司祭のマグニンに告解し聖体拝領したという伝説があります。史実ではそれはないはず。

私はこの絵をみて、宣誓司祭との告解を拒否した、殉教者となるべくマリー・アントワネットの思惑に、おもわず笑み。

The Queen of Louis XVI King of France at the Guillotine, 16 October 1793

マリー・アントワネットの処刑
1793年10月16日


マリー・アントワネットは、いまこの時代に当時に王妃が受けていた中傷が見直しされているとは思ってもいないでしょう。マリー・アントワネットにとって、レズビアン、浪費に賭博などの中傷の回復よりも、彼女が殉教死したという伝説を残したかったはずです。

そしてその敬虔なクリスチャンとして、フランスを心ならずも敵にしてしまったというマリー・アントワネット像を残しておきたかったのです。

ところが、いつの時代も悲劇や他人の不幸だったことを美談にしてしまい、この王妃の誇りを傷つけるどころか、憤慨させていることでしょう。(笑)

誇り高きマリー・アントワネットは、不幸、悲劇ではなく、「敬虔で、殉教したもっとも気高い王妃」として名を残したいのです。

そして「いかに死ぬべきか」

ルイ16世が逃亡(ヴァレンヌの逃亡)の決意をした「聖職者の基本的民事法」の拒否を、逆にマリー・アントワネットは殉教の意義をそこに見出したのです。

そして「いかに死ぬべきか」

マリー・アントワネットは誰かが用意していた、新しいシュミーズに、清潔で真っ白なドレスを身につけ、美しく、威厳をもち、そして毅然と死にいくことなのでした。

ただひとつ不満なのは、最後の言葉。誇りと気高さを言葉に残すことができなくて、残念です。

私の好きな女性とは、自分にこそ忠実な人。マリー・アントワネットは自由を求めて、フランスに革命を起こしました。

宮殿の古いしきたり、作法を改革し、古い貴族達を追い出し、政治に介入し、フランスの国民を戦争へ借り出し、取り巻きや気晴らしの遊びに浪費して、そのため革命に飲み込まれたフランスの国。

オペラ、観劇、賭博に舞踏会、数々の宮廷恋愛を楽しみ、そのアントワネットの趣味は文化として残りもしなかった。ただ「いかに生きるか」を趣くままに、ありのままに、自分に忠実に。

もう、そろそろ「不幸、悲劇」の冠ははずして差し上げたらいかがでしょうか。

さて、こうしたアントワネットの「いかに死ぬべきか」の覚悟の処刑の日。当時の一市民の日記にはどう綴られているのでしょうか。そして歴史の専門家はどう見ているのでしょう。

フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月
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エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から

Portrait of Princess Elisabeth Philippine Marie Helene de Bourbon, Madame Elisabeth, as a vestal virgin Charles Emmanuel Joseph Leclerq  (1753 - 1821)

ウェスタの処女に扮したエリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
年代不詳、オークションハウス出品
チャールズ・エマニュエル・ヨゼフ・ラクリーク




マリー・テレーズの回想
引用・要約 マリー=テレーズ王女の回想録
−王家の幽閉生活に関して、1792年8月10日から弟の死まで− 

5月9日まで何事もなく過ぎた。床に就こうとすると誰かが扉を開いた。叔母は服を着終わって扉を開けた。

「女市民、降りるんだ。」

叔母(エリザベート)は私(マリー・テレーズ)を抱擁すると、「元気を出して気をしっかりもち、いつも神様におすがりなさい。父上と母上があなたに授けたキリスト教の教えを役立てるのですよ。」と、叔母は出て行った。

エリザベート王女(1764-1794)はルイ16世の妹。最期まで行動を共にしました。たいへん気丈な女性だと思いませんか?

エリザベート王女に対して「心優しい」という表現がよく使われているようですが、楓はただそれだけの天使のように清らかな王女としては、この記事を書くつもりはありません。

彼女こそ、自分の信念を最後まで貫いた女性といえるでしょう。それが独善的であっても。

エリザベート王女はもちろん王党派。王党派右翼ならず、彼女の場合は「王党派極右(王党派最右)」でした。

ご存知のように右翼、左翼という言葉は、このフランス革命から誕生したのですね。国民議会でアンシャン・レジーム(旧体制)を支持する右側の席からの由来だそうですが。

エリザベート王女はヴァレンヌの逃亡事件のあと、積極的に革命軍を潰すために、亡命中のアルトワ伯の陰謀を手助けしていたそうです。

アルトワ伯は外国軍隊がフランスへ侵入し、革命軍を破壊するよう催促します。それがマリー・アントワネットの兄レオポルト2世とプロシャ王とのピルニッツ宣言(1791)となるのです。

VIGEE-LE BRUN Elisabeth Louise, Portrait dÉlisabeth Philippine Marie Hélène de France, 4e quart du 18e siècle, Versailles ; musée national du château et des Trianons

エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
1782  ヴィジェ=ルブラン
トリアノン

 



セレスタン・ギタールの日記
引用・要約 フランス革命下の一市民の日記
セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳
5月10日 土曜日

気温15℃。南西の風。昨夜、雨。今日は晴れ。

今日、著名人25名が処刑された。そのなかにはカペーの妹、元エリザベート内親王も含まれていた。彼女は午後6時頃、最後に斬首された。その首がかかげられると、太鼓がはげしく打ち鳴らされ、群集は満足して帽子をほうりあげ、共和国万歳を叫んだ。

エリザベート・カペー、三十歳。ヴェルサイユ生まれ。ルイ・カペーの妹。

(以下略記)ディバック、ルヌフ・スルドヴァル、ラモアニョン、ベサン、フォローブ、ビュアール、ル・テリエ、クレシー=シャミヨン、アル、ロメニー(34歳)、ロメニー(64歳)、カリクスト・モンモラン、ボスト、ロメニー(30歳)

以上25名全員、カペーとその妻、一族および手先どもの謀略の共犯者であることが立証された。この陰謀により諸外国の同盟暴君どもとの戦争、また国内における内乱を引き起こせんとす挑発行為が行われた。謀反人どもは人的財政援助を敵に与え、軍隊を集合し、司令官を任命して、人民の虐殺、自由の破壊、独裁君主制の復活を企図した。以上の罪により死刑が宣告された。


この引用に際して、alei ありがと!

市民セレスタン・ギタールの日記には、エリザベート王女を含む25名の処刑の罪状が書かれています。(この日の美談がありますが、あれはもっと以前に処刑をまぬがれた人のことで、無関係だと思われます。)

ある記事に「有罪にしたくても口実すら見つからないエリザベートを有罪にしたてあげなくてはいけません。」とありましたが、記録によると、アルトワ伯と定期的な手紙のやりとりがあったのが確認されています。

そこにはエリザベート王女は、諸外国の介入で、旧体制を復元させる必要があるという見解を示したのです。

Sai がルイ16世の侍従クレリーの日記を記事にしていますが、そこから「なるほど〜」と思ったのは、「清教徒革命(ピューリタン革命)」では海外の介入がなかったために、革命は進行してしまった歴史の事実。

さらに名誉革命では、Sai は国王一家を殉教者として認めたくなければ国王一家の逃亡を許されるのではないかと考えていたからこそ、亡命(逃亡)をしたのではないかとあります。

記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

ルイ16世が、あのフェルセンと亡命するきっかけとなったのは「聖職者の民事基本法」ですが、エリザベート王女もこの法案に反対していました。

記事 惨殺されたフェルセンの最期

Sai の記事を読むと、国民会議で可決されtこの法案をルイ16世は可決していなかったのですね。この「聖職者民事基本法」は下記リンク先記事からどうぞ。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書

そう考えていくと、「有罪にしたくても口実すら見つからない」というのではなく、ギタールの日記にあるように「陰謀により諸外国の同盟暴君どもとの戦争、また国内における内乱を引き起こせんとす挑発行為が行われた。」というのが、この部分にあてはまる有罪です。

ルイ16世もエリザベート王女も、とてもズレた考えを持っていたのではないでしょうか?

市民の革命ではなく、ごく少数の謀反だと考えていたからこそ、諸外国の介入で内乱が起これば、その謀反人たちを全て片付けられると。

ところがフランス国民だったわけですよね。

ですから、国王一家は謀反人ではなく、フランス国民を威嚇することとなったのです。どうでしょうか、この考え方。

楓の記事の「マリー・テレーズ王女の回想記録」にも、この話しが出てくる。ただ楓はこのくだりをとばしている。女の人って、こういうところはトピックしないんだな。

この記事でトピックしようと思ってたのよ〜。

マリー・テレーズはまだ中学生の年齢にも達していません。叔母エリザベート、父ルイ16世、そして母マリー・アントワネットのそれぞれの考えを知らなくて当たり前です。

マリー・テレーズは介入してきたプルシャ(プロセイン)が、父ルイ16世が承認しているとは思ってもおらず、なんと馬鹿馬鹿しい話だろう。と書いています。

さて、エリザベート王女の信仰の篤さ、慈愛の心は事実だったと思われます。

芸術に関心があり、ヴェルサイユ宮殿美術館には彼女の素描などがあるそうです。

ところが、ルイ16世、マリー・アントワネット同様に彼女の慈善事業も少しもフランス市民の知らないところにあるわけです。

なぜなんでしょう。

結局、王族の慈善事業は何も解決されず、貧困はどんどん広まったからなのではないでしょうか。そして「心優しい」、「慈愛に満ちた」、「信仰篤い」その姿勢は、フランス国民に向けられていなかったのでは。

Madame Elisabeth (1764-1794), gemalt von Adélaïde Labille-Guiard

マダム・エリザベート 年代不詳、所蔵先不明
アデライード・ラビーユ=ギアール




マリー・テレーズの回想
引用・要約 マリー=テレーズ王女の回想録
−王家の幽閉生活に関して、1792年8月10日から弟の死まで− 

「おまえの名は?」

「エリザベート・ド・フランスです。」

「8月10日はどこにいた?」

「テュイルリー宮殿です。」

「おまえのダイヤモンドはどうした?」

「知りません。そんな質問は無駄です。初めから私を殺すつもりなんですから。私の命は神に捧げました。死ぬ覚悟はできています。なんとうれしいことでしょう。地上でかくも愛した尊敬すべき家族のところに行けるとは。」

叔母はいっしょに死ぬことになった人たちの部屋へ連れて行かれた。落ち着きと気高さと敬虔な優しさに満ちた口調で死を説いた。

断頭台に着くと、護送車から降りるときに、夫人達は叔母に接吻する許しを求めた。

叔母は信心に満ちた諦めの境地で、臨終の苦しみに耐えたのだ。

アングレーム公爵夫人となったマリー・テレーズは、この原稿を父の従僕だったクレリー(クレリーの日記のクレリーです)を通して取り戻し、加筆、そしてルイ18世の注釈や手を加えられている部分が出てきます。

このエリザベート王女の最後は、アングレーム公爵夫人となってからのものでしょう。

この回想にある同じ日に死刑になる人々とエリザベート王女の美談、伝説があるようです。小説からなのか、つくられたものなのかわかりません。

この部分はマリー・テレーズがタンプル塔を出てからのものです。美談の妊婦だった女性に出産するまで死刑は延長できることをエリザベート王女は説き、その女性は死刑からまぬがれたという話がありません。

もっとあとに「つくられた話」なのか、それとも「知らなかった話」なのでしょうか。

wiki によると最後の言葉が「「礼儀を守りなさい、ムッシュー、ショールをかけなさい。」だったそうです。

エリザベート王女が処刑人に命令のような言い方をするかしらと、ふと思いました。

「慎み深さの名において、ムッシュー、ショールをかけてください。」

私はそのように訳したいと思いました。

Elisabeth de France Princess 1782 Élisabeth Vigée-Lebrun

エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
1782 ヴィジェ=ルブラン
ヴェルサイユ宮殿 Château de Versailles




マリー・テレーズの回想
引用・要約 マリー=テレーズ王女の回想録
−王家の幽閉生活に関して、1792年8月10日から弟の死まで−

マリー=フィリピーヌ=エリザベート=エレーヌ、国王ルイ16世の妹は、常に徳の見本として生きたのち、1794年5月10日に30歳で死んだ。14歳から神に身を捧げ、魂の救いしか考えなかった。

1790年以来、私はますます叔母を尊敬するようになった。叔母の中に見出せるのは、キリストの教え、神への愛、罪に対する恐れ、優しさ、信仰、謙虚さ、家族への深い愛情だった。

叔母は家族のために命を投げ出し、国王と王妃のそばを決して離れようとしなかった。やはり王家の血筋にふさわしい王女だったのである。

叔母は死ぬまで私に親切だったが、そのことはとうてい言葉では言い尽くせない。実の娘のように私の面倒を見てくれたし、私は私で叔母を二人目の母として敬い、心からしたっていた。

(略)

どうか私が叔母の徳をひとつ残らず受け継ぎ、いつの日か神のみもとにいる叔母と両親のところへ行かれますように。

マダム・エリザベート(Madame Elisabeth)は、本当に謙虚な人だったと思われます。でも肖像画の彼女は、やはり自分の信念を貫くお顔立ち。

Madame Elisabeth (1764-1794), gemalt von Adélaïde Labille-Guiard

マダム・エリザベート 年代不詳、所蔵先不明
アデライード・ラビーユ=ギアール


フランス人として生きたい。それが彼女の信念だったと思うのです。ですから結婚もせず、そして国外にも逃げず。

それでもヴァレンヌの逃亡には一緒でした。

マダム・エリザベートは、マリー・アントワネットをどう見ていたのでしょう?

それだけの人格者なら、王妃としてのマリー・アントワネットをたしなめることができなかったのでしょうか。

あるいは王妃への不安でルイ16世のもとに残ったのでしょうか。

マリー・アントワネットからエリザベート王女への遺書

あなたにです、妹よ。最後に書き送るのは。

私は恥ずべき死刑の判決を受けのではありません。死刑は犯罪人にとってのみ恥ずべきものです。あなたの兄上と一緒になるための。

あの方と同じく潔白の私は、最後の時に際しても、あの方と同じ毅然とした態度でいることでしょう。

良心の咎めがなく、私は平静な気持ちです。憐れな子供達を残していくことだけが心残りです。この気持ちを判って頂けるでしょうか。

私が生きてこられたのは、子供達と優しく親切なあなたがいらっしゃったからです。友情とはいえ、何もかも私達のために犠牲にしてくださったあなたを、なんという状況の中に残していかなければならないのでしょう。

裁判で知ったのですが、娘はあなたから引き離されてしまったのですね。なんという哀れな子でしょうか。

あの子へ手紙は書けません。届きもしないでしょう。この手紙も、あなたに届くかどうかわかりません。

どうぞ二人の子供のために、ここに私の祝福を受けてください。

子供達が成長した時、あなたと一緒に、あなたの優しいお世話を受けられるように。

私がいつも言い聞かせていた、原則を守ること。人生の第一の基本なのだということです。互いに仲むつまじく、信頼を持つなら、幸せになれるということを。

娘はある年齢になっているのですから、愛情と経験から、生まれ出る助言によって、常に弟を助けていかねばならないことを感じてほしい。

息子もやさしい気持ちで姉に何でもしてあげてほしい。どんな環境に置かれようとも、二人が力を合わせなければ本当の幸福はない、と理解してほしいのです。

二人が私たちに倣ってくれるように。不幸のさなかにあって、私たちの親しみあう気持ちがどれだけ慰めを与えてくれたことか。

幸せな時を分かち合えることで喜びが倍になります。家族以外のどこで、より優しい、より貴い人相手がいるでしょうか。

息子は私が何度も繰り返し、父の最後の言葉を決して忘れないように。つまりわたしたちの死の復讐を決して思わないように。

それから、これは申し上げるのも切ないのですが、息子がどんなにあなたに苦労をかけたのか、知っております。

どうか許してください。まだ幼い子供です。大人の望み通りの事を、息子が理解できに事さえ容易く言わせることが出来るのをお考えください。

あの子達に対するあなたの優しいお気持ちを、息子が理解できる日がいつかは来るものと思います。


さて私の最後の気持ちを打ち明けておきます。裁判が始まった時からお伝えしたかったのですが、手紙を書かせてもらえなかったことは別にしても、裁判が早く進みすぎたのです。それで本当のところ時間もなかったのです。


私は代々信じてきました神聖なるローマ・カトリックの宗教を奉じて死んでいきます。

心の慰め(霊的慰藷)も期待しません。この世にその宗教の司祭がいるのかどうか、いたとしても彼らが私のいる場所に一歩足を踏み入れれば危険に晒されるかどうかもわからぬまま、死んでいきます。


私は生まれてからこれまでの全ての罪の赦しを、神に願います。これは今までにもお祈りしてきましたが、私の最後の願いになります。

皆様、そしてあなたには、そのつもりはなくとも心配をおかけしたことをお詫びしたいと思います。また私に危害を与えた敵を、みな許します。

叔母様、兄弟、姉妹の皆様に最後のお別れを申し上げます。私にも友達がありました。二度とお目にかかれないと思い、その方たちのお気持ちを察すると、それが死に際してもっとも心残りなことです。

この方々のことを最後の瞬間まで考えていた、とお知り置き願いたいと思います。

アデュー(永遠にさようなら)、良い人柄で優しい妹よ。どうぞ手紙があなたに届きますように。いつも私を忘れないでいてください。あなたと、あの哀れな子供達を心から抱擁しましょう。

神よ、永遠の別れとは、胸が張り裂けそう。

アデュー、アデュー、もう後は、神に一切をお任せするだけです。私は思いどおりに出来ない境遇なので、おそらく宣誓司祭が連れてこられるでしょう。

私は宣言します。何も言わず、断じて無縁の人間として対応するつもりです。

届かなかったこの手紙は、20年近く経て、ルイ18世が公開しました。預かっていたロベスピエールも処刑されてしまったことがあるからでしょうか。ほかにも理由があるかもしれませんね。



本文中の引用・要約  マリー=テレーズ王女の回想録 ジャック・ブロス編 訳 吉田春海 マリー・アントワネットの遺書は、参考にした英語版、フランス版を、楓が英訳、仏訳したものをまとめ、最後に信頼できる「150通の最後の手紙(朝日新聞社)」で照らし合わせたものです。内容的には大丈夫かなといたしました。また、霊的慰藷は「150通の最後の手紙(朝日新聞社)」でそう表現されていました。

| ブルボン家 | 22:55 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
ジャン=マルク・ナティエ Jean marc nattier その4 フランスの王女たち

Madame Anne Henriette de France - O Fogo Museu de Arte de São Paulo, Brazil

Princess Anne-Henriette of France - The Fire 1751
アンリエット・ド・フランス 火 第2王女
Jean marc nattier


Madame Louise-Elisabeth, Duquesa de Parma (Madame I´Infante) - A Terra Museu de Arte de São Paulo, Brazil

Princess Louise-Élisabeth of France - The Earth
ルイーズ・エリザベート・ド・フランス 地 アンリエットと双子
Jean marc nattier


Madame Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France - A Água Museu de Arte de São Paulo, Brazil

Princess Victoire of France - The Water
ヴィクトワール・ド・フランス 水 マダム・カトリエーム(第4王女の意)
Jean marc nattier


Madame Marie-Adélaide de France - O Ar Museu de Arte de São Paulo, Brazil

Princess Marie Adélaïde of France - The Air
マリー・アデライード・ド・フランス 風 第4王女
Jean marc nattier




過去記事から3人の王女たちの肖像画をご覧いただけます。

アンリエット・ド・フランス
Jean-Marc Nattier ジャン=マルク・ナティエ その1

ルイーズ・エリザベート・ド・フランス
ブルボン家 パルマ公女イザベラ

マリー・アデライード・ド・フランス
Jean-Marc Nattier ジャン=マルク・ナティエ その1

PORTRAIT OF MADAME HENRIETTE, DAUGHTER OF LOUIS XV, AS A VESTAL, REPRESENTING FIRE

炎を守るウェスタの処女 ルイ15世の息女マダム・アンリエッタ


アデライード王女は、父ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人からの贈り物などから、決して仲が悪くはなかった関係です。

デュ・バリー夫人が次の寵姫となるまではアデライード王女がヴェルサイユの政治を取り仕切ったといいますから、デュ・バリー夫人、マリー・アントワネットはアデライード王女からみると愉快な存在ではなかったのですね。

美しいと評判のアデライード王女は相応の結婚を望み、婚期を逃したといわれています。

たぶん「王妃」という地位を手にしたかったのでしょうね。



Victoire de France 1748 by Jean-Marc Nattier   Musée national du Château et des Trianonsヴィクトワール・ド・フランス

マリー・ルイーズ王女が夭折によって第4王女になるヴィクトワール・ド・フランスは、ナティエの連作では「水」に描かれています。

未婚でマリー・アントワネット派についた王族の一人。

姉のアデライードが、デュ・バリー夫人に声をかけようとしたマリー・アントワネットに、このヴィクトワール王女の部屋で、国王陛下を御待ちしましょう。と言って遮ったお話しは有名ですね。

ジャン=マルク・ナティエの「フランスの王女たち」四部作(地・水・風・火)に描かれた四王女。描かれていない王女は二人です。



ソフィー・ド・フランス 第6王女 
Sophie Philippe Elisabeth Justine de France

After Jean Marc Nattier  SOPHIE-PHILIPPINE-ELISABETH-JUSTINE DE FRANCE, DITE MADAME SOPHIE (1734-1782)  Versailles ; musée national des châteaux de Versailles et de Trianon

ジャン=マルク・ナティエ 模倣
ヴェルサイユ宮殿/トリアノン


マリー・アントワネット派についたアデライード王女、ヴィクトワール王女とともにヴェルサイユ宮殿で未婚で過ごしたソフィー王女です。
マリー・アントワネットがヴィクトワール女王を疎むように仕組んだのが、アデライード王女とこのソフィー王女というお話しが残っています。

Sophie Philippine Elisabeth Justine - 1746, daughter of Louis XV by Jean-Marc Nattierフランス革命前に42歳でなくなったソフィー王女。

最初の作品は「ウェスタの巫女(ウェスタの乙女)に扮したソフィー・ド・フランス」です。

そしてこの作品が「ソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランスの肖像画」です。



Princess Louise-Marie of France by Jean-Marc Nattierルイーズ・ド・フランス(1737‐1787) Princess Louise Marie of France

修道女になったルイーズ・ド・フランス。彼女の肖像画には作者不詳の「修道女」のものもあります。

ナティエの作品はこの1枚しかわかりませんでした。



最後は王女ではなくフランス王妃。

彼女達のルイ15世、母親はマリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)です。ルイ15世の寵姫に比べるとシックな人です。

MARIE LECZINSKA, REINE DE FRANCE musee des beaux-arts

マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)
トゥルネー美術館所蔵
ジャン=マルク・ナティエ Jean marc nattier


MARIE LECZINSKA, REINE DE FRANCE

マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)
ヴェルサイユ宮殿美術館/トリアノン


ナティエの上の作品はナティエ自身の作品になります。このドレスを着た違うポーズのマリー・レクザンスカの肖像画はフォロワーとかアフターのものになります。

追記 ヴェルサイユ宮殿美術館トリアノン所蔵はナティエのフォロワーになります。この作品と同じくらい上手な同じフォロワー作品もあるようです。違いは背景のフリンジが一番比較しやすいです。


 ジャン=マルク・ナティエ Jean marc nattier 作品記事
Jean-Marc Nattier  肖像画 その1
ジャン=マルク・ナティエ 肖像画 その2 ディアナ
ジャン=マルク・ナティエ Jean marc nattier  その3
ジャン=マルク・ナティエ その4 フランスの王女たち
ジャン=マルク・ナティエ その5 神話の女神

ナティエ Jean marc nattier
Jean-Marc Nattier style  ジャン=マルク・ナティエ スタイル
| ブルボン家 | 21:56 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
1770年4月21日、マリア・アントーニアはオーストリアを出発して、フランスへと向かいます。

5月7日にはストラスブールにて「皇女引渡しの儀」があります。

当時、ストラスブール大学の学生であったのちの文豪ゲーテが興味津々で儀式が行われる館にでかけると、「王女メディア」のタペストリーに息を止めます。

二人の子を殺害した王女メディアのタペストリーとは・・・。

不吉な祝いの装飾。

マリー・アントワネットは、その儀式が行われるストラスブールまで、ヴァッハウ渓谷のメルク大修道院、ランバッハ修道院にとまります。

引渡しの儀の当日となり、オーストリアとフランスの国境、ライン河の中洲の、女王メディアの館で執り行われました。

儀式ではフランスに忠誠を誓うため、オーストリアから所有してきたものをすべて残さなければなりません。使用人も可愛い犬も、身に着けているドレスに宝石。フランスのおしゃれな衣装に装います。

そして名前もマリー・アントワネットと呼ばれます。

ストラスブールはマリー・アントワネットを歓迎します。

アントワネットの到着には薔薇の回廊のような通りを用意し、あたりはミサのように照らされます。

いよいよヴェルサイユに到着し、1770年5月16日にロイヤル・ウェディングは何時間にもわたり続きます。

結婚式の前には、ブルボン家代々に伝わる宝石がアントワネットに贈られました。

カトリーヌ・ド・メディシス(カトリーヌ・ド・メディチ)、スコットランド女王メアリーの宝石です。

カトリーヌ・ド・メディシスは毒薬を使う魔女のような王妃、女王メアリーは陰謀の女王で処刑されています。

不吉な贈り物。




ルイ16世とマリー・アントワネット結婚式


マリー・アントワネットは、ダイヤモンドと真珠で覆われたウェディングドレス。ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂で、参列者は6000人以上。ヴェルサイユ市内、近郊の農民、パリ市民などがつめかけます。

当日の婚礼の様子 (要約してます)
by Maxime de la Rocheterie(←本もあります)

5月6日の9時。到着したマリー・アントワネットを迎えたルイ15世はしばらく話しをすると、エリザベート夫人、クレルモン伯爵、コンティ公夫人を紹介した。

1時にチャペルに従者たちが集まる。

君主につきそわれドーファン(フランス王太子)とドーフィーヌ(フランス王太子妃)は、祭壇に進み、聖域に置かれ前にひざまずいた。

ランスの大司教モンシェニュール・デ・ラ・ロシュ・エイモンは聖水で祝福し、13枚の金貨とリングをドーファンが受け取る。リングをドーフイーヌの4番目の指にはめ、金貨を与える。
 

J.-B. Butay>


ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚生活
1785年
スケッチはチャールズ・モネ、ペイントがバタイ


王立合唱隊の歌声が響き、奉献をすませた。

この日、群集がこの結婚式へと集まったため、パリでは店は休業状態。花火と祝賀がヴェルサイユでおこなわれる。

しかし3時には空が曇り始め嵐がおこり花火を打ち上げることができなかった。しかしながら鮮やかな一日を終える。劇場はすばらしい夕食の晩餐会となり、莫大な数のキャンドルが点灯し、これほど輝かしい光景を見たことがない。

6時に客間で公式晩餐会がはじまる。この輝かしい未来にむかっての祝賀に、なぜか嵐の鳴動に迷信深き人々がいる。そのとき、わたしは若い妻が結婚証明書にインクのしみを落としてしまったことを思い出した。輝かしい、けれど不吉がともなう結婚式。

嵐とインクのしみ・・・。

晩餐会のあと、「ヴィエノワのドーファン  dauphin de Viennois」(フランスの王太子称号)と「ドーフィーヌ・ド・フランス Dauphine de France」(フランス王太子妃)が寝室に向かいます。

Royal Princess , daughters of Louis XV

Royal Princess , daughters of Louis XV
ルイ15世の王女たち


さてヴェルサイユには王大子にとっては叔母にあたる面々、ルイ16世の妹、兄弟たちがアントワネットを取り巻きます。まず作品の右から、ルイーズ・マリー・ド・フランス(修道院、天折)、第6王女ソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランス(未婚)、第5王女マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(未婚)

ちなみに第1王女のマリー・ルイーズ・エリザベート・ド・フランスは、スペイン王フェリペと結婚し、マリア・イザベラを出産しています。マリア・イザベラはマリー・アントワネットの兄ヨーゼフに嫁ぎました。

Jean marc nattier - madame marie-adélaide de France

アデライード王女


第4王女マリー・アデライード・ド・フランス(未婚)は、エリザベート、ヴィクトワールは、父ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人、デュ・バリー夫人を疎んじていました。デュ・バリー夫人への対抗馬としてマリー・アントワネットを利用するのがこの叔母たちです。

Madame Du Barry

デュ・バリー夫人

La Rose de Versailles ヴェルサイユの薔薇
たぶん
Flore auf einem Gemälde
花の女神フローラに扮するデュ・バリー夫人
by フランソワ=ユベール・ドルーエ

宮廷の女官たちもデュ・バリー夫人派、王大子妃派にわかれ、サロンのデファン夫人は「犬と猫のいがみ合い」と冷笑していたようです。

つまり愛妾という立場への道徳的な問題よりも、どちらが宮廷で1番なのかという張り合いでしょう。

「今日もヴェルサイユはたいへんな人ですこと。」・・・私はこの言葉に結構退屈していますが。(笑)



マダム・エリザベート


ルイ16世の兄弟、妹たちは、プロヴァンス伯(のちのルイ18世)、アルトワ伯ブルボン朝最後の国王シャルル10世)、最後まで王妃マリー・アントワネットと運命を共にしたマダム・エリザベート(エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス)がいます。



ランバル公爵夫人(ランバル公妃)


王大子妃時代の女官にはランバル公妃、カンパン夫人が代表的です。カンパン夫人の回顧録も興味深いですね。

ランバル公妃は、王大子ルイ・オーギュストと王大子妃マリー・アントワネットの祝賀会に、ランバル公の父パンティエーブル公といっしょに招かれています。

中央に王家、上座にルイ15世、王大子と王大子妃がむきあい、プロヴァンス伯、アルトワ伯、マダム・クロティルド、そして三人の叔母たち、オレルアン公とシャトル公、コンデ公、ブルボン公夫妻、クレルモン伯、コンティ公妃、ラ・マルシュ伯夫妻のあとに、ランバン公妃と義父が囲みました。



王大子妃マリー・アントワネット 1774年
フランソワ=ユベール・ドルーエ (François-Hubert Drouais)


これから7年間、青春を謳歌する王大子妃。夜遊び、仮面舞踏会、オペラに観劇、バレエに音楽界。
不幸な性生活云々ではなく、本来の享楽的な性質が「好きなと」に集中したのですね。少女が華麗な宮廷で過ごすとなれば、誰でもおしゃれを楽しみ華やかなパーティーに出かけたいと思いませんか?

わたしは14歳の少女が夜の営みに、「精神的な打撃と屈辱、そして不満」を持つのかしら???と不思議です。

自分の魅力に屈しなかったということなら理解できるのですが。

1774年の仮面舞踏会でフェルセン伯爵と出会います。マリー・アントワネットとフェルセン伯爵ですが、恋愛ごっこはあったのかもしれませんが、ド・コワニー公、ギーヌ公(女王メアリの一族)、エステルラジー拍などの側近であり、取り巻きと同じで、フェルゼンは、恋心を抱いていたとしてもそれを忠誠に置き換えたのではないでしょうか。



マリー・アントワネット 1774年
フランソワ・ユベール=ドルーエ


ルイ15世崩御。

「臨終の秘蹟」にあずかるデュ・バリー夫人。つまり追放です。国王は腹心のデギヨン公爵に「万一の準備」をさせていました。厳格な修道院にデュ・バリー夫人の追放先と決めていたのです。

国王の最後のデュ・バリー夫人に対する愛情は、王太子夫妻から遠ざけ、なるべく お咎めのないように配慮したのでしょう。

そしてたった4年で国王と王妃になるルイとアントワネット。

アントワネットは王妃という最高の地位を得たことで、自由な意思を貫こうとします。ルイ16世は、「まだ何も教えてもらってはいない」と祖父の死を悲しむのです。

さて、王大子妃時代のマリー・アントワネットの肖像画を最後にご紹介します。

Dauphine Marie-Antoinette as Hebe(Musée Condé, Chantilly)


フランソワ=ユベール・ドゥルーエ(François-Hubert Drouais)
「へーベーに扮した王太子妃マリー・アントワネットの肖像」
Marie-Antoinette, dauphine, en Hébé 1773


ゼウスとヘーラーの娘で、青春の女神、婦人の美徳ともいわれる女神へーべー(へベ)は、酒宴の席で神々に舞踊と神酒ネクタルをする役目を担っています。

手には女神の杯と神酒ネクタル。へーべはヘラクレスと結婚したために、神々に「ヘーベのお酌(Hebe erryeke)」をすることができなくなります。

この神話には、「へーベーの母ヘーラーと夫ヘラクレスの和解」、「青春の女神へーベーの婦人としての美徳」、「大鷲に姿を変えたゼウスとガニメデス」がストーリーの主な内容です。

その左でヘーベーをみる大鷲。

”磴任△襯璽Ε垢蕨匹了僂砲覆蝓▲ぁ璽聖海力爾らトロイの王 トロースの息子で美しい少年 ガニメデス をさらって、へーべがお酌ができるよう酒宴の席を設けた。

△悄爾戮良礇璽Ε垢魯肇蹈い硫 トロースの美しい息子ガニメデスを大鷲の姿になってさらい、イーダ山でオリンポスでへーべのかわりに神々に酒を継ぐなら、永遠の美を授けよう」といい、ガニメデス(水瓶座の由来)をつれていきます。
まさか王妃の嫁入り前のハプスブルグ家の紋章を意図しているのでしょうか。そうなると、ブルボン家にはあまり好ましくありませんね。「皇女引渡しの儀」でオーストリアの全てを残して嫁いだのですから。

ポンパドゥール夫人の時代にフランスとオーストリアは一応和解しているので、和解の象徴としてハプスブルグ家の紋章「双頭の鷲」を描く必要はないと思いますし。


Portrait of Anna Pitt as Hebe
へーベーに扮するアンナ・ピット 1802-05
Elisabeth Vigee-Lebrun
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
(Élisabeth-Louise Vigée Le Brun)

へーベーは神話では、ゼウスが鷲の姿に化し天上にさらって行ったと言われるガニメデス(ガニュメーデース)で知られている。

Hebe by Charles Durand

Hêbê


つまりわざわざ大鷲を描いたのではなく、ギリシャの壺絵にも描かれているへーベーは、鷲と共に描いている作品も多いんですね。

Hebe by CharlesPicque 1826

Hêbê


画家ドゥールエはこの鷲をハプスブルグ家をにひっかけたのかもしれませんね(笑)。

Flora ou Hebe, Bordeaux, Musée des Beaux-Arts

フローラまたはへーべー
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
(Élisabeth-Louise Vigée Le Brun)


このルブラン夫人の作品をみて、を思い出します。英国のホレス・ウォルポールの言葉を思い出します。「青春の女神へーベー、花の女神フローラ 云々(略) 王妃と比べれば、ただの街の女にすぎないだろう。」だなんて。この作品を見たのでしょうか。

彼は小説家です。真実の画家とよばれたリオタールのマリー・アントワネットはハプスブルグ家の面長であごに特徴がある顔を描いています。また、アーサー・ヤングは「今日みた女性の中で一番」と日記に書いていました。
ドルーエ(ドゥルーエ)は、デュ・バリー夫人も多く描いています。また、
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランも、宮廷の人々を描いていますが、画家は何を思って描いていたのでしょう。

もしかすると、もっとも人間関係をよく知り、フランスの危機をも予感していたのでしょうか。



The French Revolution
Madame Du Barry and Princess de Lamballe
(C) Buzzle.com


フランス革命 デュ・バリー夫人とランバル公妃で紹介されていた絵画です。まさか中央がデュ・バリー夫人?

マリー・アントワネットだとして、右がランバル公妃でしょうか。ここには、個人的な罪で断頭台や虐殺の犠牲になったわけではなく、マリー・アントワネットと関係のある人々が描かれているのかと思います。

マダム・エリザベートも描かれているのかもしれません。

Marie-Antoinette Dauphine at Versailles, also called  the young queen

王大子妃 マリー・アントワネット
Lie Louis Perin-Salbreux
(リー・ルイーズ・ぺリン=サルブリュー)

マリー・アントワネット 過去記事
マリー・アントワネットが愛したもの
ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
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スペイン・ブルボン朝 王女 マリア・ルドヴィカ

Infantin Maria Ludovica (1745-1792), Gemahlin von Leopold II  Schlos Schonbrunnスペイン王女マリア・ルドヴィカ。女帝マリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世は、弟レオポルト2世の花嫁の肖像画をみて憐れんだといいます。

ヨーゼフ2世は花より美しいマリア・イザベラを娶るのですから。

ですが、なんと凛とした女性でしょう。

美男兄弟のヨーゼフと通称ポルトル(レオポルト2世)ですからお妃候補も多かったことでしょう。

とくに女性関係を賑わせたポルトル。初恋のエルディディと別れ、このルドヴィカと結婚政策によって挙式します。

Infantin Maria Ludovica (1745-1792), Gemahlin von Leopold II by Anton Raphael Mengs1764-1765 ところがポルトルが出会ってみると、愛らしく魅力的な性格。

ポルトルは彼女の類まれな優しさと賢さに信頼し、21年間に16人の子供を誕生させます。

ポリトルは一方で、踊り子リヴィア・ライモンディと愛人生活を楽しみます。

その愛人に対してもマリア・ルドヴィカは親切に接します。

結婚生活は波風が起こることもなく、誕生した王子たちは優れた業績を残す君主にまでなるのです。

女帝マリア・テレジアの栄華を継続させる結婚政策の成功が、このマリア・ルドヴィカだったのですね。

ハプスブルグ家の繁栄を約束させた長男誕生は、マリア・テレジアが隣接したブルグ劇場に駆け込み、民衆に跡継ぎができたことを声たかく叫び、告げたのですから。

The widowed Maria Theresa, Archduke Leopold and his wife Maria Ludovica together with two of their children, gouache


マリア・テレジアとレオポルド2世、マリア・ルドヴィカ 1768年
Schloß Schönbrunn - シェーンブルン宮殿


女帝マリア・テレジアと一緒に描かれているマリア・ルドヴィカ。16人の子を産み、跡継ぎを残す。当初の結婚では期待されていなかったと思われるマリア・ルドヴィカ。マリア・テレジアに似ているとすれば、おおらかなところなのでしょうか。

Maria Louisa and Peter Leopold with Children by Wenceslaus Werlin 1773 Abgebildete Personen: Kaiser Leopold II. Sohn des Franz I. Stephan Habsburg Österreich, Kaiserin Maria Ludovica di Carlo di Bourbon Sizilien, Erzherzogin Maria Theresia Tochter d. Leopold II. von Habsburg Österreich, Kaiser Franz I. (II.) Sohn des Leopold II. von Habsburg Lothringen, Großherzog Ferdinand IV. Sohn des Leopold II. von Habsburg Lothringen, Erzherzogin Maria Anna Tochter d. Leopold II. von Habsburg Österreich, Erzherzog Karl Sohn des Leopold II. von Habsburg Lothringen Österreich

1773年 マリア・ルドヴィッカとレオポルト、その子ども達
ヴァーツラフ・ワーリン(Wenceslaus Werlin)


マリア・ルドヴィッカ(1745-1792)は スペイン・ブルボン家から嫁ぎました。女帝マリア・テレジアの次男に。皇帝ヨーゼフの急死でレオポルド2世があとを継ぎ、息子のフランツ1世がまた後を継ぎ、ハプスブルグ=ロートリング家の始祖となったわけです。

Großherzog Pietro Leopoldo von Toskana mit seiner Familie im Hof des Palazzo Pitti, Florenz 1776 by Johann Zoffany Kunsthistorisches Museum, Gemäldegalerie Pietro Leopoldo (ab 1790 Kaiser Leopold II.), seine Frau Maria Ludovica, Tochter Karls III. von Spanien, und acht von insgesamt sechzehn Kindern sind im Cortile des Palazzo Pitti in Florenz dargestellt

1776年 マリア・ルドヴィッカとレオポルト、その子ども達 
ヨハン・ゾファニー ウィーン美術史美術館所蔵

作品は画廊画(収集室)ともいわれるルーム・イン・ルームでおなじみのヨハン・ゾファニー (Johann Zoffany)が描いています。

 画廊画 ウフィツィ美術館の特別展示室

オーストラリアにハプスブルグ家が定着して、現在のウィーン美術史美術館にあるコレクションは、レオポルト2世の母マリア・テレジア、兄ヨーゼフ2世も貢献しています。

その以前、マクシミリアン1世にはじまり、オーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルムが大半を収集するんですね。ハプスブルグ家のコレクション、下記記事からごらんください。

ダフィット・テニールス 画廊画「レオポルト・ウィルヘルム大公の画廊」

彼女はレオポルド2世と結婚して、フランス王妃マリー・アントワネットの義理姉となったのです。アントワネットが自国の情報を夫のポルトルに内通する義理妹をみて、どう考えたのでしょう。

マリア・ルドヴィカは皇帝の妻としてふさわしく、つつましく、国を守る義務を果たす皇后として生きたのです。

Anton von Maron: Maria Ludovica with three of her children, oil painting, c. 1769

マリア・ルドヴィカと3人の子ども 1769年
Schloß Schönbrunn - シェーンブルン宮殿


マリア・ルドヴィカ(マリア・ルイーズ)の息子のフランツ2世は、急死したレオポルト2世の後を継ぎ、4人の妃と12人の子供を育てます。

追記
このフランツ2世が、フランス革命でレオポルド2世のピルニッツ宣言のあと、フランスから宣戦布告をされて、敗戦しますが、なんと在位40年!

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月

ナポレオン1世に嫁ぐマリア・ルイーゼ、善良帝フェルデナント1世はフランツ2世と2番目の妻アリア・テレジアとの子供。

そしてエリザベート皇后の姑ゾフィーと結婚するフランツ・カール・ヨーゼフが生まれ、あのエリザベートを見初めた実質的に最後の皇帝フランツ・ヨーゼフが継承することとなるのです。

歴史って面白い。

Infanta Maria Ludovica of Spain and the two Sicilies Mengs, Anton Raphael

スペインと両シチリアのマリア・ルドヴィカ
アントン・ラファエル・メングス(Anton Raphael Mengs)
制作年数、所蔵先不明です。


マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン(Maria Ludovika von Spanien 1745-1792)は、先に書いたように期待されずに1764年にハプスブルク=ロートリンゲン家のレオポルト大公と結婚しましたが、義理妹のフランス王妃マリー・アントワネットは違い、20世紀につなげて、このハプスブルク=ロートリンゲン家を繁栄させるために王子、王女を生み、育てたのです。

フランス革命で夫のピルニッツ宣言のあと、ポルトルは急死。そして同じ年に彼女も亡くなったわけですが、なんとなく、フランス革命に殺されたような気がしてなりません。

フランスの革命に飲み込まれたのはマリー・アントワネットではなく、王妃の血のつながった兄弟とその家族だと思ったりするこのごろです。
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ブルボン家 パルマ公女イザベラ 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃 マリア・イザベラ

 Isabelle de Parme, Infante (1741-1763) 1749 by Jean-Marc Nattier Musée national des Châteaux de Versailles et de Trianon  ヴェルサイユ宮殿美術館/トリアノンジャン・マルク=ナティエによる肖像画。ポンパドゥール夫人をよく描いていた画家ですが、描かれているこのイザベラの母は、パルマ公フィリッポの后ルイーズ・エリザベート・ド・フランスです。

ルイーズはフランス王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの長女。

唯一ポンパドゥール夫人に好意を抱いた王妃の娘。

ルイーズは、ポンパドゥール夫人を真似たようにナティエに肖像画を描かせます。今日のヒロインイザベラの肖像画もどことなくポンパドゥール夫人に似ていますが、このイザベラの儚げな美しさは真似たものではありませんでした。




Isabella Louise Elisabeth de Parma(1750) Nattier, Jean-Marc  Hillwood Museum, Washington D.C.


ルイーズ・エリザベートと娘・イザベラ
ジャン・マルク=ナティエ


ルイーズの妹アンリエットは古楽器を弾く名画があります。
名画と古楽器 ナティエとゲインズボロ」からご覧ください。

ジャン・マルク=ナティエの肖像画の記事はこちら。
記事 ジャン=マルク・ナティエ 肖像画 その2 ディアナ
記事 Jean-Marc Nattier ジャン=マルク・ナティエ 肖像画 その1



ルイーズ・エリザベートの横にいるイザベラは、女帝マリア・テレジアの長男ヨーゼフに見初められます。マリー・アントワネットのお兄さまですね。

ルイ15世の血をひくパルマ公女は、宮廷のしきたりの中で育ち、音楽の才能に恵まれました。

Portrait of Felipe of Parma and his family by Giuseppe Baldrighi  「Felipe of Parma and his wife Louise Élisabeth de France with their younger children Ferdinand, the later Ferdinand I of Parma and Maria Luisa, (later Queen of Spain), Parma, Galleria Nazionale; The girl is keeping her brother's miniature sword away from him−(C)wiki」

ルイーズ・エリザベートの家族 1750年代
ジュゼッペ・バルドリギ? Giuseppe Baldrighi (1723-1803)


ルイーズ・エリザベートの家族が描かれていますが、楽譜を持ったイゼベラが中央にいます。パルマ公とルイーズ・エリザベートは、イザベラにとっては暖かい両親とはいえません。冷え切った仲の両親に育てられたようです。

作品はジュゼッペ・バルドリギ(ジュゼッペ・バドリギ)です。左下の妹マリーア・ルイーザはゴヤの作品に描かれていますね。スペイン王カルロス4世のお妃さま。




Princess Maria Isabella of Parma (1741 - 1763) 1758 by Jean-Marc Nattier Kunsthistorisches Museum−『Infanta of Spain, first daughter of Felipe of Bourbon, Duke of Parma and Piacenza, and his wife Louise Elisabeth of France, first wife of Holy Roman Empe

パルマ公女 マリア・イザベラ 1758
ジャン・マルク=ナティエ ウィーン美術史美術館所蔵

Maria Isabella di Borbone 1750s by Jean Etienne Liotard

マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ 1750年代
ジャン=エティエンヌ・リオタール

Princess Isabella Of Bourbon-Parma (1741-1763)

マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ
アントン・ラファエル・メングス(Anton Raphael Mengs)
制作年数・所蔵先不明 個人所蔵ではないかと
レオポルトの妻マリア・ルドヴィカの肖像画と同じ画家


夢見がちな少女で、のちのエリザベート皇后のように「死」と「来世における魂の救済」に想いをはせていたといいますが、一方で進歩的な女性だったといわれています。

追記 wikiにもありますが、婚約中からヨーゼフの妹で、四女マリア・クリスティーナ(愛称ミミ)と文通をし熱烈な手紙が現存しているほどですが、次女マリア・アンナには嫌われていたそう。



Maria Isabella di Borbone

マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ 現在のところ作者不詳


クラヴィーノを巧みにこなし、美しい声で歌い、哲学や数学に強く、たおやかな容姿。芸術を愛し、のちにモーツアルトを宮廷で庇護するヨーゼフ2世にとっては理想の花嫁。女帝マリア・テレジアにとっても。

2010年のふくちゃんのコメントから、この肖像画はホントにマリア・イザベラだったかなって・・・。あれぇ、出典なんだったんだろうとただいま書棚と地下室を探しています。(2010.11.12)

ふくちゃんへ

ご安心ください。正真正銘のマリア・イザベラの肖像画です。

下記の記事にて、この画像を使用していました。パルマ公女 マリア・イザベラとなっていますが、画家の名は不明のようです。

18th Cent. Isabella Maria of Parma
A genealogical survey of the peerage of Britain as well as the royal families of Europe



Maria Theresia Erzherzogin von Österreichこうしてヨーゼフ2世のもと、ハウスプルグ家に嫁ぎ、第1子のマリア・テレジア(右の画像)が誕生します。

このマリア・テレジアの次の子クリスティーナが誕生後死去し、精神的にも回復しないまま、3年のヨーゼフ2世との結婚が、イザベラの死で終止符。



ヨーゼフ2世はのちにイザベラが心安らかな結婚生活ではなかったことを知り、愕然としますが、終生イザベラを愛し、再婚したバイエルンの公女マリア・ヨーゼファーは不幸でした。

第1子のマリア・テレジアは幼く死に、跡継ぎのないヨーゼフ2世の亡き後は、弟のレオポルド2世が継ぎます。

ヨーゼフは墓碑銘に「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」と選びますが、「ヨーゼフ主義思想」は残ります。ヨーゼフ2世の最愛のマリア・イザベラこそ、よき意思を持ちながら果たせずに亡くなったのではないでしょうか。
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