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プチ・トリアノン Petit Trianon
新年あけましておめでとうございます。今年はプチ・トリアノンが書初めです。

Chemin de treillage menant du Petit Trianon au Petit Theatre

プチ・トリアノン宮  (Petit Trianon)


私の憧れるプチ・トリアノンは、王妃が「ルソーの思想」を反映したという説があり、少し驚いています。「ルソーの思想」ではなく、「ピトレスク趣味」なんですよね。たとえば使用されている「自然に帰れ」ですが、ルソー自身はこの言葉を使用していません。

記事 ルソーの妄想・空想・瞑想
自然に戻れ、戻れると主張している自然賛美でもありません。ルソーの「自然」とは自己充足性の美徳、善性、自由と平等でしたよね。「自然回帰」ではないです。「自然状態」、「自然人」であって、それは自然に親しむという思想ではありません。

Queens Hamle

王妃の村里 ル・アモー 1783年 リシャール・ミック


ルソーの「新エロイーズ」(1761年)では、アルプスの山岳、イギリス式庭園などの風景が書かれています。これが流行するわけですが、これを「ルソーの思想」とするのはいかがなものでしょうか。

フランスの人工美の庭園と反対で、手を加えずに自然な風景を大切にしたものです。そういう風景をピクチュアレスク(picturesque)っていいますよね。廃墟、洞窟がその象徴です。
ヴィーナスを祀る円形の古代神殿 1788
ルーヴル美術館 ユベール・ロベール
Hubert Robert

Lîle des peupliers Château dErmenonville

ジャン=ジャック・ルソーの墓所 ジラルダン侯爵邸内の庭園


1778年、ルソーはエルムノンヴィルの渓谷のほとり、古代の洞窟や廃墟があるジラルダン侯爵邸内の庭園に埋葬されました。廃墟の画家と呼ばれたユベール・ロベールがデザインした墓所は、ポプラ島で、城館に面した池に浮かぶ小島です。

このルソーの死の4年前。マリー・アントワネットは、1774年8月15日、ルイ16世からポンパドゥール夫人の離宮を与えられました。

Belvedere

プチ・トリアノン ベルヴェデール Belvedere 岩山
1777年 リシャール・ミック


王妃はルイ15世の植物園だった「王の庭園」をパリに移動させます。そして建築家リシャール・ミックは、ルソーの墓所をデザインしたユベール・ロベール、植物学者クロード・リシャールの協力を得て、プチ・トリアノンを拡大します。

廃墟、神殿が、プチ・トリアノンのイギリス式庭園に活かしたのでしょう。それが趣のあるピトレスク(ピクチュアレスク)な庭園は、ベルヴェデール (見晴台)、岩山、エスカルゴの丘、洞窟、そして愛の殿堂。
ユベール・ロベールの「洞窟」
(制作年数不明、ルーヴル美術館蔵)

Le Temple de lAmour-02

愛の殿堂 Le Temple de l'Amour
1778 リシャール・ミック

ヘラクレスの棍棒で弓を作るクピドのレプリカ
エドメ・ブーシャルドン (Edme Bouchardon)
ユベール・ロベール(1773-1808)は、1765年までローマに滞在し、パンニーニやピラネージの廃墟に影響を受け帰国し、1784年に宮廷の画家となっています。

フランスではユベール・ロベール以前に廃墟や古代遺跡、庭園、噴水を描いた画家はいなかったのでしょうか?いいえ、ポンパドゥール夫人に寵愛されたフランソワ・ブーシェ(1703-1770)がいるのです。ブーシェは農村の様子、家畜も美しく描き、貴族が農村で戯れている様子も描いています。

Francois Boucher. Landscape with a Temple and a Watermill. 1743

神殿と水車小屋のある風景. 1743
フランソワ・ブーシェ Francois Boucher


王妃の家、ビリヤードの家、私室のあった家、水車小屋、酪農小屋、農場とその別館、納屋、鳩舎、酪農仕込小屋、料理保温小屋に農場。この時代の農民達は、水車小屋、鳩舎、釜などの使用料も領主へ税金として納めなければならなかったのですが、これらの建物は領主のスティタスでもありました。

当時の農民の暮らしと税金を記事を、英国人アーサー・ヤングの日記から記事にしました。ブーシェの描いた水車小屋、鳩舎の作品を引用しています。

記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

The Queen’s Hamlet

le Petit Trianon 1783-86年? リシャール・ミック


村のように、畑、牧場、家畜、水車小屋、釣小屋、鳩舎、農家風の家が造られました。ここには農民、牛飼い、庭師たちの家族も住んでいます。選ばれた農民たち。

貧しい家庭や未婚の母、その子供たちを住まわせたりするためにともいわれています。

チーズやバター、農作物はここに住む農民たちが収穫します。

ここには選ばれた何組かの農民一家のほか、小姓、お針子たち、紡ぎ女たちも営んでいました。(当時の紡ぎ女は独身女性でした。)

Les fabriques du Hameau

Les fabriques du Hameau (The Hamlet houses)
王妃の村里 (ル・アモー) 1783年 リシャール・ミック

ブドワール(私室)、 マルボローの塔と酪農小屋、水車小屋
料理保温室、鳩舎、衛兵ジャン・ベルシーの家、農場(1784-88)
1787-88年の飢饉は歴史に残ります。

「悲惨な収穫に終わった後ににおける最悪の時期は、常に翌年の初夏に起こった。このころに前年に収穫された穀物が底をついているのに、その年の実りはまだだからである」

Hameau (heliochromie), maison de la reine et maison du billard
 
La Maison de la Reine 1783 リシャール・ミック

右:「王妃の家」 食堂・遊戯の間、上階に大・小広間、中国様式小部屋
左:「ビリヤードの家」 地上階段にはビリヤード室、上階に小居室


また、農民からの納税が限界で、特権階級からも納税することになるのがルイ16世時代です。重税に苦しむ農民の負担を軽くするために、ルイ16世は財政改革を行います。そこにネッケルが登場します。

1776年にジャック・ネッケルは財務長官となりますが、王妃マリー・アントワネットとその寵臣、王党派に倹約をすすめたのちに罷免。

そして国費を費やしたのはルイ14世と15世。その浪費で窮乏している国を継がなければならなかったルイ16世。絶好の回復の機会が失われてしまったのです。

Marie Antoinette in a Muslin dress  Louise Vigée Le Brun

ガリア服のアリー・アントワネット ヴァージョン3
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


この肖像画、ルブラン夫人の肖像画の中では好きな作品です。1783年にルブランの描いたモスリンドレスのマリー・アントワネット。シュミーズ姿スタイルの肖像画は王妃として不適切といわれました。

「この肖像画こそ、私が最も国民に見せたい姿なのです。」

古代ローマのガリア人が着ていた服。シュミーズの起源となったトゥニカ。ガリア人はフランス人のルーツ。そして平民を装った麦藁帽子とモスリンのドレスで。



プチ・トリアノン宮 ポンパドゥール夫人の離宮 1762-78年完成


ルイ15世は建築家のアンジュ.ジャック.ガブリエル(Anges-Jacques Gabriel)、装飾はオノレ・ギベール(Honoré Guibert)に依頼しました。

アッティカ Attique 最上階

La chambre du roi

The King’s Bedchamber
ルイ15世の寝室 1985年復元

Versailles, chateaux de Versailles et de Trianon

王の書斎 1777年 ルイ16世のために家具を納めてます

Lantichambre du roi

The King’s Antechamber(C) L'Internaute
王の控えの間


ここにはルイ15世以降、ナポレオン3世までの歴代の王妃、皇后のお部屋があります。くわしくはマリー・アントワネットの寝室でご紹介していますので、まずは写真から。



エリザベート王女小広間
Petit salon de madame Élisabeth

Petit salon de madame Élisabeth

1780年代のジュイの布の壁掛けとルブラン夫人の肖像画

madame Elisabeth


椅子はフランソワ・フォリオット2世(Francois Foliot II)の作品です。左のコモードは小会食の間にあった、ジャン・アンリ・リズネール(Jean-Henri Riesener)の作品と同じだと思われます。

過去記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から



マダム・ロワイヤルの小広間 
Petit salon de madame Royale

Madame Royale


幽閉からフランスの王太子妃として戻ってきたマリー・テレーズは、ここに足を運ぶことがあったのでしょうか。

過去記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1

sweet さんの記事 マリー・テレーズの意外な一文が!
マリー・アントワネット 記事紹介


 
マリー=ルイーズ皇后の化粧室 
Antichambre de Marie-Louise
室内装飾→Darrac François-Louis-Castelnaux (1775-1862)

 
マリー=ルイーズ皇后の寝室
Chambre à coucher de l'impératrice Marie-Louise

オルレアン公爵夫人の私室
Le Boudoir de la duchesse d’Orléans

Chambre à coucher de limpératrice Marie-Louise

(C)L'Internaute


ベッドのレリーフが見事です。この部屋の家具はマリー・ルイーズ皇后によって、1810年に室内装飾家のダラーク(Darrac François-Louis-Castelnaux)により納められました。

そして1837年からオルレアン公爵夫人の寝室になりました。

オルレアン公爵夫人のための「トワレ(トイレット)」が用意されました。ポンパドゥール夫人の使用していた写真と、当時のビデの歴史は記事 トワレとビデとガルデ・ア・ロー フランス編 から詳しく説明されています。ご覧くださいな。

1837 pour la duchesse dOrléans

1837年からオルレアン公爵夫人


この青いファブリックはオルレアン公爵夫人の時代からだったと思います。オルレアン公爵夫人はヴィクトル・ユゴーの庇護もしていました。


 
オルレアン公爵夫人の私室
Le Boudoir de la duchesse d’Orléans

グレーと薔薇色の大理石のある私室には、グリーンのランバ張りの椅子があり、2006年に修復されたようです。


 
ウジェニー皇后の広間
La salle Impératrice Eugénie

ウジェニー皇后はいつからマリー・アントワネットに思いを寄せるようになったのでしょうか。不思議だなって思います。

スペインからフランスに嫁いでから、アントワネットの遺品をコレクションをしていました。わたしだったら、まず避けようと思うのが断頭台で亡くなった王妃に関連するものです。

La salle Impératrice Eugénie

(C)L'Internaute


マリー・アントワネットは、フランスに嫁ぐときから暗示するような不吉がありました。

記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉

1867年のパリ万博で、ウジェニー皇后は、この部屋で、マリー・アントワネットの遺品展覧会を催したそうです。ご存知のように、ウジェニー皇后は追放されて平民として最後を送ることになりました。

彼女はアントワネットと同じように宮廷のファッションを華やかにしています。
記事 シャネル以前 宮廷のクチュリエ ウォルト

Salle de bain


この浴室のファブリックがウジェニー皇后の広間のものと同じような柄ですよね。膨大な資料からピックアップした写真ですが、どこのフロアーだったのかわからなくなった1枚です。

浴室にはマントルピース(暖炉)、ワードロープなどが備えられています。この写真は浴室のほんのの一部です。



2階 謁見の間 Les salles de réception
控えの間 Antechamber

Antichambre du Petit Trianon

 「薔薇を持つマリー・アントワネット」
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


ルブラン夫人の王妃の肖像画です。うーん、どうも彼女の描く王妃の肖像画は好きになれません。ヴィジェ=ルブランが、ほかの人はどう描くのだろうと思い、王妃以外の肖像画の記事を書いています。

過去記事 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

植物模様の彫刻を施したのはオノレ・ギベール(Honoré Guibert  1720-1791)です。テーブルは1770年に制作。

Le Petit Trianon - Antichambre


このホガニーのコンソールの上にセーブルのディナー皿が陳列されています。中央がマリー・アントワネットがセーブルに注文した「真珠と矢車菊」です。

その両脇にはルイ15世がセーブルに注文したと思われるシリーズが並べられています。その納品は、その後マリー・アントワネットに渡ります。

Attributs et groseilles Sèvres 1763

Attributs et groseilles Sèvres 1763年
かわいい!ルイ15世が注文したセーブルのカップです。


プチ・トリアノンのセーブルの陶器については、「料理保温室」でご紹介します。

antichambre


扉は大会食の間に続きます。アントワネットと向き合う胸像は、たしかヨーゼフ2世とルイ16世ではなかったでしょうか?彫刻家のルイ=シモン・ブワゾ(Louis Simon Boizot )の作品であることは間違いないです。

扉の上の絵画は、ジャック=フィリップ・カレーム(Jacques-Philippe Caresme)の「テイアース(Théias)」です。

そして左側のコンソールは、ジャン・アンリ・リズネール(Jean-Henri Riesener)の作品です。1783年制作のスクレテールも納められています。それはルーヴル美術館に所蔵されています。


 
大会食の間 Grande salle à manger



(C)wiki 2007-03-30


マリー・アントワネットの胸像はセーブル陶器のものでルイ=シモン・ブワゾ(Louis Simon Boizot 国王直属彫刻家、セーブル王立工房彫刻部責任者)の作品です。革命中に破損し、1858年に復元されたそうです。公式な王妃の彫像としてフェリックス・ルコント(Félix Lecomte)の作品もあります。

家具はジョージ・ジャコブ(Georges Jacob)が手がけています。もともとランブイエ城に納めたものらしいです。

オノレ・ギベール(Honoré Guibert)のレリーフが施されたボワズリー(羽目板)。飾り武器文様と花や果実の花綱模様が装飾されています。ジャック=フランソワ・ドロプシが彫刻を施した濃青色の大理石のマントルピース。

Grande salle à manger du Petit Trianon

La Chasse, Jospeh-Marie Vien 1772
La Vendange ou le Triomphe de Bacchus,Noël Hallé 1776


Grande salle à manger du Petit Trianon

La Pêche, Gabriel-François Doyen, 1768-1774
La Moisson ou Cérès et le Triptolème, 1769


大会食の間には「釣り」(ジョゼフ=モーリス・ヴィエン)、「収穫に勝ち誇るバッカス」(ノエル・ハル)、「狩猟」(ジョゼフ=モーリス・ヴィエン)、「ケレス(セレス)とトリプトレモスの収穫」(ノエル・ハル)の4つの絵があり、「魚」、「葡萄酒」、「狩猟」、「収穫」をあらわした食にふさわしい作品が飾られています。

扉の上は、詩人オウィディウス(Publius Ovidius Naso)の神話の作品で、ルイ15世が注文しています。チャールズ・モネ(Charles Monnet)の制作です。チャールズ・モネは1785年にルイ16世とアントワネットの結婚を主題にした作品も残しています。

記事
王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉


 
小会食の間 Petite salle à manger

Petite salle a manger du Petit Trianon
(C)L'Internaute
ジャンヌ・アントワネット・ポワソン デティオール夫人
ポンパドゥール夫人 1760 by カルル・ヴァン・ロー


ルイ15世が建てたプチ・トリアノン宮はポンパドゥール夫人のため。肖像画はここにあります。

1784年、マリー=アントワネットはこの部屋をビリヤード室にしたそうです。現在はもとの階下にビリヤード室があります。

写真の素敵な扉、そしてボワズリーのレリーフもオノレ・ギベールです。

Gilt fittings grace decorative double doors


実は私がもっとも興味があるのは、この「ドアノブ」です。この二つの「ドアノブ」を制作したのは誰なんでしょうか?

ランタンを制作したブロンズ職人のピエール=フィリップ・トミール (Pierre-Philippe Thomire)なのかしら?

レリーフはオノレ・ギベール(Honoré Guibert)です。

Jean-Henri Riesener Commode - Petite salle ・manger - Le Petit Trianon
 

このコモードもジャン・アンリ・リズネール(Jean-Henri Riesener)の作品です。胸像は不明。こちらと同じものがエリザベート王女の小広間にもあります。移動したのでしょうか。

鏡にはちらりと映っている肖像画があります。ディアナに扮したポンパドゥール夫人ですね。ナティエの描いた作品です。

記事 ジャン=マルク・ナティエ 肖像画 その2 ディアナ


 
2階 「王妃の居室」 The Queen's Apartments
付き添いの間 Salon de compagnie

Le salon de compagnie au premier étage du Petit Trianon orné de boiseries (Guibert). Piano-forte (1790, Pascal Taskin) et ensemble de sieges (1786, Georges Jacob).by wiki


ここの椅子は、1786年にジョージ・ジャコブ(Georges Jacob)が手がけています。サン・クルー城のマリー=アントワネットの寝室にある椅子は指し物細工師ジャン=バティスト=クロード・セネでしたね。

フォルテピアノはパスカル・タスカン(Pascal Taskin)で、1790年の制作になります。

Salon de compagnie du Petit Trianon-2


見事なランタン、壁掛け燭台は、鋳造、彫金はブロンズ職人のピエール=フィリップ・トミール (Pierre-Philippe Thomire 1751 — 1843)ではないかしら?と思います。この中央のランタンはラピスが使われています。スゴイ。

ダマスク織りのカーテン、インテリアのファブリックは、のちのフランス皇后ウジェニー(1826-1890)によって揃えられたようです。

Honoré Guibert


オノレ・ギベールはこの部屋のモチーフにバラの花冠を用いて、銀梅花の葉で2つの「L」を表し、3本のユリの花に交差させている彫刻を仕上げました。ユリはフランス王家の紋章。

George Cousineau,Gilles Paul Cauvet


音楽サロンの名のとおり、ハープはジョルジュ・クジノー(George Cousineau)が1780年に制作。そのハープの隣に楽譜台があります。こちらは装飾家のジル・ポール・コーヴェ(Gilles Paul Cauvet)の1779年の作品になります。



王妃の内殿 Cabinet des glaces mouvantes 

Ce petit boudoir de Trianon


建造技師のジャン=トビー・メルクラン(J. T. Merklein)が1776年に内装の鏡を設置しています。一方は壁にかかっています。

窓の下の鏡は床に置かれているだけではなく、可動式になっているもので、窓をふさぐことができます。この階下にその鏡が移動すすようになっているのです。

Ce petit boudoir de Trianon


1787年に、ルソー兄弟製作のアラベスク・スタイルのボワズリーを注文したそうです。この王妃の内殿の写が、プチ・トリアノンを象徴する「グリーンと白」の色彩が一番はっきりしいます。

階下の部屋はここをクリック→「glaces mouvantes



王妃の寝室 Chambre à coucher


家具はレプリカです。2008年頃でしたか?ピエール=アンドレ・ラブロードが指揮をとって改修していたのですよね。この部屋を「もとの状態に復元した」とあります。

1774年までデュ・バリー夫人、1777-89年がマリー・アントワネットでしたが革命後は、ナポレオンの妹ポーリーヌ・ボナパルト(ポーリーヌ・ボルゲーゼ Pauline Borghèse)、第二皇后マリー・ルイーズ(マリア・ルイーザ l'impératrice Marie-Louise)によってそれぞれ改装されたので、もとの新古典主義に帝政様式が加わったのです。

chaise et une salle de bain

アントワネットのバスルームと椅子
この椅子はトワレ


マリー・アントワネットはマリー・ルイーズの大叔母になるわけですね。家具は皇后マリー・ルイーズが揃えたようです。

アントワネットの寝室はマリー・ルイーズの化粧室として使用され、寝室は先にご紹介したアッティカです。

le Petit Trianon

le Petit Trianon 王妃の部屋 1885-1905

アッティカの部屋は、1837年にはオルレアン公爵夫人(La duchesse d'Orléans)が住み、マリー・ルイーズの様式をそのまま使用していたようです。

マリー・アントワネットの姪ルイ・フィリップ王妃マリー・アメリー(Marie-Amelie)はオルレアン公爵夫人エレーヌの義母です。

エレーヌは1837年にオルレアン公爵夫となっています。部屋の様子は先のアッティカの階からご覧ください。

Georges Jacob


かなり大きくご覧いただけます


Georges Jacob

「エピス」 ジョージ・ジャコブ(Georges Jacob)

椅子の作品名「エピス」はスパイス(香辛料)のことで、あるいは「麦の穂」と呼ばれているシリーズだそうですね。 枝にジャスミン、麦の穂、松ぼっくり、にユリ、スズラン、そして?山羊の足?とありました。訳に間違いがなければ。

Mobilier au épis de la chambre de Marie-Antoinette au Petit Trianon par G. Jacob (1739-1814), devant la cheminée

Mobilier au "épis" Petit Trianon


1787年にジョージ・ジャコブが納めたのがこのファブリックのものでした。椅子は同じ「エピス」です。
マリー・ルイーズは1811年にジュイの布「緑とメダイヨン」を購入していますが、このエレーヌは1837年に復元された黄色のダマスク織に変えています。この部屋は先にご紹介したアッティカにあります。

そうしてナポレオン3世の皇后ウジェニー(ウジェニー・ド・モンティジョ Eugénie de Montijo)は、1867年、アントワネットの遺品をこのプチ・トリアノンに集めたのです。

Chambre de la Reine au Petit Trianon


ここの家具はいくつかレプリカがあるそうですが、ほとんどがアンティークです。ファブリックはDesfarges à Lyon(デフォルジュ・リヨン)が複製したそうです。

壁側の鏡の下のコンソールはマリー・アントワネットがフェルデナント・シュワルドフェガー(Ferdinand Schwerdfeger)に依頼し1788年に納められました。

王妃はジャン=デモステーヌ・デュグール(1749-1825)にも家具を注文しているそうですが、作者不詳の右の小型家具(Petit meuble dans)でしょうか?この家具の正面の写真はwiki から。(窓から愛の殿堂が見えますね。)


 
中2階 (Mezzanine)  
ここは王妃がリシャール・ミックに改装させたところです。

図書室あるいは書斎(Library) 

La bibliothèque de la Reine

(C)L'Internaute

カバーは聖書で中身は恋愛小説だったという逸話がありましたね。



浴室(Bathroom)  オルレアン公爵のバスルーム こんな風にしたい。

La salle de bain du duc dOrléans

(C)L'Internaute


主席侍女室  カンパン夫人の部屋
記事 マリー・アントワネット 宮廷革命

Chambre de Mme Campan

(C)L'Internaute


女官室 大公妃ロール=オーギュスト・ド・フィッツ=ジェイムズ

Chambre de la dame dhonneur

(C)L'Internaute


ポリニャック伯爵夫人ランバル公妃はどのお部屋にとまったのでしょうか。


 
地上階 Ground Floor

大階段
衛兵の間

Ground Floor

(C)RMN
The Grand Staircase
The Guards’ Room


右側が大階段(The Grand Staircase)です。ルイ15世の頭文字が刻まれていた錬鉄と金メッキブロンズの手すりはフランソワ・ブロショワ(François Brochois)の作製で、1769年頃完成。その後マリー・アントワネットの頭文字に変わりました。そして壁の彫刻は1765年に完成されています。2階の窓と窓の間にはメドゥサの顔が彫刻されています。オノレ・ギベール(Honoré Guibert)の作製によるものです。

そして左が衛兵の間(The Guards’ Room)です。

Le Triomphe de l’amour, représentation à Schönbrunn par les archiducs Ferdinand, Maximilien d’Autriche et l’archiduchesse 、Il Parnasso Confuso, représentation à Schönbrunn par les archiduchesses d’Autriche

兄ヨーゼフの結婚祝賀の絵


右が兄ヨーゼフとイザベラの結婚祝賀で「愛の勝利」を踊るアントワネット。左は姉達のオペラ。クリストフ・ヴィリバルト・グルックによるシナリオです。画家はヨハン・ゲオルク・ヴァイケルト(Johann Georg Weikert)でオリジナルは1778年の作品です。それから10年を過ぎて、王妃が描かせたという2枚。

この作品は、私の過去記事でも使用しています。シェーンブルグ宮殿と同じものをヴェルサイユにも届きました。構図は同じで、少し色彩が違うようです。作品に関しては過去記事をご覧ください。

過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの
過去記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア

Versailles , le Petit Trianon, voiture a chevre du Dauphin Louis-Charles , futur Louis XVII-grand-voiture-chevres-dite-dauphin-fin-18e-siecle


警備の衛兵達が寝泊りしていた部屋なので、とっても質素です。いまはルイ16世、マリー・アントワネットの縁のあるものが置かれています。

王太子の山羊ひき乳母車ですが、ヴェルサイユにあるものと比べて花模様が可愛らしい。第二子のルイ・ジョゼフのために用意されたものだと思われますが、そのあと誕生したルイ・シャルルにも使われたのでしょうか。



料理保温室 Warming Room

Salle des armoires aux porcelaines au rez-de-chaussee


骨董品(アンティーク)、もしくはセーブル陶器がお好きな人は必ずこの場所に立ち止まるのではないでしょうか。

 Restored as Marie Antoinette


ここもピエール=アンドレ・ラブロードによって改装されたところです。三つのキャビネットにはセーブルのシリーズが納められています。

Salle des armoires aux porcelaines au rez-de-chaussée-3


こちらのモチーフのAttributs et groseillesシリーズはルイ15世が注文したセーブル陶器と思われます。1769年から収められたようです。


右のカップも同様ですが、左のカップはこの下のディナー皿と同じシリーズで、1782年に王妃マリー・アントワネットのもとに収められたようです。このモチーフ矢車菊のモデルはいくつかあります。


この左側の「真珠と矢車菊」のセットは、ロワイヤル・ドゥ・リモージュ社(Royal de Limoges)でレプリカを購入することができます。その「真珠と矢車菊」は、下のシリーズのものだと思います。右側は花とアラベスク模様のディナー皿ですが、こちらはルイ15世の注文だと思います。

perles et barbeaux

プチトリアノン 料理保温室にある「真珠と矢車菊」


料理保温室は実際の調理はおこないません。厨房は宮殿から離れた付属の建物内です。ここは運ばれた料理を温めるキッチン。

全体像はこちら。→「料理保温室


 
ビリヤード室 Billiard Room

 Archduchess Marie-Antoinette, reine de France 1779 Élisabeth Vigée-Lebrun

王妃マリー・アントワネット 1779年
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


大理石のマントルピース(暖炉)の上に鏡とルイ=シモン・ブワゾの王妃の胸像(1781)。写真にはルイ・ジョゼフが誕生したときの国王一家と王族達の姿が描かれている集団肖像画。そのむかえに、ルブラン夫人の描いたこの「王妃マリー・アントワネット」の肖像画が掛かっています。

ルブラン夫人の王妃マリー・アントワネットの肖像画は、前年1778年にも同じ構図で1枚描かれています。ルイ16世の胸像が描かれていたもの。

この2枚を並べて掲載しているのが、過去記事「マリー・アントワネットが愛したもの」です。

billiards room-3


2階のマリーアントワネットの居室に、ルイ15世のビリヤード台を移したのは1784年のことで、現在はその以前の状態に復元しています。

そしてこの中央に簡素なビリヤード台が置かれています。このビリヤードのレプリカはあのシュビレット社(Chevillotte)によるものなんですね。

復刻されたビリヤード室。→「Billiard Room

そして珍しく国王ルイ16世とマリー・アントワネットが一緒に描かれている集団肖像画。ルイ・ジョゼフ誕生の作品。王族たちの姿も見えます。その小さな足元に手を触れているのがマリー・テレーズですね。

Louis-Joseph-Xavier-François, en 1781-82

王太子誕生を祝う王族 1781-82


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さて、つぎはフランス庭園にまいりましょう。


Les Jardins à la française  フランス式庭園


ルイ15世はポンパドゥール夫人にフランス式庭園をつくるようにすすめられたようです。そしてこのパビリオン(あずま屋)ですが、円形のサロンから4つの小部屋、私室、料理保温室、厨房、衣装部屋と続くようになっているのでしたね。

昔はこんな感じの円形のサロンでした。

Le salon du Pavillon Français

プチ・トリアノン フランス式庭園

Les Jardins à la française Le pavillon français


なんだか改装前のほうが、「廃墟」のイメージでよかったような気がします。ヴェルサイユ宮殿のHPから引用すると、「 ポンパドゥール侯爵夫人を連れたルイ15世は、植物庭園を散歩したり、あるいは隣の”涼みの間”で軽食を取った後にここで休息を取ったり音楽を鑑賞したりしたのでした。」とありました。

1750年に完成したこのパビリオン。1764年にポンパドゥール夫人は亡くなります。本当に「プチ」でも、プチ・トリアノンは壮大な年月がかかったのですね。

French Pavilion
(C)wiki
フランス式あずま屋 Le pavillon français


花壇の設計は離宮とおなじくアンジュ.ジャック.ガブリエル(Anges-Jacques Gabriel)、庭園はクロード・リシャールの指揮でつくられたそうです。

ここより小さな別館が「涼みの館」です。フランソワ・アンギエの2つの彫像があり、1810年に壊されたようです。そして1980年に立て直され、「涼みの間」と呼ばれています。

Le Salon frais

涼みの間 Le Salon frais


壊されたのはフランス革命後のことですね。フランス革命時に調度品は持ち去られたりしたようですから、実際のところオリジナルは少ないのかもしれませんね。

その後のナポレオンによって改装されて、ウジェニー皇后のおかげでアントワネットの調度品が戻ったというところなのでしょうか。


 Chapelle プチ・トリアノンの教会と礼拝堂

Chapelle - Jardins de Trianon 

Click Here


クリックしていただくと「礼拝堂」に変わります。ここはルイ15世の逝去の前の年、1773年に完成されました。ちょどフランス式庭園の南側に建っています。

祭壇の絵は、ジョゼフ=マリー・ヴィアン(Joseph-Marie Vien)によるものです。聖ルイ9世と妃マルグリット・ド・プロヴァンスが子供を授かるように聖ティボを訪れた様子を描いているそうです。


 Le Théâtre de la Reine  王妃の劇場

Le Theatre de la Reine Petit Trianon

王妃の劇場 リシャール・ミック 1780


麦藁などの板紙に描かれた背景。お芝居によって変わります。暖炉の農家、館の扉などなど。この劇場がとっても地味な建物の中です。その外観はポスターでも販売されています。

くわしくはこちらの記事をご覧ください。
過去記事 マリー・アントワネット テアトロマニーの時代


Le Jardin anglais Belvedere 
イギリス式庭園 ベルヴェデール

 

Petit Trianon Des sphinx


4つのスフィンクスに守られたベルヴェデール(1778-81)。ジョゼフ・デシャン(Joseph Deschamps)の作品と思われます。身体がライオン、そして美しい女性の顔のスフィンクスは古代ギリシャの神話に登場。ギュスターヴ・モローの作品にもあります。そしてやはりフランソワ・ブーシェの作品にも描かれていたのです。

Le Jardin Anglais le rocher et le Belvedere


最初に紹介しましたように、英国式庭園は自然の風景画なんですね。ベルヴェデール(見晴台)は八角形。この音楽堂は1777年にリシャール・ミックが設計し建てたものです。デシャンの彫刻で装飾。

Belvedere


内部は円形のアラベスク模様で、とっても素敵な図柄です。わたし、「愛の殿堂」より好きです。「愛の殿堂 Le Temple de l'Amour 」のクピド(キューピッド)の像(本物はルーヴル美術館)をつくったエドム・ブーシャルドン。

記事 私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール

ポンパドゥール夫人の肖像画に彼の書物の1枚が描かれています。ブーシャルドンは密かにポンパドゥール夫人へ捧げたクピドだったのかもしれません。記事にも書いていますが、書物の下敷きになって描かれています。


 マルボローの塔と酪農小屋

La Tour de Malborough ou Tour de la Pecherie


フランス革命後の荒廃したプチ・トリアノンのアモーを救ったのは、マリー・ルイーズ皇后のためにジャコブ=デマルテルが室内装飾と家具を手がけた頃かもしれません。

この酪農小屋には、マリー・ルイーズのイニシャル入りの大理石のテーブルがあります。

laiterie, Hameau de la Reine


さらにルイ18世によって修復されてもいまが、すっかり無くなってしまっているのは舞踏室、納屋、鶏小屋だということです。

ルイ15世、ポンパドゥール夫人、デュ・バリー夫人(1762-68)からはじまり、マリー・アントワネットの「王妃のアモー」(1776-1783)、そしてマリー・ルイーズ皇后にウジェニー皇后と、プチ・トリアノンの女主人は変わりました。そうして、再びマリー・アントワネットの世界に復元されていくプチ・トリアノン。

フランスはフランス革命後も、何度も革命が起こっています。改革と復元の国、あるいは衰退と再生の国なのかもしれません。

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ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

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マクシミリアン・ロベスピエール
オランプ・ドゥ・グージェ
フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

フランス革命の思想の流れ
フランス革命200年 ディドロ
ルソーの妄想・空想・瞑想
パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争

フランス革命当時の著名人
ヴォルテールの遺骸
サド侯爵 マルキ・ド・サド
サド侯爵夫人ルネ・ペラジー

ロココのモード
シャネル以前 宮廷のクチュリエ ウォルト
ヴィヴィアン・ウェストウッド 画家 ヴァトーのドレス
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ヴォルテールの戯れ歌 ポンパドゥール夫人

sai のヴォルテールへ

ヴェルサイユ宮殿への洪水の前奏曲を弾いたのはルイ14世の公妾マダム・ド・ポンパドゥール。

私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
ポンパドゥール夫人の肖像画、生涯、所有の美術品などの記事



パリのサロンでポンパドゥール夫人の肖像画に集まる人々
フランソワ・ヴーシェの1757年の作品


こうしてフランス革命の洪水まえに、ノアの箱舟であの世に旅立ちました。可憐な公妾のその死は、諷刺詩までもつくられます。

ここに眠る、15年間は生娘
二十年間は売女、八年間は女衒たりしもの

デティオール夫人(のちのポンパドゥール夫人)の時代から友人だったヴォルテールが詠んだものでしょうか。

ポワソン嬢時代からサロンに出入りし、啓蒙思想家たちの話相手もしたポンパドゥール夫人。デティオール夫人となってからは、サロンの女主人としてもてなします。

この時代にタンサン夫人のサロンでヴォルテールとはじめて出会うのです。

前記事をごらんいただいた皆様のほか、私よりもっとフランスの歴史や見聞に触れている方も多いのでご存知かと思います。

才色兼備といわれたポンパドゥール夫人は、現代のわたしたちのまわりにも大勢いらっしゃるような恵まれた家庭に育ち、質の高い教育と教養を授けられ、さらにお稽古をいくつか身につけたお嬢さんだとお考えくださいな。

一国の女帝が学ぶほどのものではありません。

ですが、特別な才能ではなくとも高い才能があり、「肌の白い栗毛の美人で、想像しうるかぎりのあらゆる才気を身につけた、パリで最も美しい女性の一人」に数えられています。

家庭教師たちは当代一級の文人、音楽家、芸術家たち。劇作家のクレビヨン・フィス、やがて俳優になるラヌー、オペラ座のピエール・ジュリオットら。



ポンパドゥール夫人の作品といわれている版画


かわいい林檎のレネットは、「可愛い女王」の意味があり、小さな頃からそう呼ばれていた彼女は、国王の寵姫になるのが精一杯の家柄です。

彼女の才気や教養は大貴族や宮廷のものではなく、文人、哲学者、芸術家ら知識層のものでした。つまり上流社会ではなく。

デティオール夫人は館の劇場に、ヴォルテール、クレピヨン、フォントネル、モンテーニュなど当代の名だたる文士を招きます。

ヴォルテールは自分は彼女の腹心の友と語ります。

「彼女は非常に育ちがよい。賢く、愛らしい。優雅さと才能にあふれ、生まれながらにして良識と善良な心を身につけている。・---(略)---私は腹心の友でさえあった。彼女から恋の話も聞かされた。国王の激しい愛情を自覚したと。それはセナールの森の国王の狩猟に連れて行かれたという事実に由来する・・・・。彼女の母は絶えず言う。シャトール夫人より美しい我が子と。」 
ヴォルテールの冷笑・・・

ヴォルテールの記事

記事 哲学書簡 ヴォルテールとクエーカー教徒
記事 哲学辞典 by ヴォルテール 
記事 マルク=アントワーヌ・カラス事件

ヴォルテールは哲学の時代といわれた18世紀最高の名声を手に入れた哲学者であり、文筆家。彼のほのめかした美辞麗句にかならず困惑させる訴え方をしています。sai がヴォルテールの記事で、反語的讃辞や揶揄が面白いって書いていましたが、これも反語的賛辞なのでしょうか。

それとも時代や情勢の機によって、どちらともとれるように賛辞したのかもしれません。

ヴォルテールは「非常に育ちがよい」とポンパドゥール夫人を賛辞していますが、この賛辞を「ヴォルテールのお世辞上手」と付け加えいるのが多くの著作がある窪田般弥氏。



欧州のポンパドゥール夫人
ジャン=ピエール・フランク


さて哲学の時代の啓蒙思想家ヴォルテールは、まだディティオール夫人だった彼女が公妾になれるならその腹心の友も悪くないだろうと考えていたようにおもいます。

その見返りを得るために。

ヴォルテールは決して彼女のことを「ゾフィー」とは賞賛していませんし。(彼の愛人を別として)

彼女の人並みを超える程度の知識や優雅さと高貴さは、誰もがビジュウ(模造宝石)と見破ることもないだとろうと思えてきたのでしょう。そして彼女の怜悧さと好戦的な性格も宮廷で光ることだろう、と。

1745年の王太子婚礼の祝賀会での「石櫧の木の仮面舞踏会」で、抜け目ないヴォルテールはデティオール夫人に頌歌を捧げます。

「石櫧の木こそは、私の崇め敬うべき樹木」と・・・。

公妾となったポンパドゥール夫人。上流社会の雅語になじめず、ある日の恥知らずな言葉に、ヴォルテールさえも窘めます。

「ごくごく仲間内での艶話に出てくる尻軽女を意味する言葉だということを、そっと知らせておきましょう。ポンパドゥール夫人。」

前国王ルイ14世の公妾マントノン夫人の最初の夫、ポール・スカロンが「マザリナード」というマザランの諷刺詩を流行らせましたが、ポンパドゥール夫人を諷刺するポワソナードと言う戯れ歌を前回もご紹介しました。

このポワソナード、ヴォルテールが巷に流行らせたのでしょうか。



ポンパドゥール夫人の作品といわれている版画


こうした戯れ歌のおかげで、ポンパドゥール夫人の復讐心で失脚されたのがモールパ伯爵です。

気高く率直な物腰で イリスよ、
御身はわれらの心を金縛りにする。
足るもとに、御身は花々をまき散らす。だが、それは白い花ばかり」

どこが侮辱の戯れ歌かと申しますと、「flueurs blanches (白帯下)」と「fleurs blanches (白い花)」の同音異義語で弄ばれています。

白帯下とは、「帯下に赤白あり、赤は血を伴い、白は無色を伴う」で、女性の皆様にはご理解いただけたと思います。

この歌、モールパ伯爵に誰が授けたのでしょう。

一方、ヴォルテールは・・・。
窪田氏の著作本から引用すると、「機をみるに敏なる進歩的文化人であったから、”生娘”という諷刺詩を書き、(ポンパドゥール夫人を)罵倒する。」とありました。

一方、ポンパドゥール夫人は・・・。
相手を打ちのめし、追放します。権力者として。ところがヴォルテールには・・・。

ディドロダランベールの共同編修「百科全書」と百科全書派(執筆者たちにはヴォルテール、ルソー、モンテーニュら多くのフランスの学者たち)の擁護を続けます。たしか、図版も含めて百科全書の編修が終わったのは、ポンパドゥール夫人の亡くなったあとですね。

18世紀の宮廷画家モーリス・カンタン・ドゥラトゥール(Maurice Quentin Delatour)の「ポンパドール夫人」では、この百科全書の擁護を公に認めていることと啓蒙思想、哲学の時代をポンパドゥール夫人が支配下に置いているように描かれています。

前記事 私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
肖像画の詳しい解説をしております。



ポンパドゥール夫人の作品といわれている版画


さらに1762年には、ヴォルテールが介入した「カラス事件」と呼ばれたジャン・カラスの冤罪を、国王直属の請願委員で再審にあたることに協力をします。

このようにヴォルテールの名声を高める力添えをしてきたポンパドゥール夫人ですが、ヴォルテールは1枚も2枚も上手だったんですね。

ポワソナードはポワソン家への戯れ歌です。ポンパドゥール夫人の母親がなくなったときには・・・。

ここに眠る 堆肥より生まれ 立身出生を極めるために
己の操を小作人に、娘を地主に売り渡したる者

小作人 fermier と 徴税請負人 fermier general をかけて、母親の愛人だった徴税請負人を暗示し、地主はルイ15世をさしています。

ただし、ポンパドゥール夫人の最初の夫も徴税請負人なんですね、母の愛人の甥ですから。そう考えると、たいへん悪知恵が働いた戯れ歌ですね。

また魚(ポワソン)に由来する家名ポワソン。

その戯れ歌は・・・、(楓の意訳)
宮廷の品が落ちた 鮮度が落ちた
何で驚くことがある?市場の魚じゃ当たり前!

さて、ポンパドゥール夫人。市場の魚ではなく、欧州の海をわたる魚、いえ、凱旋するガラテアのように勢いさかんです。

それは七年戦争で3枚のペチコートの一人エリザヴェータ女帝が急死するまでのことでした。

参考 ヴェルサイユの苑 フランス文学夜話 窪田般弥

| ヴェルサイユ | 22:40 | - | trackbacks(1) | pookmark |
ジャンヌ・デュ・バリー 傾国の美女デュ・バリー夫人
フランスのヴォクリュール。ジャンヌ・ダルクが誕生した地に、1743年8月17日マリ=ジャンヌ・ベキュー(Marie-Jeanne Bécu)が生まれました。

Mme Du Barry

デュ・バリー夫人
by フランソワ=ユベール・ドルーエ


身持ちの良くない女の私生児。のちのデュ・バリー夫人です。

ところが母アンヌ・べキューがブルジョワ層の金融家と再婚するなり、パリの聖心崇拝会の修道女として正規の修行、そして語学、算術、歴史、音楽を学んだのです。

15歳で修道院を出たジャンヌ。美容室ラメッツ(Lametz)、マダム・ラ・ガルドのコンパニオンなどの職について、17歳の時に、モード・サロン「ア・ラ・トワレット(À la Toilette)」の美人の売り子として人気を博します。この当時のジャンヌの顧客に女流画家アデライド・ラビーユ=ギアールがいます。

ジャンヌの取り巻きには、ルイ15世の官職保有層のひとり、サント・フォアがいました。つまりルイ15世はサント・フォアの驥尾に付すかたちとなったわけです。

1763年、ルエ(極道者)と呼ばれる貴族ジャン・デュ・バリーは、貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などをジャンヌの相手として売春をさせます。優雅な生活と引き換えに。

一説に

「ジャンヌはマドモワゼル・ランジュ(マドモワゼル・ランゲ)の如く パリにセンセーションを巻き起こす」

Girodet, Mademoiselle Lange en Danaé (1799)

スキャンダルになったダナエに扮したランジュ嬢 1799年
ジロデ(Anne-Louis Girod)


ランジュ嬢というのは女優で、当時は肖像画にも多く描かれた人。1799年にジロデの「ランジュ嬢のダナエ」がサロンに出展され、相当なスキャンダルを呼びました。でも、デュ・バリー夫人より30年くらい後の人です。ということは、夫人が亡くなったあとに、こうした比喩が用いられたのでしょうか。

Madame du Barry
As Mademoiselle Lange, she immediately became a sensation in Paris
ジャン・デュ・バリーは、家柄や教養のある男性をジャンヌに相手をさせたのは、ポンパドゥール夫人の後釜に据えるつもりでいたのです。目論見とおりに社交界でも通用するような話術や立ち振る舞いを会得していくのです。

宮廷入りに一計を案じ、弟ギヨームと偽装結婚をさせ、ジャンヌ・デュ・バリー伯妃が誕生したのです。

こうしてルイ15世のもとに送られたデュ・バリー夫人に、「この種の卑しくも恥ずべき情事」として宮廷のなかに反デュ・バリー夫人派が対抗してゆくのです。ポンパドゥール夫人の重臣だったエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール公爵。



フローラに扮するデュ・バリー夫人 1770
by フランソワ=ユベール・ドルーエ


そしてデュ・バリー夫人には反ポンパドゥール夫人派のリシュリュー枢機卿。

反デュ・バリーの空気を読んでいたルイ15世は早々に披露の儀式を執り行います。1769年、ジャンヌ26歳。認証式に必要な代母にマダム・ド・ベアルン。アレクサンドル・デュマ(父)の「ある医師の回想」の第1部ジョゼフ・バルサモに登場もするマダム・ド・ベルアン。このデュ・バリー夫人の認証式にかかわる一騒動が書かれています。

デュ・バリー夫人はポンパドゥール夫人と違い、初めから国王の威を借り、宮廷儀式や枢密顧問官会議に積極的に関わりだします。

ジャン・デュ・バリーによって相手をさせられた紳士たち。思想を持ったア文士、ヴェルサイユの慇懃や礼節に染まりぬいた貴族たちの相手との経験は、デュ・バリー夫人が政局に臆しない寵姫として振舞える所以です。

ポンパドゥール夫人のように、ルイ15世の四内親王アデライード王女、ルイーズ王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らに侍るようなところもなく、この「叔母君殿下」とショワズールはデュ・バリー夫人の排斥運動を煽動します。

Portrait-of-the-Countess-du-Barry-xx-Francois-Hubert-Drouais

花の女神フローラに扮するマダム・デュ・バリー
by フランソワ=ユベール・ドルーエ

そのかみ、余の幸運と栄光は娼婦たる女性の賜物
されば、いつの日か、寵を失うのも彼女らのためならん

ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の取立てでショワズールは出世。今度はデュ・バリー夫人によって引き降ろされる番、という戯れ歌が流行。

こうしたなか。ショワズールはマリー・アントワネットと王大子ルイ・オーギュストの縁談のために奔走します。のちにアントワネットはショワズールの失脚で、デュ・バリー夫人に一層の敵意をもつようになります。

このマリー・アントワネットが王大子妃として興しいれになったのはデュ・バリー夫人が30になったときでした。

1770年、5月14日午後3時、コンピエーニュでルイ15世、王太子ルイ・オーギュスト、叔母君殿下たちと一緒にデュ・バリー夫人はマリー・アントワネットとなった大公女マリア・アントーニアを迎えたのでした。

Madame du Barry

デュ・バリー夫人


オーストリア宮廷には愛妾が存在していませんでしたが、フランスの宮廷での特別な女性権力者という愛妾の存在。

道徳的に王太子妃はデュ・バリー夫人を憎んだのでしょうか?

違うと思います。叔母君殿下が最高地位者でもなく宮廷で権力を発揮していたことにマリー・アントワネットは気が付きます。そして特別な女性権力者愛妾のデュ・バリー夫人。

身分が卑しい女性が、「蔑むべき売春婦」が、宮廷で権力を持っていたことが許せなかったのだと思います。

このデュ・バリー夫人とその取り巻きは何を目論んでいたのでしょうか。

王権強化や国家財政の建て直し、司法制度の革新のために高等法院の力を削減



デュ・バリー夫人の私室で
コーヒーあるいあはチョコレートを渡すザモラ
ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ


王妃マリー・アントワネットとその取り巻きは何を目論んでいたのでしょうか。
義務を果たさず権利を主張すること
この違いを考えると、少々デュ・バリー夫人の肩を持ちたくなります。

There are many people at Versailles today
今日もヴェルサイユはたいへんな人ですこと
マリー・アントワネットが最初で最後にかけたマダム・デュ・バリーへの言葉。



デュ・バリー伯爵夫人
by フランソワ=ユベール・ドルーエ

貴女はデュ・バリーさまを、陛下の宮廷にも社交界にも出入りを許された貴婦人として、仰ぎ見る以外の目を持ってはなりませぬ。
母マリア・テレジアの手紙からアントワネットを諭しているのですが。ポンパドゥール夫人とは違い、王妃マリー・レクザンスカが亡くなっているのです。

各国大使はフランス国王を動かすために、誰を動かすのかを知っています。デュ・バリー夫人です。ところがマリー・アントワネットも叔母君殿下たちも、外交の主役ではありません。

マリア・テレジアは国を治める女帝として、デュ・バリー夫人の存在をアントワネットに知らしめます。ところが、たった一度の言葉かけで終わりにしてしまう。

それではデュ・バリー夫人はどういう器だったのでしょう。



ルイ15世とデュ・バリー夫人


仇敵ショワズールの求めに応じ、「すべてを水に流す」ことができる女性だったのです。ショワズールと国王の仲を調整したり、アントワネットのために、日に日に広まる噂を鎮めるため、事態を国王に話したわけなんですね。

王太子妃マリー・アントワネットにも誠意をみせていたとありました。

1774年、ルイ15世が天然痘に罹り、国王は王太子妃からデュ・バリー夫人の身を守るため、ポン・トー・ダム修道院に送ります。表向きは親類縁者の追放になります。

宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官の人脈でパリ郊外のリシュエンヌに起居し、その後はド・ブリサック元帥・シャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり優雅な生活を送りますが、革命後のイギリスでは亡命貴族たちの援助をおこなってもいます。

ところが、1793年に舞い戻ってくるのです。



フランス革命 デュ・バリー夫人とランバル公妃
(C)buzzle.com


彼女と一緒の牢獄にいたのが、オルレアン公ルイ・フィリップ2世の愛妾グレース・エリオット。王妃の処刑の毅然とした死に際に二人は感動を覚えます。

こうしてデュ・バリー夫人も断頭台に消えてゆくのです。

泣き、叫び、懇願の果てに。

ジャンヌ・ダルクと同じ地に生まれ、同じように捕らわれ、同じように処刑されたヴォクリュールの二人目のジャンヌだったのです。

記事参考文献
マリー・アントワネットの生涯 藤本ひとみ
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン
さて、デュ・バリー夫人の生涯は皆様にとって、どのように映ったでしょうか。彼女が残した芸術品に触れながら、すこし探ってみたいと思います。



Seven Plaques Mounted on a Pedestal Table


こちらはマルタン・カルラン(c.1730-1785)の製作による、デュ・バリー夫人のペデステルテーブルに置かれていた円卓磁器です。

中央にはカルル・ヴァン・ロー (Carle Van Loo)が描く「愛妾を前に演奏会を開く偉大なスルタン」が描かれています。まわりの6つの絵柄は、アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau)の複製。



Martin CARLIN (attribué à ), Charles-Nicolas DODIN

マルタン・カルラン作 デュ・バリー夫人のコモード 1772
© R.M.N./D. Arnaudet


こちらがマルタン・カルランが製作したマダム・デュ・バリーのコモードです。中央に描かれているのがフィルールの版画によって知られていた、ジャン=パティスト・パテール(1695−1736年)の「L’Agréable société〜楽しい仲間」で、左右逆にしたそうです。

ルーブル美術館より引用
3枚の磁器板は、愛と音楽を謳っている。側面には「喜劇」 と「悲劇」 が見られ、これは、1752年カルル・ヴァンロー(1705−1765年)によって、ベルヴュ城のポンパドゥール夫人の社交サロンのために制作。
絵付けは、 シャルル=ニコラ・ドダンです。ポンパドゥール夫人の陶器の絵付けも手がけています。



Jean-Honore Fragonard, 1773


Jean-Honore Fragonard, 1773


フランソワ・ブーシェ、カルル・ヴァン・ローに師事したジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)は、ルーヴル美術館の学芸員でもありました。ところがアカデミーに入会もせず、サロンとも一線を画し、ひたすら寓意的で官能的な装飾画を作成していくような画家。

デュ・バリー夫人はルイ15世からの賜物であった「ルーヴシエンヌの館」の装飾画をフラゴナールに依頼します。

「恋の成り行き」(1773年)の4連作。

左上が第一場面でなないかとされている「逢引」、右が第三場面の「恋人の戴冠」です。左下は「恋文(恋の告白)」で、右下が第二場面の「追跡」。

ところが新古典様式のお城には似合わないということで、フラゴナールに返却されています。




こちらはフラゴナールの「物思い」です。こちらが4連作のあとに描かれた最後の1枚ということですが、1790-91年に描かれています。これがデュ・バリー夫人ではないかということです。フランス革命のなか、失墜した夫人とブルボン朝、ロココ時代の終息を象徴しているのではないかと言われています。



ルーヴシエンヌの館はパンティエーヴル伯(ランバル公妃の義父)が権利を放棄したあと、ルイ15世がデュ・バリー夫人に与え、彼女はそこを1793年に処刑されるまで所有していました。

改装はアンジュ=ジャック・ガブリエルに依頼し、クロード=ニコラ・ルドゥーの手によって「愛の神殿」つくりが始まります。

ジョゼフ=ニコラ・ギシャールが彫刻を施し、ジャン=バティスト・カニーの金箔とフランソワ・ラビットの布張りで装飾されます。

Jean-Baptiste GREUZE - Tournus

壊れた甕
ジャン=バティスト・グルーズ


この絵画はデュ・バリー夫人が直接依頼したといわれている作品で、ルーヴシエンヌの館にあったものです。

作品解説 失われた純潔 ルーブル美術館より引用

無邪気な目を大きく見開き、紫色のリボンと花を頭に挿した、子供っぽい無垢な少女が佇み、ドレスの中で散った花を両手で押さえている。ひび割れた甕が、少女の左腕に掛けられている。フィシュ(三角形の婦人用スカーフ)は乱れて、少女のふくよかな喉下が垣間見え、ドレスの身ごろに付けられた一輪のバラの花弁はむしられ、白サテンの美しいドレスはやや無造作に身に付けられている。

失われたというより奪われた純潔のような気がします。

デュ・バリー夫人は芸術家たちを擁護し、作品の質の高さを見極める目を持っていました。彫刻も好きで、その当時の優れた彫刻家たちに作品を注文していたようです。とくにご贔屓だったのがオーギュスタン・パジュ。

芸術への執着はファルコネの「入浴する女」の出来上がりに、依頼したイメージと違うと壊させたりもするほど。



デュ・バリー夫人


アーサー・ヤングのフランス紀行にデュ・バリー夫人に触れた日記があります。

1787年6月14日[トゥールズにて]

ほかに見物したものに有名な伯爵夫人の夫兄弟、デュ・バリー氏の家がある。日陰者の世界から身請けし、実弟の正妻におさまらせたという逸話を講じて、一身代つくることに成功した。

デュ・バリー夫人の肖像画があるが、本人にそっくりだそうである。あんな絶世の美女に宝石箱を与えた一件で、国王が犯した愚考の数々も、つい許す気になってしまうだろう。
誰が描いた肖像画をみたのでしょうね。実際に会った王妃マリー・アントワネットのことを「今日見た中で一番の美人」と表現していたアーサー・ヤング。肖像画のデュ・バリー夫人を「絶世の美女」と日記に記すあたり、気になりますね。





首飾り事件のネックレスデザイン画
(C) wiki


ルイ15世が宝石商シャルル・ベーマーとポール・バッサンジュに依頼した、デュ・バリー夫人への贈り物。

もともとデュ・バリー夫人のネックレスとして注文されたものが、ルイ15世の逝去とデュ・バリー夫人の追放で、立ち消えになってしまったものですが、のちのフランス革命の一端にもなった事件ですね。

大小540個のダイヤモンドからなる160万リーブルの首飾り。

アントワネットは、デュ・バリー夫人のためにつくられた高額なネックレスに購入を躊躇します。

ここで不確かなのは、「躊躇してた」というところ。はっきりと断らなかったのですね。アントワネットは断れなかったのだと思います。「どうしようかしら・・・」と。

その曖昧さに仲介を頼まれたラ・モット伯爵夫人はその首飾りを自分のものにするため、画策します。

誰が原因をつくったのでしょう。「躊躇した」王妃ではないでしょうか。



デュ・バリー夫人は人間らしい愛と快楽を求め、贅沢で優雅な生活に身をおいてきました。彼女が特別に浪費したわけではありませんが、ルイ15世が彼女のために浪費したのは確かなことです。

ルイ14世の時代から、重税に苦しんだ第3身分の平民たち。

マリー・アントワネット フランス紀行から
ルイ15世の寵姫のなかでもっとも名が残ったポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人。デュ・バリー夫人はポンパドゥール夫人のように、いくつもお城を改装した記録はありません。

私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
ポンパドゥール夫人の時代の戯れ歌の一節に

当節、御代はならず者
城や出費で国庫は空で
国家はお先真っ暗やみ
国王なんにもなさらない

結局、ポンパドゥール夫人の優雅な生活がのちのちに歪を生み出したのかもしれません。



Portrait de Madame du Barry (1743-1793) Vigée-Le Brun Elisabeth Louise

デュ・バリー夫人
Vigée-Le Brun Elisabeth Louise
エリザベード=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


元凶はポンパドゥール夫人。そして王妃についたのが空っぽな頭のマリー・アントワネット。その狭間に生きたデュ・バリー夫人。

どちらにしても国庫の底力で、夢のような生活を一時期でも過ごせたのですから、断頭台で消えたこともあながち間違いだとも思いませんが。

それにしてもフランスに戻らなければよかったのに。

運命の力が引き戻したのでしょうね。

wiki に、「傾国の美女とも哀れな女であったとも言われる」とありました。傾国の美女とはご存知のとおり、寵愛のために 国をも滅ぼす美女のこと。

国庫を空にした傾国の美女は果たしてデュ・バリー夫人なんでしょうか?

王国の黄昏時に寵姫となったデュ・バリー夫人。哀れな宿命の女性。
| ヴェルサイユ | 14:33 | - | - | pookmark |
ポリニャック伯夫人 悪徳の栄え

奇しくも王妃マリー・アントワネットの寵愛を受けるランバル公妃と、同じ年の同じ誕生日に生を受けたポリニャック伯夫人。

ランバン公妃が美徳の不幸なら、ポリニャック伯夫人は悪徳の栄えといたしましょうか。サドの悪徳の栄えと比べれば可愛い悪徳ですが。



ポリニャック伯夫人
ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
 ?ジョシュア・レノルズ(wikiでは)?


清らかで、つつましくもあり、それでいて天真爛漫なヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン。

3歳で叔母に預けられ、貴族子女の教育を修道院で学び、18歳でメルキオル・ド・ポリニャック枢機卿(ルイ15世時代のメーヌ公妃 クーデターで失脚)の甥アルマン=ジュール・ド・ポリニャック伯爵と結婚をします。

ランバル公妃の結婚と同じ年の1767年7月7日。

こうして、1679年のルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人の黒ミサ(ラ・ヴォワザンの毒薬事件)に関与したところから衰退をたどる名門貴族のポリニャック家に嫁ぎ、このガブリエルによって再興を果たすことになります。

不思議な因縁ですがモンテスパン侯爵夫人の子孫がランバル公妃の嫁ぎ先なんですね。



ポリニャック伯夫人の娘 ルイーズ 1783
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


こうした家系でガブリエルは長男アルマン=ジュール・エルキュール・ド・ポリニャックに次男ジュール・オーギュスト・アルマン・マリー・ド・ポリニャック(フランス首相)が生まれ、のちのフランス政界で活躍する子供たちを誕生させていくのです。

王妃との出会いは1775年夏。ポリニャック伯爵の姉によって、ヴェルサイユの正式なレセプションに夫妻で招かれることになりました。

これは権勢の一族ポリニャック家の策。ガブリエルに王妃の寵愛を受けさせること。

26歳の若いポリニャック伯夫人は、彼女の優雅さと美くしさで王妃マリー・アントワネットを魅了します。

ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルは、白百合のような美しさ。

誠実な青い目に、微笑む純白の歯、そして天使のような顔立ち。それはまた美しい歌声。



ポリニャック伯夫人
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


いつもご機嫌よく周囲に溶け込み、議論をするわけでもなく、それでも知性と機知に富む彼女に、自然と王妃は好意を抱きます。

わたしはヨランド・マルティーヌ・ガブリエルの個性は、「はにかむようなしぐさ」と「率直さ」だったのだと思います。それが正直で誠実に映る。あなたのまわりにもいらっしゃいませんか?こういう個性の方が。

とくにルイ16世にも好まれたポリニャック伯夫人ですが、ルイ16世とアントワネットの仲を自然と取り持つような影響を二人に与えていたのではないかと思うのです。

こうしてアントワネットの取り巻きたちにも迎えられ、アルトワ伯には特に気に入られたようで、ランバル公妃の地位に取って変わることとなったのです。

王妃はアルマン=ジュール・ド・ポリニャック伯爵に王妃付馬頭に任命します(そのため王妃の馬の数は倍の300頭に増え、20万リーブル以上の支出となるのです)。

Duchesse de Polignac Pastel Lebrun 1787

ポリニャック伯夫人
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


ガブリエルは、1782年には王室の教育女官長となり、ポリニャック一族に年間50万リーブル、のちに70万リーブルの年金と御下賜金を賜ることとなるのです。

また王妃の賭け事は、約49万リーブルにもなっており、国王はこの濫費に対処するために、経済学者チュルゴーを財務大臣にたてるのですが、王妃はチュルゴーを嫌い、失脚させます。

よく私利私欲といわれているポリニャック伯夫人と取り巻きたち。好意につけ入るような事はしなかったランバル公妃も王妃からの一時金や御下賜金は14〜15年にわたり年間にしておよそ10億円を好意として受け取っていましたね。

ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸

ところで、王妃はランバル公妃をどうして疎ましく思ったのでしょう。



王妃マリー・アントワネット
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


とくに、レズビアンといわれたほど親密だったランバル公妃、ポリニャック伯夫人ですが、捏造というのは「レズビアン」という定義に対してです。

ランバル公妃の厚意は、王太子妃アントワネットの満たされない快楽への奉仕として行っていたということです。

申し上げにくいですが、王妃マリー・アントワネットは非常に早熟で、性的放埓な振る舞いがあったのではないでしょうか。

くわえて、アントワネットとデュ・バリー夫人なみの女官同士の争いにも嫌気がさし、気軽なポリニャック伯夫人に委ねたのだと考えますが。

また取り巻きのフェルゼン伯爵を別に、1779年のド・コワニー公爵との逢引など、ランバル公妃の奉仕が必要ではなくなってきた身辺の頃です。

こうした王妃の経緯が、取り巻きたちとの同性愛、ルイ・ジョセフとの近親相姦、愛人との乱交と捏造されていきます。

Louise Pommery bas-relief monumental réalisé par Jean Barrat, en 1986  

ルイーズ・ポメリー モニュメント


その後も王妃の賭け事(LA PARTIE DE REINE)は延々続き、1785年には王妃の首飾り(LE COLLIER DE LA REINE)とマリー・アントワネットの身の回りは騒がしくなりますが、ポリニャック家の策は功を奏でました。

なによりポリニャック家のすごさは、今世紀まで存続させたことですよね。

1863年の創業のポメリー。マダム・ポメリーの嫁いだ先が「シャンパーニュとは芸術である。」というポリニャック家です。

孫にあたるエドモンド・ドゥ・ポリニャック公爵(1834―1901)のウィナレッタ夫人は、ミシン王シンガーの娘で、芸術をこよなく愛し、フォーレ、シャブリエ、ラヴェルから曲を献呈されています。

オートクチュールのジャンヌ・ランバンの娘マリー・プランシュは、ポリニャック家に嫁ぎ、1946年にランバン(LANVIN)の事業をポリニャック伯夫人として引継ぎました。

ポリニャック伯ピエールの息子レーニエ3世はモナコ大公でグレース・ケリーが妃。


Joshua Reynolds Georgiana Duchess of Devonshire

ジョージアナ・キャヴェンディッシュ
(デヴォンシャー公爵夫人)
ジョシュア・レイノルズ(1775年頃)


すごいですよね。やはり「悪徳の栄え」でしょうか。ランバル公妃、アントワネットの子孫は絶えていますのに。

1789年、革命の波が押し寄せるとともにポリニャック伯夫人はアントワネットの祖国オーストリアに亡命します。

1790年、アントワネットとポリニャック伯夫人の友人、英国のデヴォンシャー侯爵夫人が王妃を訪ねてきます。(あのダイアナ元妃はデヴォンシャー侯爵夫人の傍系子孫です。)

「マダム・ポー」の話になると、泣き崩れる王妃。

ポリニャック伯夫人のとった行動は当たり前。国を滅ぼしてでも、家を守る女性として。跡継ぎを絶やさないように。生き延びるために。

オノーレ・ミラボー
「ダサス家には国家を救った手柄により1000エキュ、ポリニャック家には国家を滅ぼした手柄によって100万エキュ」

その翌年でしょうか。デヴォンシャー公爵夫人はマダム・ポーことポリニャック伯夫人の孫、コリザンド・ド・グラモンを預かることになります。



ポリニャック伯夫人
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


1792年、ランバル公妃の首を槍に高々と吊るし、王妃のいる塔に市民は押しかけます。

このころ、ポリニャック夫人は癌に侵され(病名は不確か)痛みに苦しめられていました。

王妃(1755年11月2日-1793年10月16日)も断頭台で果てます。

ランバル公妃(1749年9月8日-1792年9月3日)と同じ年に誕生し、同じ年に結婚し、同じように寵愛を受けたポリニャック伯夫人(1749年9月8日-1793年12月9日)。

やはり国を滅ぼした手柄は神も賞賛を与えたのでしょうか。ポリニャック伯夫人はランバル公妃の後を追うように天に召されました。

ところでミラボーはポリニャック家、あるいは神に100万エキュ支払ったのでしょうか。

| ヴェルサイユ | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸

 

ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン
Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan,
 Princesse de Lamballe


サルデーニャ王の家系、イタリアのカリニャーノ公の四女として誕生したマリーア・テレーザ・ルイーザ。

肖像画を見る限りでは、知性と教養、そして美貌も兼ね備えた優雅な女性。宮廷でランバル公爵夫人とよばれるマリー・アントワネットの女官長になったのが1770年のこと。

実はポンパドゥール夫人亡き後のルイ15世のお相手として候補にもなった話もあるほどの美しさ。

王妃の心の友人と寵愛を受け、危険も顧みずに革命時には王妃のためにフランスに戻ってきたランバル公爵夫人。

今日は、愛すべきランバル公妃を別な視点から記事にしたいと思います。ごめんなさい。ランバル公妃。



Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan,
Princesse de Lamballe
1780-85
by Louis Edouard Rioult


女官長時代にしっかりと王妃を補佐していればと思うと残念です。

マリー・アントワネットの誹謗・中傷となった振る舞いを諌められるのが真の友だと思うのです。

また宮廷や国民から愛されるように、王妃が国の王妃らしく振舞えるように環境や人脈をを整えるのも女官長の努めだと思います。

そういった意味で、ランバル公爵夫人は、友としてより、宮中女官長としてどうだったのでしょう。

王妃が得意気に「私の仕組んだ事」と手紙にも書いているデギュイヨン事件(1775年)のことを、彼女は心の友人として王妃を応援した側でしょうか。それとも女官長として心を痛めたのでしょうか。

Madame de Lamballe

Madame de Lamballe
ランバル公爵夫人


マリア・テレジア、兄ヨーゼフの手紙には、この事件に関して、アントワネットを諌める手紙が残っています。

ランバル公爵夫人はアントワネットの母、兄のように、王妃としての行く末を案じてはいなかったのだと思います。

王妃に気に入られた幸運。このまま王妃に仕えたい。

この時のランバル公爵夫人は、心の友人としてアントワネットに仕えたいと思っていたのだと思います。私だけが王妃の心を慰められる。

ランバル夫人は、「好意につけ入るような事はしなかった」のですが、約15年もの間、毎年15万リーブル(約10億円)の御下賜金が与えられていました。



Marie Therese Louise
by Marie Elisabeth Louise Vigee Le Brun
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
1781


たぶん王妃同様に、ランバル夫人も物事を深く考える性質ではなかったのでしょう。

公職の私物化ということを。
古くからの名家の貴族たちはヴェルサイユをあとに、アントワネットたちの中傷をひろめていくのです。

この美徳の心を持つランバル公妃にまで。

ランバル公妃が忠誠を誓う王妃マリー・アントワネット。その王妃の寵愛はしだいにポリニャック伯夫人へと移って行きます。それがあからさまにわかるようなマリー・アントワネットの無邪気さというか明け透けな性格。

Marie Therese de Savoie, princesse de Lamballe

Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan,
Princesse de Lamballe
by Antoine-François Callet


ポリニャック夫人とランバル夫人は奇しくも生年月日が同じです。ランバル夫人はアントワネットを利用しようと思わずに、贅沢三昧ができた人。

彼女の御下賜金というのは、国庫から王妃に割り当てられている枠があるわけなんです。

王妃の衣装費、王妃の御内帑金(お手元金)、そして造設費、御下賜金などです。

実際のところ、国王、王妃をはじめとする王族が浪費したといわれる額は、国庫の10%ほどだったのです。戦争の費用が国庫をからにしていくのです。

ところがランバル公爵夫人をはじめ、王妃の取り巻きの私的な人事、法外な御下賜金とそれによる華美さが、王妃に「赤字夫人」とレッテルを貼られる正当な「理由づけ」になるのですね。



Princesse de Lamballe
Joseph-Siffred Duplessis(ジョゼフ・デュプレシ)


ランバル公爵夫人には、宮中女官長に任命した一時金5万リーブルを与え、俸給のほかに衣装の支給、そしてアパルトメントを用意した王妃。

そして御下賜金を思う存分ドレスに費やすのです。ランバル公爵夫人のドレスへの執着は特別でした。

のちにお出入り禁止となる王妃ご用達のローズ・ベルタンの店「ル・グラン・モゴール(boutique, Le Grand Mogol)」で新調する。

とにかく宮廷の最高のゴシップの種を撒いている女官長。

国民からはどのように思われるでしょう。それはカリカチュアで証明されていますよね。

無心でありながら、「空っぽな頭」は、宮中女官長と王妃のスキャンダルを増長させるのです。



Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan
wearing a Creme gown with a Blue belt
(detail)
by Anton Hickel


王妃を利用するわけでもなく悪意もない。ただ優しく、控えめで、無欲であり、知性と教養溢れるランバル公爵夫人。

夜遊びにも賭博にも無縁でした。人事にも政治にも口出しをしません。せめて王妃に忠告してくれるような分別があれば・・・。

職務に関しては心の友人の延長で、責任や管理ができない人。

そして公的地位にあるべき姿が、ほかの女官の模範になるようなことがなかったのだと思います。

王妃の好意に感激し、ただただ献身的に仕えるのがランバル公爵夫人。



Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan
wearing a Creme gown with a Blue belt
by Anton Hickel  アントン・ヒッケル 1789年


王妃の好意が宮廷や国民の反感を買わないかの分別があり、自分の管理する女官たちが、王妃を尊敬し心から仕える教育をするほうが大切で、それこそ真の友といえるでしょう。

このような宮中女官長でしたら、王妃もランバル公爵夫人も残酷な運命に終わらなかったかもしれませんね。

母マリア・テレジアや兄ヨーゼフが戒めるのは、「人を見る目」は、人事の配置にふさわしい人を選べということも含まれていたのですよね。能力のある人間を。

ご存知のように、ランバル公妃ことマリーア・テレーザ・ルイーザは、1767年にフランス国王ルイ14世の曾孫ランバル公ルイ・アレクサンドルと結婚し、ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズとなりました。

Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe

Marie-Thérèse Louise de Savoie-Carignan,
Princesse de Lamballe
by Jean-Laurent Mosnier


ところが1768年には夫と死別します。

原因は、ランバル公の放蕩によるもので、性病のためにルーヴシエンヌ城で亡くなっています。

マリーア・テレーザ・ルイーザを、ランバル公の父パンティエーヴル公が縁組の相手に選んだのは、息子の放蕩(性欲)を抑えるために、早々と結婚式を挙げさせたわけですが、結局、ランバル公妃だけでは満足できずに身を持ち崩すのです。

こうして、ランバル公の死により、ブルボン=パンティエーヴル家は最後となります。

未亡人ランバル公妃は1770年に宮廷に仕えるようになり、マリー・アントワネットは、「若い未亡人」ということに、非常に同情を寄せることになります。それがランバル公妃の女官長の地位を与えることになるのです。


記事「危険な風味のチョコレート」でもご紹介していたシャンパルティエ・ジャン・バプティスト作の「パンティエーヴル公ファミリー」(1768年)です。

フランス、ウィーン、イタリア、スペインとヨーロッパ諸国の宮廷や貴族のスティタスである「チョコレート(ショコラショー)」を飲むシーンです。

この集団肖像画は、左から父パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリー、長男ルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン (ランバル公)、中央ランバル公妃マリー・ルイーズ、娘マドモワゼル・ド・パンティエーヴル、母マリー・テレーズ・デステ=モデーヌ。

これが最後の家族の肖像画になったのかもしれません。

2年の不運な結婚生活にピリオドをうち、いよいよランバル公爵夫人の最期を決定付ける運命のヴェルサイユへと導かれていきます。


さて、生年月日が同じポリニャック夫人は、同じ1767年にやはりポリニャック伯爵と結婚をしています。

ランバル公妃が夫と死別した1768年のポリニャック伯夫人の一族は、家運の衰退がはじまります。

ところがランバル公妃への王妃の寵愛と関心は、このポリニャック伯夫人へと移り変わり、一族は高みを目指します。この新しい女官長ポリニャック伯夫人。そして王妃の新しい心の友人。

1780年に宮廷を退いたというランバル公妃。もう一度、ルブランの描いたランバル公妃の肖像画をご覧ください。とても切ない笑顔に見えませんか。

この頃ランバル公妃はどこに住んでいたのでしょう。亡くなったランバル公の妹ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン=パンティエーヴルが相続したオテル・ド・トゥールーズにでも身を寄せたのでしょうか。

Mort de la princesse de Lamballe 1792

Mort de la princesse de Lamballe 1792年9月3日
「ランバル公妃の死 1792年9月3日」 1908年
レオン=マクシム・フェーヴル(Léon-Maxime Faivre)


この傷心の1780年に、作曲家ジャン=バティスト・クルムフォルツが、ハープの名手ランバル公妃に六曲のソナタ集「ハープのためのソナタ 作品8」を献呈したのです。

ルブランがランバル公妃を描いている頃、王妃マリー・アントワネットは、香水師ファージョンに、プチ・トリアノンの香りと男性に贈る香りを注文するなどの相変わらずな生活の中、王大子ルイ・ジョセフを誕生させました。

この世継ぎを祝えないほど国民の生活は困窮していました。すでに王妃の凋落への予兆が表れ始めていました。 

1789年、ポリニャック伯夫人はオーストリアに亡命しました。王妃アントワネットの生まれた国。この年、ランバル公妃はアントワネットの元で再び献身的に尽くしています。

1791年、援助を求めに英国へわたり、帰国後は王妃のいるテュイルリー宮殿に戻ります。


1792年、タンプル塔へ投獄。移送されたラフォルス監獄へ。

ランバル公妃はフランス革命の正当性を認めませんでした。王妃を守るためでしょうか。革命を誘ったヴェルサイユ時代を忘れているのでしょうか。

そのため、ランバル公妃は無残にもフランスの国民の手で八つ裂きにされるのです。9月虐殺の被害者です。

記事  フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月

王妃への忠誠心。美徳に溢れたランバル公妃。王妃の心の友人を殺してしまったのは何者なんでしょうか。

この同じ年、亡命先でポリニャック伯夫人も亡くなりました。生まれたのも、結婚も、死までも同じ年だったのですね。

こうしたフランス革命下のバスティーユ牢獄で、せっせと執筆に励んでいたのはマルキ・ド・サド(Marquis de Sade)です。ちょうど、「ジュスティーヌ物語あるいはは美徳の不幸」(妹)、「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」(姉)は革命の前後に仕上げたものです。



La princesse de LAMBALLE


ジュスティーヌは身も心も美徳に捧げた清らかな娘。どういうわけか人々に邪険にされ不運な女性です。美しい心のこの女性の最期は雷に打たれ死ぬのです。

姉のジュリエットは、16世紀に実在したエルゼベート・バートリーのような残酷なサディスト。まるでランバル王妃の遺体を前にした国民のように死に無関心。

レオン=マクシム・フェーヴルの「ランバル王妃の死 1792年9月3日」は、1908年のパリのサロンの出展された作品です。

画像が大きくなります。そこに描かれている人々の顔は、ジュリエットのように、死に至るまでの好奇心であったり、憎しみどころか悪意のまなざし。窓のないフランスの農家の家、生きるか死ぬかの貧しい生活の人々の狂気。

この9月虐殺で1万4千人とも、1万6千人ともいわれる死者。革命での断頭台で消えた人はパリだけで1400人。

わたしにとってランバル公妃の死は、美徳を積み、そして雷に打たれて死んだジュスティーヌを思い出させるのでした。
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| ヴェルサイユ | 19:41 | comments(2) | trackbacks(1) | pookmark |
マリー・アンワネットのドレス ローズ・ベルタン
更新しました!本記事丸ごと掲載していただいているblogやリンクしていただいているblogの皆様、ありがとうございます。

Rose Bertin(Marie Jeanne Laurent)

ローズ・ベルタン肖像画
クリックで全体像に変わります


ココ・シャネル誕生以前の18世紀のパリ。

マドモアゼル・パジェル(Mlle Pagelle) という帽子屋で働く16歳のマリー・ジャンヌ・ローラン(Marie Jeanne Laurent)は、のちに王妃マリー・アントワネットの専属のマルシャンド・ド・モードとなります。

シャルトル公爵夫人が顧客となり、サント・オレノにベルタン嬢のブティック ル・グラン・モゴール(boutique, Le Grand Mogol)がオープンすると、マドモアゼル・パジェルの上顧客も集まって大繁盛となります。

François Boucher, La Marchande de modes

フランソワ・ブーシェ 1746年
「マルシャンド・ド・モード(モードの商人)」


なんだかポンパドゥール夫人と彼女の化粧台に似ていませんか?ちなみにブーシェはアントワネットがお嫁入りした年に亡くなっています。

過去記事から確認できます。
私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール

モード店の女性がケースから夫人にリボンや記事の見本帳などを見せているシーンですが、ポンパドゥール夫人が築いたロココファッションをアントワネットとローズ・ベルタンはフランスのオートクチュールの基礎を築いていきます。

This portrait of the queen Marie-Antoinette could have been made about in 1775

Marie-Antoinette


1772年、シャルトル公爵夫人の紹介で王太子妃となったマリー・アントワネットと出会います。

このローズ・ベルタンの顧客にはシャルトル公爵夫人、コンティ公女のほか、ランバル公妃がいます。

マリー・アントワネットの過去記事
マリー・アントワネットが愛したもの
ハプスブルグ家 マリア・アントーニア

さて、マリー・アントワネットの衣装代ですが、湯水のごとく国費を費やしたといわれていますが、半世紀前(1725年)から、王妃の衣装代は年間12万ルーブルとなっています。シーズンごとに正装用、礼装用、ドレスを各3枚、年間にすると各12枚が新調される約束で、最低でも36着は規則によって与えられます。



アントワネットの肖像画から
お花のモチーフ、刺繍



これは「王妃の御内帑金(お手元金)」などとは別の予算です。王妃に支出される公金は300〜400ルーヴル。この公金とはお手元金のことでしょうか。

王妃のお買い物 年間170着のドレス
25万ルーブルの腕輪
50万ルーブルの耳飾り
1着60万ルーブルのドレス

引用:マリー・アントワネットの生涯 藤本ひとみ著
年間にして170着以上を購入していたといいますので、お針子の数は相当だったのでしょう。



18th century Boutique
ブティック店内


当然マリー・アントワネットは衣装代の予算を超えてしまうのです。

超えてしまうのですが、王室の費やす金額は果たして財政を破綻させるほどのものなのでしょうか。
王室が費やしたのは国庫の10%に満たないのです。
このベルタン嬢にとってアントワネットは金の卵。毎日のように見本帳をもってヴェルサイユにやってくるのです。なかなかの野心家ですね。

もし170着以上のドレスを1年間に購入していたのなら、1着のドレスの期間や人手を考えると、国中の仕立て屋とお針子、職人が必要にならないでしょうか。産業革命はもう少しあとの話。仕立てには最低23時間は必要とします。1着をつくるのに十数人以上の職人とお針子に、1ヶ月から1年以上の期間をかけて製作するドレスもあるほどなのです。
第3身分のローズ・ベルタンはブーシェの作品のように、王妃の私室で半日以上も二人きりで新しい流行のドレスやヘアスタイルを考え出します。



Marie-Antoinette
アントワネットのヘアスタイル「パフ」


デザイナーのローズベルタンと髪結師レオナールで、パッドとポマードで高く結い上げた「パフ(pouf)」というヘアスタイルまでも創りだします。あの有名な「船」の飾りはイギリス海軍に勝利したフランスのオマージュだというお話があります。

Chapeau à la Rose Bertin 1779

Chapeau 1779 Rose Bertin
ローズ・ベルタンデザインの帽子


孔雀の羽をのせた王妃のパフ。王妃のヘアスタイル パフ を真似る上流夫人たち。その結い上げたパフにあう帽子をデザインするベルタン嬢。

This portrait of Marie Antoinette

Marie-Antoinette


1777年から81年にかけて高さと奇抜さを競うようになります。船の模型を乗せるなどは、皆さんもご存知だと思います。高さは最高3フィート(約100センチ)ですが、ほかのサイトでは6フィート(180センチ)となっていました。

このころのローズ・ベルタンは、100年後にシャルル・フレデリック・ウォルトが「ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ(フランス・クチュール組合)」の略称「サンディカ」を創設しますが、その前身であるモード商人組合の略称「サンディック」の理事を務めています。

1774年マリー・アントワネットは王妃となりました。そのドレスもベルタン嬢のデザイン。王妃が廃位するまで作り続けます。



ローズ・ベルタン デザインのマリー・アントワネットのドレス


シャンパーニュカラーのシルク地に、精緻な刺繍が施されています。19世紀のクリノリンスタイルに合うような丸いデザインに変わっていますね。これまではコルセットとパニエでひろがりを強調していました。

1780s-corsage Musee Galleria musee de la mode de la Ville de Paris

1780年代 マリー・アントワネットの時代のコルセット


マリー・アントワネットとローズ・ベルタンの生きた18世紀はローブ・ア・ラ・フランセーズ、ローブ・ア・ラ・ポロネーズ、ローブ・ア・ラングセーズ、ローブ・ヴォラントなどの様々なローブが流行します。

course of the 18th century

ローブ・アラ・フランセーズ


コルセットで上半身を締め、パニエあるいはパニエ・ドゥブルを身につけて腰にふくらみをもてせているスタイルは、マリー・アントワネットの肖像画にもたいへん多いですよね。



パニエ・ドゥブル (C)ba-rococo.blogspot.com


パニエにはたくさんの種類がありますが、ここでは「パニエ・ドゥブル」の画像を拝借してまいりました。「18thcentury」 ではいろんなドレスが見れるのでぜひご参考に。



コルセット / ピエス・デストマ


そうしてローブ、ジュップ(ペチコート=スカート)、胸当てのピエス・デストマ(ストマッカー)を身に着けますね。こうして髪を結い上げるのですから、相当な時間がかかります。

 

18世紀の身繕い(トワレ)


映画「マリー・アントワネットにもあった似たようなシーンがありましたね。これは18世紀の女性の身づくろいを描いています。

宮廷の王妃のトワレは、ドレスサンプルから今日一日の衣装を決定します。謁見用、午後からの部屋着、そして正装あるいは仮面舞踏会用のドレスなどを。衣装係はコルセットなどのファウンデーション、絹の靴下、ネックレスなどの装飾品、扇や手袋などの小物を用意します。

この18世紀のロココのファッションに欠かせないのは、ストッキング、ハンカチ、扇、パラソル、帽子、宝石など。そして別に仮面舞踏会のドレスの用意。

Le−Grand Mogol

ル・グラン・モゴール(boutique, Le Grand Mogol)
ローズ・ベルタンの店内


ここで広げられている金色の生地。実は渋い金色となっているのですが、マリー・アントワネットの選んだ色は、大流行。「王妃の色」はアントワネットのグレーなブロンズの髪の色から、ルイ16世が呼んだ蚤の色まで貴族やブルジョワに好まれたのです。

こうした華やかなファッションを特権階級にひろげたのがマリー・アントワネットとベルタン嬢。王大子風、王妃の色とアントワネットの名称が様式にとりいれられていくのです。

フランスの農民の女性たちは過酷な生活でかたい皮膚に深い皺をもつ「28歳の老婆」と他国で言われているさなかの話しです。

記事 マリー・アントワネット フランス紀行から(アーサー・ヤング著)

英国人アーサー・ヤングがアントワネットの時代にフランスに旅をしたなかに、「28歳の老婆」のお話がでてきます。またアーサー・ヤングがみた当時の農民、アントワネットのお話を抜粋しました。




マリア・テレジア ファミリー


マリー・アントワネットはローズ・ベルタンに「パンドラ」というお人形をつくらせます。それは母マリア・テレジア、そして姉妹たちへの贈り物。マリア・テレジアはアントワネットの愚行(ファッション逃避)を諌める手紙を送っていました。

「パンドラ」は木と陶器でお人形(フィギュア)をつくり、ベルタン嬢のつくるモードなドレスを着せたもの。絹の靴下からアクセサリー、宝石、結い上げた髪、帽子や孔雀の羽など、肖像画にも描かれている全てを身につけさせたフィギュア。

これが非常に人気がでて、等身大に近いものまでつくられるようになります。

Archduchess Maria Antonia

マリー・アントワネットのフィギュア
(C)Historical Figures of France

これはローズ・ベルタンのパンドラはありません。
パンドライメージとしてご覧くださいな。
こうしてオートクチュールの世界に君臨したローズ・ベルタンも、王妃が断頭台で果てるころには亡命先でもこのパンドラなどをビジネスにしていたようですが、1795年にフランスにもどってきたころは、国もファッションも彼女の時代が過ぎた頃。

1813年、一世風靡したローズ・べルタンはセーヌ川の自宅で静かに亡くなりました。




Marie Antoinette


貴族やブルジョワの女性たちがマリー・アントワネットを崇拝したのは「モードの王妃マリー・アントワネット」だけでした。

予算を超えた衣装代。ルイ14世、ルイ15世のように、妃のほかに寵姫がいたわけではなく、このぶんに関しては王妃一人。



Marie Antoinette


ところが浪費家と陰口を言われた原因は、宮廷で出入りできる貴族の特権を無視し疎外。第3身分のローズ・ベルタンを宮廷の規則を無視して寵愛するようなアントワネットへの貴族たちの仕返しともいえるでしょう。

Queen Marie Antoinette

Queen Marie Antoinette


これまでの歴代王妃は影の存在でした。それが宮廷の光だった寵妃と同じ存在のマリー・アントワネット。

愛妾たちを道徳的に嫌悪していた王妃でしたが、寵姫にむけられるような陰口をたたかれていたマリー・アントワネット。

マリー・アントワネットは最後まで「王妃の誇り」を失わなかったといいます。

王妃の誇りを失わないアントワネットが幽閉されたテンプル塔に、ローズ・ベルタンは亡命するまで、相変わらずドレスを届けていたということです。

パリ市にアントワネットが要求したテンプル塔時代の衣装

黒いビーバーの毛皮の乗馬帽子、フィレンツェのタフタ織りの長上衣他、各数点以上、肩掛けは数百枚、及び香水と化粧品

このときのお針子の総数は3000人を要したと言われています。

引用:マリー・アントワネットの生涯 藤本ひとみ著
キャサリン・グネ(Catherine Guennec )のマルシャンド・ド・モード(モードの商人)のローズ・ベルタンに関しての著作本をお知らせいたします。

Catherine Guennec


Catherine Guennec 

La Modista de la Reina
Guennec, Catherine (Author) Viver, Nuria (Translator) Umbriel

La modista de la reina/ The Dressmaker to the Queen
Guennec, Catherine (Author) Viver, Nuria (Translator)
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私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
2010年 更新
”ポンパドゥール”で検索の皆様、ようこそ。 ロザルバ・カリエラ作のポンパドゥール夫人の肖像画、セーブル陶器を記事中間にアップしています。
 
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ディドロのお喋りな宝石 ポンパドゥール夫人
ポンパドゥール夫人の愛犬 ミミとイネスのマイセン陶器

TBありがとうございます。
記事「トワレとビデとガルデ・ア・ロー
記事「ポンパドゥール夫人の人物像 見せたくない肖像画

ではゆっくりとご覧ください。
私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
 
Carle Vanloo
The Marquise de Pompadour as a Shepherdess, circa 1760「私の時代が来た!」

平民といえども、ブルジョワ階級。貴族の子女以上の教育を受けたジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721年12/29 - 1764年4/15)。

その当時の教育は、修道院を経てからのプライベート教育です。

朗読法と芝居の演技、立ち居振る舞い、マナー、舞踏、鍵盤楽器、デッサン、銅版画、宝石彫刻にも堪能で、学芸や工芸的な教養も磨き、ヨーロッパのサロン文化を経験します。

Miniatura portretowa Madame de Pompadour by Jadwiga KISSEL-BARNATド・ランベール夫人、タンサン夫人、ジョフラン夫人、ドゥファン夫人、レスピナス嬢のパリ・サロンが有名で、ヴェルサイユ文化、芸術、学問、啓蒙を語る、上品で知的で機知に富んだ会話や議論の場を「ポンパドールなマダムたち」が開きます。

そこにジャンヌ・アントワネット・ポワソンも17歳から招かれました。

ヴェルサイユ入りをするための結婚。それは、ルイ15世の公式寵姫への道だったのです。愛人の域をはるかに凌ぐ絶大なもの。

Maurice Quentin de La Tour   Pompadour 年代不詳デティオール夫人になった彼女は、ヴォルテール、ディドロをはじめ、クレビヨン、フォントネル、モンテスキューなどを招待するようになりました。

こうして、ブルジョワの暮らしを楽しみながら、機会を待っていたのですね。

19歳でデティオール夫人となり、「セナールの森の妖精」と噂された初めての王との出会い。

狩りの女神ディアナに扮した仮装で、王太子の結婚祝賀会での再会。

ヴォルテールとポンパドゥール夫人
王太子の祝賀会で、彼女に頌歌を捧げたヴォルテール

Jean-Marc Nattier  Pompadour 左:Madame Pompadour 1752 中央:A portrait of Marchioness of Pompadour 1748年、同じようにみえる作品でもう一点がA portrait of Madame Pompadour as Dianeで、左の袖部分に違いがあります。 右:A portrait of Madame Pompadour as Diane 1746年



ジャン=マルク・ナティエの上の肖像画と2組が対になっているのではと考えさせられます。

追記 2010年にナティエの肖像画を記事にしました。上記と下記のポンパドゥール夫人にはナティエの模倣作品があることを知りました。(私、結構その模倣作品が好きです。画家の名はわかりませんが。)

記事 ジャン=マルク・ナティエ 肖像画 その2 ディアナ


A portrait of Madame Pompadour as Diane 1748この肖像画はタイトルに「ディアナ」とありますが、上の中央の肖像画は「ポンパドール夫人」です。この2枚が対なのか、あるいはこの作品「ポンパドール夫人のディアナ」(1748)と左のディアナに扮した肖像画はタイトルは「ポンパドール夫人」(1752年)とだけなので、こちらと対なのかもしれません。皆さんはどう思いますか?


24歳で、国王ルイ15世の寵愛を得て、1745年頃、ポンパドゥールの地と候爵の爵位を授与され、のちに侯爵夫人、ついには王妃つき女官に任命されます。


「国事に容喙し、国費を濫費した女」ともいわれるマダム・ド・ポンパドゥールは、美貌は国王ルイ15世、賢さは王妃に、教養は事業や芸術家のパトロンに、才気は政治に利用し、自らの地位を守り、持続させることに成功したのでした。「私の時代が来た!」というの決め台詞は、このときです。




モーリス・カンタン・ドゥラトゥールのマダム・ポンパドゥール Maurice-Quentin Delatour (Saint-Quentin, 1704 - Saint-Quentin, 1788) la francey apparait au centre la hanriade de voltaire  Encyclopedie De l'esprit des lois by Montesquieu Il pastor fido  Giovanni Battista Guarini 正:Engraving by the Comte de Caylus after Edme Bouchardon's drawing The Lapidary at Work in Pierre-Jean Mariette's Traité des Pierres Gravées 誤:Traite de Zoologie(Traite de Zoologie) Pierre.P. Grave Ю機Engraving by the Comte de Caylus after Edme Bouchardon's drawing The Lapidary at Work in Pierre-Jean Mariette's Traité des Pierres Gravées 誤:DE LA MARQUISE DU CHÂTELET guitare partitions guitare


18世紀の宮廷画家モーリス・カンタン・ドゥラトゥール(Maurice Quentin Delatour)の「ポンパドール夫人」では、球体(地球儀or天球儀)が右端にありますが、そこから左側に書物があります。

すぐ横が*ィドロ*ランベール*科全書 第4巻」です。大きな画像だとこの書物に関してはタイトルがはっきりとわかります。他3冊は資料からタイトルを確認。一番左端が、*ジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニの「忠実な羊飼い(パストル・フィードとも)」です。その次の次あたりに(左から3冊目?)がモンテスキューの「法の精神 第3巻」とヴォルテール(Voltaire)の叙事詩 アンリアード(Henriade)です。

「ディドロ&ダランベール百科全書(Diderot et dAlembert : Encyclopedie,ou Dictionnaire)」

百科全書 Encyclopedie,ou Dictionnaire


そして手にひろげているのが、ギターの楽譜。ロココ時代にはバロックギターがありました。

机の足元がポンパドゥール夫人の作品集

赤い表紙の作品集の扉にはマダム・ド・ポンパドゥールの印章の半分ほどがみえています。

These typical arms belong to Madame Pompadour and can be seen oh the cover of her books.

マダム・ド・ポンパドゥール 印章
(C)madamedepompadour.com


面白いのは、この作品の中の1枚を「Philosophiae Naturalis Principia Mathematica (プリンキピア・マテマティカ、自然哲学の数学的諸原理)」をフランス語に完訳したエミリー・デュ・シャトレの扉絵としているものやピエール・P・グラースらの「動物学提要(Traite de Zoologie)」とされているものがあるんですね。もしかしたら3500冊以上の書物にあるかもしれませんが。

wikiより引用「プリンキピア・マテマティカ仏語訳の扉絵。彼女はヴォルテールの女神として描かれており、ニュートンの発する天界の閃きを反射してヴォルテールに投げかけている。」プリンキピア・マテマティカ語訳の扉絵。彼女はヴォルテールの女神として描かれており、ニュートンの発する天界の閃きを反射してヴォルテールに投げかけている。」とされているデッサン。
その1枚というのが、書物の下敷になっている彫刻家エドム・ブーシャルドン(Edmé Bouchardon)ので、美術鑑識家「ピエール=ジャン・マリエット(Pierre-Jean Mariette)の「Traité des Pierres (石版彫刻に関する概論)」にある1枚です。彫刻やモチーフなどの書物です。

Traité des Pierres Gravées


所蔵のルーブル美術館の解説では、私が調べたものと一致していますが、上の「石版彫刻に関する概論」は、[「ポンパドール夫人彫る」とドラトゥールが署名したケイリュス伯爵の版画がとなり合って並んでおり]とありました。

この作品はルーブル美術館の解説を読んで、侯爵夫人の変わりやすい要望に応えようという試行錯誤があったとされていますが、フランスを支配するこの夫人を、文学、音楽、天文学、版画を象徴する持物に囲まれ、芸術の庇護者として描かれているだけではなく、[美術と文学のこうした典拠は、夫人の計画と読まれるべき]とありました。

ルーブル美術館より引用

国王を変え、礼儀作法と原則に凝り固まった宮廷には届かない、当時パリを活気付けていた知性、道徳、哲学、政治の並外れた発展を国王に見出させようともくろんだ。
死後にも残る肖像画には、美と知、教養、服飾や調度品の様式のほかに、[心理的な真実を表わすとともに意味も担った表現(引用:ルーブル美術館)]が描きこまれています。彼女が好んだムスクのようにいまでも残り香を漂わせている肖像画。

パリ市立ガリエラ・モード博物館のモード美術館所蔵のドレスは、この作品のドレスに似ていますよね。ビロードの風合に似たシュニール織りのシルク地のドレスです。楽譜、球体、革の装丁本、自らの作である版画のスケッチブックなど、後世に語り継がれる女性像を描かせています。肖像画にみられる羽ペンやインク壷は、レプリカで手に入れることができます。(フランソワ・ブーシェ作 下図参照)


マダム・ド・ポンパドゥールの作品集はというと・・・

made by Madame de Pompadour 右:Apollo meets the Arts (芸術にあうアポロン) 中央:ブルゴーニュ公の誕生 左:1748年、The preliminaries of the peace (平和の準備?)


engraving made by Madame de Pompadour 右:1752年、ノンタイトル 中央:(ポンパドール夫人の)版画コレクションの表紙 左:1752年、ノンタイトル


上3枚、下3枚ともエングレービング(engraving)。上の両脇(右と左)は、たぶんマダム・ド・ポンパドゥールの作品だろうと思われるもので、ほか4枚は確実です。がブーシェがのちに手を加えているような作品の記述もあります。

上の中央の作品ですが、「ブルゴーニュ公の誕生」といいます。ルイ14世の孫で、ルイ15世の父になるプチ・ドーファンと呼ばれたブルゴーニュ公ルイ。

下中央は、Pompadour と書かれているのを見ることができますね。他の作品同様に、カーソルを画像にあてるとタイトルがわかるようになっていますので参照してくださいね。



マダム・ド・ポンパドゥールは鑑賞者側にもその意図がわかるリベラル・アーツを強要しているようで、ホントもくろみの高い女性です。(苦笑)

もしかすると、このモーリス・カンタン・ドゥラトゥールのマダム・ド・ポンパドゥールの肖像画は、彼女の自由七学芸(セブンリベラル・アーツ)を象徴しているのではないでしょうか。

さて、下の肖像画がワトーにあこがれたという、快楽に奉仕する画家(メートル・ド・プレジール) フランソワ・ブーシェの作品です。

1756年「Portrait de Madame de Pompadour」 François Boucher (1703(1703)?1770(1770)) ブーシェの描いたマダム・ド・ポンパドゥール


夫人はアンシャン=レジームを批判する学者たちの「ディドロ&ダランベール百科全書Diderot et d'Alembert : Encyclopedie,ou Dictionnaire)」まで読みこなす。マリー・アントワネットは「私は退屈がこわいのです」と言っていましたが、マダム・ド・ポンパドゥールには、退屈する暇がなかったのですね。3500冊以上の書物の一部も左のポンパドゥール家の紋章つきファイリングキャビネットに描かれています。感心するのは後ろの鏡にもうつるマダム・ド・ポンパドゥールの頭部まで繊細に描いているブーシェ。

This fantastic, small desk for ladies by Van Riesenburg Bernard

Bernard Van Riesenburg (1696-1766)
ターブルシフォニエール


描かれている右側の ベルナール・ヴァン・リーゼンベルクの作品は象眼模様のシフォニエール(小さいデスク)が現在メトロポリタン美術館に所蔵されています。写真が実物ですが作品では、鍵がかかるほうが前に向けられています。 ロココ期の代表的な家具師 ヴァンデルクルーズの作品は、セーブルのプラックを使用しているのが有名。(家具にはR.V.L.C.(Roger Vandercruse La-Croix)と銘(stamp)しています。)

奥の紋章つきの書棚のうえに飾られているエンジェルとクロックはロココ調。その書棚の横が天蓋つきのベッドではないでしょうか。重量感のあるファブリックが示しているようです。足元には愛犬mimi。そのmimiのすぐ横にはマダム・ド・ポンパドゥールの作品が溢れています。そして楽譜に薔薇の花。

深井晃子さんの著作では、ブーシェは服飾デザイナーとしても一流だったと書かれていますが、19世紀の画家ホイッスラーなども肖像画の人物のドレスをデザインしていました。世紀末までは、画家が服飾をデザインすることが多かったと思います。

A head of a womanこれはブーシェのスケッチをドゥマルトー(gilles demarteau )が翻刻版画したものです。このスケッチのヘアデザインはマダム・ド・ポンパドゥールで、「ポンパドール・ヘア」とよばれるのは、こうしたヘアスタイルを流行させたわけです。(聖子ちゃんカットみたいに)

この作品の鏡の頭部とは少々異なり、丸く結ったヘアを三つ編みで囲んでいます。

このマダム・ド・ポンパドゥールの「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」は、宝石より高価である繊細な手工レースに、リボン、真珠、100以上の薔薇。[引用:名画とファッション]

リボンのエシェルに、プラチナのレースで縁取りされたドレス。左右ペアの5連の真珠のブレスレット。こうしてブーシェの作品を眺めると、この画家は天才と思えてくるのです。質感、量感の描き方でマテリアルが見えてくるのですから。

快楽に奉仕する画家とブーシェは称されていたわけですが、快楽とはロココ文化に代表される「生きる喜び」だと著書にも書いてありました。私はこのブーシェの快楽とロココの生きる喜びが同じものを指していると考えます。それは欲求の満足感。



Francois Boucher Madame de Pompadour 1758年 「化粧の間のポンパルドール夫人」


楓は「才女」に感服しているわけではありません。エティオール夫人から国王の寵后になり、そして「私の時代」を手に入れたマダム・ポンパドゥールに尊敬の念を抱きつつ、これでも満足できないというマダム・ド・ポンパドゥールの果てしなさに感服しているのです。

A cameo made of sardonyx , Jaqcques Guay (1753) Paris, The National Library of France左「化粧の間の間マダム・ド・ポンパドゥール」で作品で身につけているルイ15世 カメオのブレスレットです。1753年の作品。

カメオと縁取るのは宝石。赤い褐色は勝利と幸福をもたらすサードニックスという宝石。カメオはルイ15世の横顔です。

ブーシェの作品はフォッグ美術館ですが、こちらのジャック・ギュエ(Jaqcques Guay)の作品はフランス国立図書館にあるようです。

トワレに身に着けているコットンのエンブロイダリーレースはパリの服飾美術館にあるようです。スリーブがはっきりわからないのですが特徴のあるデザインです。ケープは透きとおっていてオーガンジー。

Toilette


実際にブーシェが描いた作品のなかの調度品はこうして現存しています。描かれた化粧台にはありませんが、赤いケースは漆塗りに金彩の模様がはいった東洋の模倣のもの。マダム・ド・ポンパドゥールはいくつか所有していたようですが、そのひとつで、手にもつコンパクト、左のメイクブラシはこのケースに収めているもの。

Francois Boucher Madame de Pompadour 1750年


1750年に描かれたフランソワ・ブーシェのこの作品で、ダム・ド・ポンパドゥールの左手がかかるところに化粧台があります。先の「化粧の間のマダム・ド・ポンパルゥール」(1758年)の化粧台と鏡のフレームが違いますが、その左手にもつアクセサリーは、もしかするとルイ15世のカメオかもしれません。化粧台の右側には、印章のあるマダム・ド・ポンパドゥールの作品集に、書物や楽譜がひろげられています。左側には愛犬mimi。お散歩にでもいくのでしょうか。右手にもつ帽子に、ドレスからちらりとみえるのは懐中時計かと思われます。



右上はMadame de Pompadour 1759年 右下のマダム・ポンパドゥールはハープシーコードに手をかけています。「François Boucher Madame de Pompadour with Her Hand Resting on a Harpsichord Keyboard」 1759年のこのポンパドール夫人は、1750年の作品と同じ構図です。 左上:左下の作品と似ていますが背景が違います。年代不詳 左下:Madame de Pompadour 1758
Madame de Pompadour
Francois Boucher


「百科全書」のマダム・ポンパドゥールの支援は、自分自身の支援。肖像画に描かせたとも思います。シュヴァリエ・ド・ジョクール、ディドロ、ダランベール、ルソー、ヴォルテールをはじめとする184人の執筆者の「百科全書」は、1754年のヴェスヴィオ火山の噴火などの図が掲載されていたり。2007年のリヒテンシュタイン美術館での特別展「ナポリとヴェスヴィオ火山」は、まさにその時代。

François Boucher Madame de Pompadour with Her Hand Resting on a Harpsichord Keyboard 1758年


1750年作のヴーシェの化粧台が8年後にはハープシーコードに変わっています。側面が象嵌模様で、ロココ調の猫足であることがわかる曲線の美しさ。そして印章つきの作品集かあるいは1756年に描かれたターブルシフォニエールの足下にある書物と同じものがみえ、天球儀か地球儀の横には望遠鏡のように長い筒状のものが二本左右にあるのがわかります。開かれた書物のページには図版も確認することができます。ブーシェのポンパドゥール夫人の肖像画に必ず登場するのがファイリングキャビネットですが、上部にある置時計は、上部を飾る置時計だと考えると、クレッサンのファイリングキャビネット を想像させます。

Madame de Pompadour in a French miniature, 1740何もない時代の「肖像画」というメディアは、時代に名を残した執筆者たちの「百科全書」に囲まれた彼女を映し出します。当時の人々はどう彼女を捉えたのでしょうね。

そのあたりもマダム・ド・ポンパドゥールは計算していたのだと思います。「狩の女神ディアナ」に扮した晩餐会のように。

セーブル陶器(Manufacture nationale de Sèvres)
ここでは、画家のブーシェ、彫刻家のシモン=ルイ・ボワゾをはじめ芸術界のアーティストがずらりと勢ぞろい。ブーシェは肖像画でもわかるようにマダム・ポンパドゥールに、そしてポワゾはポンパドゥール夫人亡き後のデュ・バリー婦人(ベル薔薇でご存知ですよね)に召還されました。

「舟形」香炉(王立セーヴル磁器製作所) 1760年頃 エヴルー邸(エリゼ宮)のポンパドゥール夫人の寝室セーブル陶器の「ポンパドール・ローズ」色がこちら。マダム・ド・ポンパドゥールが実際にいまのエリゼ宮で、寝室の暖炉の装飾に使用していたもの。ルーヴル美術館所蔵です。ロカイユ様式にシノワズリは夫人の趣味を象徴しているのでしょうか。形はジャン=クロード・デュプレシス、絵付けはシャルル=ニコラ・ドダン、フランソワ・ブーシェ「茶会」に基づいておこした版画の模写。(C)louvre/

マダム・ド・ポンパドゥールは、自身とルイ15世の名を残すことと、多くの望みを叶えるためにマース(マルス)のように進軍をすすめていきます。

そうした事業ではセーヴル窯の成功はお見事です。功績という死後もなおマダム・ド・ポンパドゥールという名を残すことができるものへ、ひたひたと進軍をすすめて行きます。

 Jean Pierre Antoine Tassaert 「Mme de Pompadour as Europe 」(1761-1762 ) ジャン=ピエール・フランク 「欧州のマダム・ド・ポンパドゥール」


シャトー・ラフィット Château Lafite
1760年、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人は、ワインで王の歓心を惹こうとします。(彼女は本当によく考えること!)ところが宿敵コンティ公に競り負け、セギュール家の広大な農園のひとつ「ラフィット」は、「ロマネ・コンティ」と呼ばれるようになったのでした。

ところが、ここが頭の使いようなんですよ。マダム・ポンパドゥール自身だけではなく、バックボーンもはるかにお利巧。リシュリュー男爵マレシャルは、ラフィットをヴェルサイユの晩餐会にすすめるのです。コンティの名がルイ15世の「王のワイン」と呼ばれることにより、農園は手に入れることはできなかったものの、「名」を手に入れることができたのです。


ポンパドゥール夫人肖像画 ロザルバ・カリエラ

ロマネ・コンティは現在シャトー・ラフィット・ロートシルト(Château Lafite-Rothschild)として所有権はロスチャイルド家にあると思われます。

サンシール レコール(エコル) Saint-Cyr-l'Écoleの模倣
サン=シール女子学院を設立したのが、先王のルイ14世の秘密の正室マントノン夫人です。ポンパドゥール夫人は貧しい子女が通うサン=シール女子学園を訪れて、ヴァンセンヌの陸軍士官学校を設立します。

ルイ14世のマントノン夫人を模倣したのは学校設立だけではありませんでした。寵姫としてではなくヴェルサイユでの生活を続けること。ルイ14世の「王の助言者 マントノン夫人」のように、国家の機密を議論する顧問会議に列席する資格を手に入れさらに進軍を進めているのです。

François Guérin 左:Madame de Pompadour and Alexandrine  右:Madame de Pompadour  個人所蔵


2枚のフランソワ・ゲランの肖像画に一人娘ファンファンと呼ばれたアレクサンドリーヌもしばらく宮廷で暮らしていた様子が描かれています。修道院先でわずか10歳に満たないまま死去。愛犬mimiも左の肖像画に描かれています。


さて、寵愛をうけるためにマダム・ド・ポンパドゥールには香りはかかせないものでした。フランスで初めての高級香水店は、1775年にオープンしたジャン・フランソワ・ウビガンの花々の籠「HOUBIGANT(ウビガン)」は、マダム・ド・ポンパドゥール(香水店オープン以前)だけではなく、かのマリー・アントワネットもご愛用。とくに香水や当時流行の香り手袋(手袋に香水の香りを染みこませた物)は宮廷で愛されました。

HOUBIGANT 1934年カタログの表紙から「花々の籠」のイラスト


マダム・ド・ポンパドゥールはウビガンのほかオード・ポルトガル(EAU de Português)、ヴェネツィアの香りなども愛用したようですが、香りとしてではなく、薬用としていたのではないでしょうか。

ジャン・フランソワ・ウビガンのファミリーは、もともと宮廷内で調剤、調香などをしていたという記憶があります。マダム・ド・ポンパドゥール、亡くなったあとの寵姫で、ジャン・マリ・ファリナのオーデコローニュ(ケルンの水)をひろめたマダム・デュバリーもウビガンを愛用した一人。

マダム・ド・ポンパドゥールで忘れてならない香りは、Madame du Hausset が知っています。「la cour parfumée」 (中庭の香水?)と呼ばれたルイ15世の香水、そしてマダム・ド・ポンパドゥールが好んだ香りです。ラ・クールは「王のオレンジブロッサムウォーター」がエッセンス。

Houbigant「Le Parfum Idéal」1900年


現代の調香師ニコラ・ド・バリーは、その香水のオマージュとして、ルイ15世、マダム・ド・ポンパドールの香りを「香水の歴史シリーズ」のひとつとして「フルール ドランジェ デュ ルイ」をつくりました。

オー・デ・コロンを愛用したのはナポレオンで、「Jean Marie Farina(ジャン・マリー・ファリナ)」のコロンを月に60本も消費した話は有名ですが、ナポレオンの后ジョセフィーヌも、ウビガンの顧客だったはず。

さて、マダム・ド・ポンパドゥール自身も調香に参加し愛用したと思われる香水は、「三重奏」(1755)です。たぶん夏から秋に咲くサルビア科のスペルバだと思うんですが。すでにムスクからフローラルへと香りを移行した頃のものでしょうか。この香水にローズを調合したようです。3つめは春に紫色の花を咲かせるビオレッタ 。そしていまではパリの老舗といわれるリュバン社。この香水は、当時蒸留業者のリュバン氏がつくられたよう。(訳に間違いがなければです。)

Flacon à parfum Porcelaine dure métal doré Allemagne, Saxe vers 1755


香りひとつを武器にしたのは、マダム・ド・ポンパドゥールだけではありません。クレオパトラ、楊貴妃がいましたね。

そしてエルジュベート(エリザベート)女王。14世紀のハンガリー王妃ですが、王妃の命によりつくられた世界最古の香水「ハンガリーウォーター(ハンガリー王妃の水)」。これが香水の原点です。香水だけではなく百薬として用いられたようです。

ポンパドール夫人から200年後のパリで、ココ・シャネルはこういっています。

「香水の選択を間違う女に未来はない」と。



左:Carle Vanloo, Les Arts suppliants demandant au Destin d’épargner la vie de madame de Pompadour 1764年 右:François Boucher Venus comforts Love


この2枚もポンパドール夫人の肖像画です。左は、この記事の一番最初に掲載したポンパドールを描いたカルル・ヴァン・ロー です。タイトルがフランス語なのでうまく訳せませんが「マダム・ド・ポンパドゥールの延命を運命に乞う芸術」だと思います。ちょうどマダム・ド・ポンパドゥールが亡くなった1764年の作品です。右はブーシェの作品ですが、マダム・ド・ポンパドゥールの肖像画には数えない1枚です。ポンパドゥール夫人がブーシェに官能的に描いてほしいと願ったもので、タイトルには夫人の名がありません。「愛を慰めるヴィーナス(愛のクピドを慰めるヴィーナス)」は1751年の作品。

ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson)は、マダム・ド・ポンパドゥールという名と補佐役を得ることができたのです。

「私の時代がきた!」

そしてポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の終焉にむかい、こう言いました。

「Apres moi le deluge」
わが亡きあとに洪水はきたれ、と。

「The Yew-tree Ball」   (Le bal des if) by Charles-Nicolas Cochin the younger

「The Yew-tree Ball」   (Le bal des if)
Charles-Nicolas Cochin the younger
シャルル=ニコラ・コシャン(子)


1745年2月24日、ジャンヌ=アントワネット・ポワソンが、デティオール夫人(エティオール夫人)として王太子婚礼の祝賀会に招かれました。王太子は植木職人に扮し、王太子妃は花売娘に仮装。ルイ15世の王妃マリ・レチンスカは仮面なしに、ダイヤモンドの王冠に、花と真珠をちりばめた衣装。国王はどこにいるのかと話題にしはじめたのは夜が深まった頃。

やがて7本の石櫧の木(いちいがしの木[文献・実証学者ジャック・ルヴロンを引用]でイチイの木と翻訳されているものもあります。)に扮した国王と6人の側近が登場。作品「The Yew-tree Ball」では左の4本と3本の木の周辺の男女が仮装をはずした国王とデティオール夫人とされています。実際にはディアナに扮したデティオール夫人を石櫧の木に扮した国王が抱きしめ、そのまま仮装舞踏場を後にしてから仮面をはずしたといわれています。

右:ルイ15世 王家の紋章服 King Louis XV of France (1710?1774) by Louis-Michel van Loo 左:王妃マリ・レチンスカ 王家の青地に百合花紋 The Queen Maria Leszczynska 

フランス王家の紋章 ルイ15世と王妃マリ・レチンスカ


ルイ15世は、利発で炯眼。ルイ14世ほどの忠臣に恵まれずに、政治には自分は傍観者の立場に徹しようと決めたとあります。もともとラモーのオペラ、観劇を欠かさなかった王は、くわえて狩りにも熱中し、政治に関心がないと烙印をおされたようです。

Charles-Nicolas Cochin the younger シャルル=ニコラ・コシャン「The Costumed Ball Held」王太子の祝賀行事でのオペラの図と同じ王太子の祝賀会です。この作品もシャルル=ニコラ・コシャンの王太子の祝賀会ですが、一番奥がオペラが上演された宮殿内の劇場があるコシャンの作品は、この図と同じに祝賀行事でおこなわれたオペラ上演の版画を作成してます。ラモーの「ナヴァラの姫君」が上演。ディドロの「ラモーの甥」のモデルは有名。

さて、王妃マリ・レスチンカは7歳年上。12年間に10人の子を産みます。謙虚で虚飾。シックな人柄とシックな生活。争いごとも好まないところから好人物と言われている王妃です。たいへんな美食家だったことで有名です。

この婚礼祝賀会の年、ルイ15世はすでに亡くなっている「フランソワーズ・ド・ポンパドゥール侯爵夫人」の名と継承者がないポンパドゥール家の名称を買い取りデティオール夫人に与えて、公式愛妾「ポンパドゥール侯爵夫人」が誕生したのでした。

さて、宮廷入りしたポンパドゥール侯爵夫人の身のこなしは完璧だったでしょうか。否です。

Francois Boucher Madame de Pompadour  1749−50年


巷に「ポワソナード」というポワソン家の戯れ歌が流行。

「大貴族は金をため、金融業は堕落し、ポワソン家はご繁盛
(略)
いとしい方がえり抜きの 美人の中の美人なら
狂気の沙汰も大目にみましょう 相手が か・か・かわいい人ならば。ところがあんな馬鹿のため (略)」
宮中だけではなく、パリ市民までもがやじをとばすほど。つまり、「ブルジョワ」の社会的地位は「貴族」の生得的地位に追いついていなかったということです。ブルジョワで貴族以上の教育を受けたマダム・ド・ポンパドゥールは、声楽・デッサン・彫刻・バレエ・演劇・語学・学業に誉れ高くとも「お嬢さん芸」のレベルだったわけです。


この作品もマダム・ポンパドゥールが作成したものです。デティオール夫人だった頃、ルイ15世がその城付近を行幸と聞くと、ファエントに自ら乗ったという逸話を思い出すような作品ですね。

デティオール夫人の少女歌劇は王にはいっさい目にとまらなかったといいます。「セナールの森の妖精」が王の目にとまったのは1年先のこと。

王妃マリー・レチンスカ(マリ・レチンスカ)の肖像画です。「ド・サイサックス夫人の消息はおわかりですか?何度かパリでお会いして愉しかった。」と王妃ははじめての会見でマダム・ポンパドールにかけられました。ポンパドゥール夫人の才気をもってしても想像つかない質問だったとありました。その後のことですが、王妃マリの賭博費用をマダム・ド・ポンパドゥールが私財から差し上げたとあります。

この初会見で、マダム・ド・ポンパドゥールは「マリ皇后陛下。陛下の御意なら、最善を尽くすことを誓います。[ジャック・ルブロンより引用]」と述べたのです。

そのとおりに、私財から賭博費を負担するなど窮地の王妃マリを救うことで、初会見での挫折感を回復したわけですね。

このマダム・ド・ポンパドールの当初の宮仕えではパリのシャンソンはこう歌っています。

才気もなければ独創性もなく 心賤しく 金銭ずくで 
おしゃべり女のいいぐさじゃぁ ポワソン家には徳がない
その才気についてはジャック・ルヴロンは「怜悧で、器用で、頭の回転がはやい彼女のことだ。(略)宮廷生活まで自家薬籠中のものにしたにちがいない。」と著書で述べています。

マダム・ド・ポンパドゥールの性質からそれははやくに実現していきます。「フランス宮廷物語」のなかでフリーライターの三品純さんが彼女のエピソード」に触れています。「王の心を支配」するという占い師の予言のことを。たぶん幼心に深く残り、デティオール夫人になってからも「予言」を信じていたのでしょう。

François Hubert Drouais 右:Madame de Pompadour  左:Madame Pompadour as a vestal

フランソワ・ユベール ドルーエ の マダム・ド・ポンパドゥール


王が何に関心があるのかを考えた行動がマダム・ド・ポンパドゥールの最初の成功です。

狩猟のほかラモーのオペラ、観劇を欠かさない王の話はさきに書きましたが、マダム・ド・ポンパドゥールは王の無聊と倦怠を慰めるために、自分の多芸多才を武器に、まずは同好会を主催し「おさらい会」を催します。王の反応は早かった。すぐに後援します。

1747年1月にヴェルサイユ宮に小劇場は開設。ラシーヌ、モリエール、スペインの音楽バレエ、新作のヴォルテーヌが上演。Les petits Cabinets(小部屋よりも小内閣 プチ キャビネット)とよばれる小部屋の劇場での初演。(楓は小内閣と呼びますよ。)

Tartuffe by Molière ,カール・ハインリッヒ・ホフ(Author: Carl Hoff )、J.ボーリン(Engraver: J Ballin )モリエールのタルチュフ(Tartufe  by Moliere)では、100年ちかく前にモリエールの恋人マドレーヌ・ヴェジャールが演じた「小間使いドリーヌ」をマダム・ド・ポンパドゥールが演じます。

セリフが決めてになるいい役についていますね。

軸になるペルネル夫人にはマダム・ド・サスナージュ、タルチュフにたぶらかされるオルゴンにはデュ・クロワッシー 、偽善者タルチュフはラ・ラヴァリエールが扮し、貴族の子弟子女が多く参加しています。

この小部屋(小内閣)でのシーズンシアターで上演されたのは、ピエール・ド・ラ・ショーセの「当世風の偏見」、デュフレニー「あまのじゃくな精神」、ダンクール「三従姉妹」、そしてルイ14世時代の寵臣ジャン=バティスト・リュリの「身をやつしたアムールたち 」を作家ルイ・ヒューズリエが脚色し、音楽はブルジョワ(トマス=ルイ・ブルジョワでしょうか)のオペラコミックは2月27日で「三従姉妹」と同じ日に上演されました。

SCULPTURE: Jean Baptiste Pigalle (1714 - 1785) LAmour embrassant lAmitié 1758年 ジャン・バプティスト ピガール の「愛と友情」という作品の足元にある花輪。1759年ブーシェのポンパドール夫人に描かれている彫像。


3月にはあの一世代まえのモラリスト作家のジャン・ド・ラ・ブリュイエール(1645-1696)のものと思われる脚本に音楽家ジャン=ジョゼフ・ド・モンドンヴィルの「エリゴーネ」、そして「当世風の偏見」が再演。

このあと1748年まで「小部屋」でのシアターは続き、いよいよ「小劇場」の誕生です。

Le petits Appartments(小劇場 プチ アパルトメント)での演劇やオペラをマダム・ド・ポンパドゥールは演じ続けています。

1749年1月23日に「小劇場」で上演されたのが「アーキスとガラテア(以前の記事)」です。絵画ではブーシェだけではなくモローでも御なじみの作品ですよね。

Madame Pompadour performs Acis et Galathée


右が観客席で左が舞台の想像図。王太子の祝賀会同様に、シャルル=ニコラ・コシャンの作品です。ガラテアはマダム・ド・ポンパドゥール、アーキスはロアン子爵、そして左上に位置している巨人ポリュフェモスはM.ド・ラ・サールです。



Charles André van Loo  チャールズ  ヴァン ルーマダム・ド・ポンパドゥールの肖像画をいくつか紹介してきました。このチャールズ  ヴァン ルーの作品はこの記事で3枚目に。

マダム・ド・ポンパドゥールが演劇でほかの人物を演じるように、ヴァン・ルーも絵画のなかで他の人物にマダム・ド・ポンパドゥールを演じさせています。

ジャン・デュクロレコーヒー豆引きマダム・ポンパドゥールの愛用品マダム・ド・ポンパドゥールの所有していた金銀細工のコーヒー豆引きです。ジャン・デュクロレに依頼。1756年頃の制作。エヴルー邸(エリゼ宮)で、1755年−57年に、金製の食器類を収集。ディドロとダランベールの「百科全書」にも項目があるコーヒーの流行。(C)louvre

さて作品の「コーヒーを飲むスルタナに扮するマダム・ド・ポンパドゥール」は、イスラム圏唯一のスルタナ(女王) のことだと思います。シャジャル・アッドゥル(真珠の樹)という意味の名で呼ばれたとありました。



François Boucher, Portrait of Marquise de Pompadour, 1759


先にもこの肖像画を紹介していますが、この作品は1759年のフランソワ・ブーシェが描いた「マダム・ド・ポンパドゥール」です。ちょうど、左奥にあるピガールの「愛と友情」の彫刻が仕上がってから1年後になります。1752年にルイ15世のコンフィダン(相談役)にとりたてられ、侯爵から公爵へと昇格。つまり顧問官会議に列席する権利を得たわけです。

寵姫から寵臣へマース(マルス)の進軍は駆け上りました。マダム・ド・ポンパドゥールの計画のとおりに。

ルイ15世が、ドニ・クレメルから借りたお屋敷を「鹿の苑」と命名したのは1755年のこと。モルフィーズ(ルイゾン・オ・ムルフィ)はブーシェのモデルを勤めた美少女。廷臣も洩らさなかったモルフィーズは来るときも去るときも、誰にも知る由がなかったといいます。

ブーシェのマダム・ポンパドゥールに描かれているジャン=バティスト・ピガール 「愛と友情」


ゴンクール兄弟(エドモン、ジュール)の説のように、マダム・ド・ポンパドゥールが女衒に身を落とし若い娘を探し出しハーレムを管理するだろうか。とジャック・ルヴロンは文献や記録類を検閲し否定しています。

ジャック・ルヴロンによると王妃もマダム・ド・ポンパドゥールも存在さえ知らなかったといいます。その後、お屋敷の用向きを知っても黙認していたとありました。

寵臣にまで登りつめて宰相のような様の夫人は、1752年のコンフイダン(相談役)、3枚のぺチコートといわれた7年戦争の外交手腕(1755~)、王妃付き女官(1756年)、王の名の残すセーヴル釜(1756年)、国王のワイン、陸軍士官学校(1756〜)と長期にわたってマダム・ド・ポンパドゥールがヴェルサイユ、ルイ15世に仕えなければならないものを用意しているのです。存在を知ったとしても鹿の苑の存在は好都合だったのではないでしょうか。

LAmour et LAmitie(C) The Walters Art Museum

ジャン=バティスト・ピガール 「愛と友情」
(C) The Walters Art Museum


この「愛と友情」がポンパドゥール夫人の願いでつくられたものですが、コンフイダンにとりたてられる前年の1751年には、すでに吐血するなどマダム・ド・ポンパドゥールは衰弱していました。コンフイダンとしてルイ15世に仕える頃はすでに愛妾ではなく、ルイ15世の最も信頼する寵臣であり、深い絆をもつ親友。楓はさらに「母」になったのだと思うのです。ルイ15世の聖母です。



セーブル陶器
ポンパドゥール・ピンク(ポンパドゥール・ローズ)


1750年11月25日にベルヴュー城が落成しました。改装ではなくすべてがマダム・ド・ポンパドゥールの手によって誕生したはじめてのシャトー。漆絵の壁面に濁った金。ヴェルベールの羽目板に室内の彩色はヴァンローにヴーシェ。彫刻、フラワーベース、調度品はピガルに、エティエンヌ゠モーリス・ファルコネ、ニコラ=セバスティアン・アダンの名工の手によるもの。猫脚の椅子、窓幕の質感に量感、額縁に至るまでマダム・ド・ポンパドゥールの総合芸術が生まれたのです。

18世紀(1700s)の調度品ですが、マダム・ド・ポンパドゥール、デュ・バリー夫人、王妃マリーアントワネットにかけて活躍したMartin Carlin ( マルタン・カルラン 1730 - 1785)ですが、マルタン・カルランはデュ・バリー夫人のご愛用が多かったと記憶。写真はルイ16世の叔母にあたる、ヴィクトワール王女、アデライド王女、ソフィー王女がポンパドゥール夫人の亡き後にベルヴュ城のために注文したものと同様のマルタン・カルラン。

マルタン・カルラン作 
この陶板はルイ15世がポンパドール夫人のためにセーヴル窯で制作


怜悧で才気のあるマダム・ド・ポンパドゥールも少々後ろめたさを感じていたのでしょうか。その落成式の日はやがて暴雨に。まるで「神罰がくだる」かのような天候。

1753年のサロンに出品されたこの2枚の絵画は、ポンパドゥール夫人がベルヴュ城のために買い上げしたブーシェの日没と日の出。現在はウォーレス・コレクション所蔵

対画 ブーシェの 日の出 日没 (ウォーレス コレクション)
ベルヴュー城の装飾にマダム・ド・ポンパドゥールが購入


1753年にはエヴール邸(エリゼ宮)を手に入れたマダム・ド・ポンパドゥール。エヴール邸のマダム・ド・ポンパドゥールの寝室の装飾に関することだと思います。

The set was accompanied by matching porcelain wall lights, a pair of candelabra, and a potpourri vase (vaisseau à mat), both now in the Musée du Louvre.ルーヴル(所蔵)の「舟形」香炉と、「泉」香炉(写真)、「イルカ」香炉(J.P.ゲッティー美術館蔵)の対、そして「枝付き飾り燭台」の香炉と「蝋受け」香炉(所在地不明)の2点からなる、暖炉の装飾セットが置かれていた。この装飾品類は、1760年5月30日に届けられ、ルーヴル(所蔵)の壁にかけるろうそく立てによって完成された。 (C)louvre/getty

Pot-pourri à dauphins dune paire

イルカ 香炉 鯱のようです。暖炉の装飾セットはいずれもシノワズリ。
絵付け シャルル=ニコラ・ドラン 

マダム・ド・ポンパドゥールの舟形香炉(ルーブル美術館所蔵)は、セーブル窯の説明ですでに紹介しておりますので、再度ご確認くださいませ。他にも9点知られています。各地の美術館に所蔵されているはず。
まもなく宛名が「ポンパドゥール侯爵夫人 ジャンヌ・アントワネット様」という1通の手紙が届けられました。オーストリア女大公でありボヘミアとハンガリーの女王マリア・テレジアからのものでした。

こうしてロシアのエリザヴェータ女帝と3人のペチコート作戦が開始されます。

左:女帝エリザヴェータ 右:女王マリア・テレジア



そうしたさなか、1757年のルイ15世の暗殺未遂事件。
「ルイよ、守銭奴の名の夫人大臣の奴隷たる汝こそ」

王の不徳儀、戦争政策の責任追及、マダム・ド・ポンパドゥールが仕切る人事、旧敵との外交革命への不満が一人の男ダミヤンに刃を抜かせたのでした。

すべては無事に窮地を脱しました。死を免れた王に、宮廷追放を逃れたマダム・ド・ポンパドゥール。

この年、マダム・ド・ポンパドゥールはベルヴュー城を手ばなし、初めての遺言書を作成したのです。そしてメナール城の着手。

Manufacture de Sèvres メナール城のために届けられた。ロカイユの形状をもつこの置き時計はポンパドゥール婦人が好んだものルーブル美術館所蔵のものです。ベルヴュー城からブレゾワのメナール城に1762年6月25日に、マダム・ド・ポンパドゥールへロカイユ様式の置き時計と一揃えとされる「葉飾りの香炉」2点、「蝋受けの香炉」2点と届けられました。「プティ・ヴェール」と呼ばれる色の地に、パリの時計職人、ジャン・ロミイーが製作し、セーヴルの磁器でできているそうです。(C) louvre
ブレゾワのメナール城はアンジュ=ジャック・ガブリエル(1698−1782年)に依頼し、1760−1765年当時の流行に合った装飾を施させセーヴル磁器の調度品を注文したとありました。

Paire de pots-pourris à bobèches de madame de Pompadour

「蝋受けの香炉」 ルーブル美術館
絵付け シャルル=ニコラ・ドダン ルイ15世のものもあるよう。

Pair of Potpourri Vases Sèvres Porcelain Manufactory  Jean-Claude Duplessis le Père  Charles Nicolas Dodin  ca. 1761

「葉飾りの香炉」 ウォルターズ美術館
絵付け シャルル=ニコラ・ドダン


こうしてみると暗殺事件があったあともマダム・ド・ポンパドゥールの威信は揺らぐことはなかったのですね。ところが3枚のペチコートの一人、エリザヴェータ女帝が急死。

1763年、やむなくフランスは屈辱的な講和に調印することになりました。マダム・ド・ポンパドゥール は、ここで戦争責任をとわれたのです。夫人の終焉のとき。

「では、この辺で。わたしを一人きりにしてください。さようなら。」

その言葉が最後でした。1764年、王族以外の夫人がヴェルサイユ宮殿で亡くなったことは、異例です。彼女の最後の願いを天は叶えたのでしょう。

参考、引用 [Copyright]
ルーブル美術館HP
ウォルターズ美術館HP
Wikipedia(English、Français)
Wikimedia Commons
Wikimedia Books
madamedepompadour.com
ヨーロッパのサロン ヴェレーナ・ハイデン=リンシュ
フランス女性の歴史 全4巻 アラン・ドゥコー
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン
フランス宮廷物語 別冊歴史読本
「Apres moi le deluge」
わが亡きあとに洪水はきたれ

庇護した百科全書の啓蒙思想と革命、7年戦争の連携によってのマリー・アントワネットとの縁組。ヴェルサイユ宮殿への洪水の前奏曲を弾いたのはマダム・ド・ポンパドゥール。

1757年、ブーシェの作品。パリのサロンでマダム・ド・ポンパドゥールの肖像画に集まる人々


こうして、マダム・ド・ポンパドゥールはノアの箱舟で天に召され、25年後の1789年7月、ヴェルサイユはフランス革命という洪水に飲み込まれたのでした。
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