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王妃マルゴ マルグリット・ド・ヴァロワ

The young Marguerite de Valois, by François Clouet, c. 1560

7歳のマルゴ 1560年
フランソワ・クルーエ (François Clouet )


「あれは、男を救うというよりは、破滅させるたぐいの美しさだ」
ドン・フアン・デ・アウストリア(ドン・ファン)を言わしめたのは王妃マルゴ。

そして1845年のアレクサンドル・デュマ・ペールの歴史小説「王妃マルゴ(La Reine Margot)」のヒロインは、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの第三王女として生まれたマルグリット・ド・ヴァロワ(1553-1615)のこと。

「マルゴ」と呼ばれました。

カトリック派の貴族ギーズ公アンリ1世との結婚を望んだマルゴですが、母カトリーヌ・ド・メディシスはドン・カルロスとの結婚を進めていくのです。

マルゴの奔放な性を云々されていた17歳の頃。



カトリーヌ、3人の王子とマルゴ


亡くなった兄フランソワ2世の妻だったメアリ・ステュアートとドン・カルロスの縁組を阻止するために、カトリーヌ・ド・メディシスは、マルゴの姉でフィリペ2世の妻エリザベトにけしかけるのですが、突然のドン・カルロスの死、姉エリザベトの死で、次の候補者に選んだのが、ナヴァル王アンリです。

二人の結婚は「サン・バルテルミの虐殺」が、この結婚の不幸を物語っています。

新教徒のユグノーたちの虐殺がカトリック派によって、数日間で4000人の犠牲者をだしたのは、マルゴとユグノーのナヴァル王アンリの結婚から5日目のこと。

サン・バルテルミーの虐殺
カトリーヌ・ド・メディシス 黒衣を纏う灰被り猫
フランスでの結婚式でナヴァル王アンリは、ギーズ公アンリによって、宮廷に監禁され改宗させられます。

Alexandre-Évariste Fragonard (1780?1850)

サン・バルテルミーの虐殺時の
王妃マルゴの寝室


ナヴァル王アンリは脱出に成功し再改宗するのですが、残されたマルゴはあとになって行幸行列で送り届けられることになります。

ナヴァル王とマルゴの縁組は、はじめから暗いものでした。

カトリーヌ・ド・メディシスはユグノーのナヴァル王の母ジャンヌ・ダルブレを、王宮での結婚交渉に招きます。

「人はあなたが小さい子供を食べてしまう鬼だと噂しています。わたくしは一度も考えたことはありませんが、その噂を証明するために、このわたくしをお招びよせになるのですか?」

法王ピウス5世、アレッサンドリノ枢機卿の反対を押し切るようなかたちで、カトリーヌ・ド・メディシスは執拗にジャンヌ・ダルブレを招きます。

ここまでしてカトリーヌの心を支配したのは占星術です。

Porträ Margaretes von Valois François Clouet, im Musée Condé, Chantilly

王妃マルゴ
フランソワ・クルーエ


コジモ・ルッジェーリの予言。
「シャルル、アンリに続いてナヴァル王がフランス王位に上るだろう」

歴史は「3アンリ」の継承争いになることも知らないで。

ジャンヌ・ダブレは密かにマルゴと会い、改宗する気持ちを確かめましたが、マルゴは改宗する気持ちのないことを伝えます。ジャンヌ・ダブレはこの結婚を中止を決めます。

ところがジャンヌ・ダブレは急死するのです。「小さい子供を食べてしまう鬼」のために。

1599年、王妃マルゴとアンリ4世は正式に離婚をすることになりました。マルゴの変わらぬ不品行をは、教皇により離婚が決まったということです。

Henry&Margot

アンリ4世と王妃マルゴ


冒頭のドン・ファンの「破滅させられる美しさだ」という言葉。デュマ(父)の小説「王妃マルゴ」で、ファムファタルで有名なサロメのようなシーンを書いています。

スタンダールの「赤と黒」でもなぞられている愛人ラ・モールのこと。

物語では、シャルル9世の謀反のかどで処刑される騎士ラ・モール(弟フランソワの従者)。王妃マルゴは、切り落とされた首を持ち帰り死化粧を施し、接吻をします。さらに翌日の王妃マルゴの奇行に宮殿内は騒然とする。
17歳だったマルゴが結婚を望んだギーズ公アンリも、マルゴの兄アンリ3世に暗殺されました。1588年のことでした。



1571年、現在でもエセーで有名なモンテーニュは、マルゴの兄アンリ3世から叙勲されました。(のちにナヴァル王の王室づき騎士としても任命されています)



王妃マルゴ


わたしの手元にエセー掘粉簀畔幻法砲あります。「自然神学」を書いたレイモン・スボンをモンテーニュは訳し、またエセーの第二巻第十二章は「レイモン・スボンの弁護」からはじまっています。

カトリーヌ・ド・メディシスが、モンテーニューに、マルゴのために執筆させたというのですね。これはナヴァルのユグノーたちへの対応のためなのでしょうか。

こうした書物に親しめるほど、マルゴは知性も高く哲学や科学、スペイン語をはじめラテン語、ギリシア語など語学にも強く、音楽に舞踏と芸術に親しむことも多かったのです。

王妃マルゴの晩年はルーヴル宮殿に近く、親しくアンリ4世ファミリーと接していたといいます。妻と夫としして、王と王妃としては暮らせなかったものの、生涯の友人として、お互いに愛情を抱けていたのですね。

お互いに多くの愛人を持ちながら。

マルゴの最後の愛人はヴィラールという歌い手。そして1615年、マルゴの死によってヴァロワ家の直系は途絶えたのでした。



Coronation of Marie de Medici 1622-24, a painting by Peter Paul Rubens  Coronation of Marie de Medici, where Marguerite (6th from the left) assisted the ceremony

マリー・ド・メディシスの戴冠式

Peter Paul Rubens
ピーテル・パウル・ルーベンス


アンリ4世と離婚した王妃マルゴ。その後も親しく交際したといわれているように、母カトリーヌ・ド・メディシスと同じメディチ家からアンリ4世に嫁いだマリア・ド・メディシスの戴冠式に、王妃マルゴも描かれています。左から6人目だそうです。

このマリア・ド・メディシスをピーテル・パウル・ルーベンスは何枚も描いていますよね。

マリア・ド・メディシスと王妃マルゴの母、カトリーヌ・ド・メディシスの結婚の対画のような作品(ヤコポ・ディ・キメンティ・ダ)があります。

こちらからどうぞ。
カトリーヌ・ド・メディシス 黒衣を纏う灰被り猫

参考:岩瀬孝著「にぎにぎしい女たち」、桐生操著「王妃カトリーヌ・ド・メディチ」、wiki
| ヴァロワ家 | 10:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
カトリーヌ・ド・メディシス 黒衣を纏う灰被り猫



Catherine de Médicis
1519−1589


ほとんど葉のないただ一本の枝が緑づく
そしてわたし(フィレンツェの意)は
恐れと希望のあいだをさまよっている
冬がそれをわたしに残すか 
それとも奪りあげてしまうかと

こう歌ったのは、詩人アオリスト。
メディチ家のロレンツォの娘の誕生を。

主要参考(引用)文献
桐生操さんの「王妃カトリーヌ・ド・メディチ」(新書館)
澁澤龍彦氏のカトリーヌ・ド・メディチ」(河出文庫)



カトリーヌの誕生は、天のさまざまな不吉な前兆が伴ったと伝えられています。

Catherine de Medici

Catherine de Médicis


月蝕のその日、空には血の色をした虹がかかり、暗闇の時刻に生まれたカトリーヌ。

当時の慣習に習い占星術師が呼ばれます。
「周囲に禍をもたらすだろう」

取り上げた産婆は言います。
「ひとおもいに首を絞めましょうか」と。

Catherine de Médicis

Catherine de Médicis


16世紀のフィレンツェの大富豪メディチ家に誕生したカトリーヌ。彼女の数奇な運命に、壮絶に、そしてとても真摯に生きた影を背負うフランスの王妃となりました。

6歳の頃までは後見人 クレメント七世によって、初恋の従兄弟イッポリト、大嫌いな義理の兄弟アレッサンドロと、メディチ宮で暮らしていました。

カトリーヌ・ド・メディシスの誕生前後のウルビーノに関しての記事があります。カトリーヌの父がウルビーノ公となった経由とその死によって反乱に至る理由が示されています。ボッティチェッリの「東方三博士の礼拝」の画像の前後にありますよ

記事「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ 小書斎」 神曲 地獄編の子孫
ところが1527年、メディチ家の独裁に反乱を起こし、8歳のカトリーヌは反乱軍の人質としてムラーテ尼僧院に置かれたのでした。そこでは愛され、教育され、そして静かに暮らしていたのです。

1530年、11歳の頃のこと。

反乱軍が人質の小公女カロリーヌを引き渡せと夜の静寂が破られたのです。それはフランスのフランソワ1世の第二王子との政略結婚を望んだことに阻止するため、反乱軍は扉をたたいたのでした。

反乱軍の心中ではサンタ・ルチア尼僧院に護送する目的の裏で、娼家に売るか、城壁に吊るすかなどど画策しているところです。

La regina Nera Caterina dè Medici

Caterina dè Medici


11歳のカトリーヌは、このとき誰かの尼僧の黒衣を纏い、長すぎる裾を引きずりながら連れてこられました。

きっとカトリーヌの知恵に違いない。

反乱軍は尼僧姿のこの少女を馬に乗せ、あるいは民衆に誤解を与えないだろうかと考えてます。いいえ、目的の裏で画策されている陰謀が果たせないのです。

カトリーヌは馬に乗り尼僧院を後に、そして新しい尼僧院へ向かいます。道中揶揄が飛び交う中を。

同じ年頃の王女や公女が歌を歌い、昔語りを聞き、お人形を抱いている間、カトリーヌは戦争を知り、敬虔な教育と家庭に仕える教育を受け、子供と思えない社交性と話術を身に付けます。

こうして暗く静かに大人しく時を過ごしている間、いよいよフランスヴァロワ家に嫁ぐことになったのです。

カトリーヌはそこに安住できるのでしょうか。



アンリ2世とカトリーヌ


メディチ家特有のぎょろりとした眼に大きく薄い唇。ただ自分に対してなされる善悪をこれほどよく感じ取れるものはいないのです。第6感と五感が磨き上げられているカトリーヌ。カトリーヌ・ド・メディチはカトリーヌ・ドメディシスとフランス流に呼ばれます。

夫となったアンリ2世と愛妾ディアーヌ、7年間不妊だったその時期も耐えるほどの覚悟がカトリーヌにはありました。心のよりどころは占い、予言、錬金術。

朝食はアンリ2世と愛妾ディアーヌの3人。ディアーヌに親切に接し、表舞台を彼女に任せます。

オーペスピンは書いています。
「空に太陽と月があるように、モンモランシーとディアーヌがこの王国で絶対権力と握っていた。前者は王冠に、後者は国王その人に。」

新王妃カトリーヌはわずかな王室費。名目だけの王妃を長い間忍びます。灰被り猫(シンデレラ)のように。

Catherine de Medici by Francois Clouet

Catherine de Médicis


薬屋、銀行家と陰口をたたかれ、おまけに毒殺者の汚名。最初の毒殺嫌疑は王大子フランソワ。それでもカトリーヌは耐えて、上機嫌に明るく微笑みながら話術で人を魅了していくのです。

心の中は絶望だけれど。

7年の不妊のあと、13年間は産褥の床に過ごすことになります。10人を出産し、7人が生き残ります。そこには4人の王子。

1552年、カルロス5世との宣戦布告がなされました。アンリ2世の出陣によって摂政権がカトリーヌに委任されます。調印のときにディアーヌの差し金で、共有の申し出を大臣が唱えました。

カトリーヌのその言葉、人々にとって晴天の霹靂です。

「これまで摂政権を共有するようなことはありませんでした。この勅書はわたくしに手許にしまっておいたほうがよいでしょう。公表することは国王陛下の妻としてわたくしが当然有していると認められている権利を、高めるより低めるようなことになりかねませんから。」



Catherine de Médicis


従順なお人よしのカトリーヌの役は終わり、ようやくフィレンツェ メディチ家の血が目を覚ましたのです。

ラファイエット夫人の小説「クレーヴの奥方」では、カトリーヌは次のように書かれています。

「王妃の男勝りの気性では、国王の配属として高められる地位を楽しんでおいでのようだった。ヴァランチノワ女公を陛下がご寵愛になることも一向気になさらないようで、嫉妬の色を少しもお見せにならない。しかし、この方はいつも本心を奥深く包んでいる性質だから、本当のお気持ちまで察しるのは容易なことではなかった」

澁澤龍彦氏は次のようにカトリーヌの性質を書いています。

「カトリーヌは極端に内向的な性質で、嫉妬や屈辱の情をこらえ、ぎりぎりまで鬱積させていたのだった。たまに堰を切って爆発すると側近の腰元や侍童を鞭打つようなサディスティックな行為に出る。」



Catherine de Médicis con il figlio re Carlo IX, Margherita detta "Margot", Enrico duca d'Angiò e Francesco Ercole duca d'Alençon. 1561



カトリーヌの育った王子、王女たちは7人。

フランソワ2世は1556年、かのスコットランド女王メアリ・ステュアートと結婚。クロード・ド・ヴァロワは1559年、ロレーヌ公シャルル3世に嫁ぎます。エリザベート・ド・ヴァロワは1559年、フェリペ2世の3人目の王妃となります。シャルル9世は1570年、ハプルブルグ家のエリザベート・ドートリッシと結婚。

マルグリット・ド・ヴァロワ(王妃マルゴ)は1572年、ナバラ王子アンリ・ド・ブルボンと結婚します。カトリーヌの4番目の王子フランソワ (アンジュー公)はイングランド女王エリザベス1世との結婚がすすめられてましたが1584年死去。アンリ3世は1588年暗殺されました。

Valois Tapestry

ヴァロワ家 タペストリー ディティール クリックで全体像に。
中央の黒衣がカトリーヌ、左は夫アンリ2世、愛妾ディアーヌ


さて1552年の摂政権から、カトリーヌは政治の舞台に登場することになりました。1557年、アンリ2世とカトリーヌを交え、作戦計画が検討されます。

ところが、わずか5時間の戦いでフランス軍は全滅し、モンモランシーは捕虜になります。国王不在の王妃カトリーヌ。王妃は何をしたのでしょう。

アルマン・パシェの記録を要約します。

パリは恐怖のるつぼ 市民は逃走
戦いで国王は不在 王妃は何をしただろう?
13日の黒一色の大行列
パリの助力を請うために、王妃は喪服で姿をあらわす。
税金に課税せず30マンリーヴルの金貨を集めに。
市長を前にとうとうと述べた王妃

嵐のような拍手の中で、王妃とパリはひとつになった。
王妃と市民は共に泣く。
アルマン・パシェは続けて、「懇願に来たのがあの淫売婦(ディアーヌ)なら結果は全く違ったものになっただろう。」と述べています。



アンリ2世とカトリーヌ ディティール


王妃はこのパリ市民とひとつになった感情を思い出すことはあったのでしょうか。

修道院から嫁いだ「ラ・フィーユ・トゥートゥ・ニュ(着の身着のままの少女)」のカトリーヌ。後ろ盾もなく彼女一人の腕にかかっている宮廷での運命。

アンリ2世との結婚式に、国民の歓呼が自分に向けられていたあの日。

「わたしは今からこの人たちの国の女になろうとしているのだ。ああ、どんなにわたしはこの国民たちを愛するでしょう。そして国民たちもわたしを愛してくれますように。わたしが祖国を忘れるように、わたしがイタリア女だということを忘れてくれますように」

The Marriage of Catherine de Medici and Henri II 1533

アンリ2世とカトリーヌの結婚式 1533年


なんとカトリーヌの言葉。なんて可愛い少女。

それが愛を踏みにじられ、奪われ、枯れて、黒衣に身を纏うカトリーヌになった。愛することと愛してもらうことは、大きな力と意味があるのですね・・・。

生まれたばかりの何の罪もない時から禍をもつと囁かれたのは、カトリーヌが陰謀をささやかれるという運命を告げていたのではないでしょうか。

「周囲に禍をもたらすであろう」は、「周囲から禍をうけるであろう」なのかもしれません。

Catherine de Médicis, reine de France (1519-1589)- vers 1556

Catherine de Medici


さてカール5世(カルロス5世)とアンリ2世の戦争は、結局1559年に、カトー・ガンブレジスの和議が結ばれました。

このためアンリ2世の妹 マルグリットをサヴォワ公へ嫁がせ、娘のエリザベートはカール5世の長男フィリペ2世との結婚を取り決めました。

イタリア・スペインはハプスブルグ家一色。フランスは国内の異教徒撲滅に目を向けることとなります。

けれど、カトリーヌは和議を唱えたモンモランシーが癪にさわる。彼女のイタリアへの夢がもうみえないのだから。そのモンモランシーへの不満をアンリ2世はたしなめます。

居合わせた愛妾ディアーヌは、王妃を慰めるふりをして後を追います。

フランソワ・クルーエによるディアーヌ・ド・ポワチエ(Diane de Poitiers)

フランソワ・クルーエによる愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ
(Diane de Poitiers)


王妃カトリーヌは本を手にしていました。「何を読んでいますの、陛下」とディアーヌ。

王妃カトリーヌは、結婚から24年間にわたった「友人ごっこ」に幕を下します。

「この王国の歴史ですわ。いつの時代にもピュタン(辻君)が、政治の実権を握っていたことのあるこの王国の・・・」

王妃がはじめて「辻君」とディアーヌを侮辱したのです。

1559年の宮廷は、戦争の和議、王妃のディアーヌへの反乱、目前にせまる二つの結婚式と、そしてアンリ2世の死が重なったのでした。



Catherine de Médicis


1599年5月26日にルーブル宮に布告が張り出されました。

「来る6月28日より野試合が行われる。我と思わん者はふるって挑戦せよ。」

馬上槍試合です。

カトリーヌ・ドメディシスの直系である豪華王ロレンツイオの弟、ジュリアーノ・ディ・メディチ(1453−1478)の馬上槍試合は有名。

過去記事 ちょっぴり触れています。
ボッティチェリ 至福の花々 (サンドロ・ボッティチェッリ)
カトリーヌは、このジュリーアーノ・ディ・メディチの兄「不運なピエロ」と呼ばれたピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチが祖父になり、父ロレンツォ2世・デ・メディチは、ニッコロ・マキャヴェッリの「君主論」が献上されたという華やかな一族。

ところが、アンリ2世には占星術師と預言者が、7年も前から「槍試合」を不吉と忠告していたのです。

当時有名な占星術師ルカ・ガウリコは1592年に警告しています。



「メアリ・ステュアート、ノストラダムスとカトリーヌ・ド・メディシス」
Anna Rimbault-Borrel


メアリ・スチュアート(1542−1587)は4歳の頃からアンリ2世のもとで暮らし、カトリーヌの第1王子の皇太子フランソワと1558年に結婚をしています。

この歴代に名を残す二人の王妃に挟まれているのがノストラダムス。なぜノストラダムス?。フランソワ2世ではなくて?この作品はいったい何の場面なのでしょう。

このノストラダムスもアンリ2世に予告をしたのです。

ノストラダムス「諸世紀」
若き獅子は老人に打ち勝たん
いくさの庭にて一騎打ちのはてに
黄金の檻のなかなる双眼をくりぬかん
酷き死を死ぬため二の傷は一とならん

臨終したアンリ2世。しきたりどおりにディアーヌは城を後にしなければなりません。アンリ2世より20歳年上だったディアーヌ。

カトリーヌと結婚した国王と実権を握り、カトリーヌをおとなしい灰被り猫(シンデレラ)のように扱かった長い愛妾生活。カトリーヌがディアーヌの全財産の返却を求め、投獄し抹殺したとしても誰も驚くものはいないのです。

カトリーヌはなにも要求しませんでした。シュノンソー城は別として。ディアーヌには財産もそのほかの城も与え、ただ永久に宮廷の門を閉ざしただけだったのです。

chenonceau

占星術などが行われた女王館
(シュノンソー城の塔)


ノストラダムス(ミシェル・ド・ノートルダム)を、カトリーヌは呼び寄せました。生きている4人の息子の未来を占うために。

「三人の息子は一つの玉座に座るだろう」

そして、占星術師コジモ・ルッジェーリは不思議な鏡を使うのです。(参考、引用した本にはルグジエリとだけありましたが、同一人物です。)

カトリーヌが見たもの。息子の顔。

最初のフランソワ2世が映し出され、一回転をしたまま消えました。シャルはル9世は13回転。アンリ3世は15回転。第四子のエルキュール・フランソワのかわりにブルボン家の王子の顔が見えたのです。

Michel de Nostredame

Michel de Nostredame


のちにノストラダムスはシャルル9世の常任侍医兼顧問任命されましたが、2年努めただけで1566年にこの世を去りました。

この頃、フランス宗教改革はルターから次第にジャン・カルヴァンの影響を受け、カルヴァン主義のユグノーたちが、この宮廷を目指して動きはじめているという噂が広まりだしたのです。

カトリーヌの努力もむなしく、メアリの母方のギーズ一族が指揮をとり、ユグノーの公開処刑を決定します。

川口篤訳
神は優しく恵み深きかな
御恵みもて我らを祝福し給わい
尊きみ姿もて 我らに光を与え給ふ

ユグノーの処刑者たちは、フランソワ1世お気に入りだった詩人クレマン・マロの訳した「詩篇」を合唱

この処刑日からカトリーヌに対する中傷が大きくなります。それは国王自ら列席するならわしに、幼いシャルルまで連れてきていたからなのです。

Un matin devant la porte du Louvre by Édouard Debat-Ponsan

「聖バルテルミーの大虐殺」 1880
Édouard Debat-Ponsan


プロスペル・メリメ(1803-1870)の「シャルル9世年代記」には、主人公青年士官メルジーが旧教徒、新教徒が争うこの時代の歴史小説を書いています。歴史の記録ではないことをつけ加えて抜粋します。

「予を怨む者がなきように,ひとり残らず殺すべし」とシャルル9世。
「血はセーヌ川に向かって四方から流れ来たり」

メリメの創作だからこそ、サン・バルテルミーの虐殺が伝わってきます。

改革派とカトリックの融合のために、カトリーヌはナバラ王アンリ(アンリ4世)とマルグリット王女(王妃マルゴ)を縁組させました。この1572年の8月17日の二人の結婚式から5日後に起こったのです。



 San Bartolomeo by Giorgio Vasari虐殺の首謀者はカトリーヌ・ド・メディシスと囁かれました。シャルル9世、ギーズ公とも言われていますが。

1563、あるいは1564年のこと。フランドルの新教徒の反乱。万一に備えた傭兵は、ユグノー撲滅という噂がひろがり、ユグノーたちはモンソーの離宮に滞在するカトリーヌとシャルル9世を奪い取ろう、三都市を占領しようと進軍してきたのです。

シャルル9世が味わった恐怖とカトリーヌの屈辱的な逃避行は、ユグノーへの憎しみを生みました。

[ジョルジョ・ヴァザーリ作 サン・バルテルミー]



そしてガスパール・ド・コリニー提督。カトリック派に対して残虐な仕打ち。

せっかくのナバラ王アンリとマルグリットの縁組を無駄にするような、スペインに開戦することを強硬に主張します。コリニー提督が亡き者になればと思うのはカトリーヌだけではありません。

カトリック派、ギーズ公もです。そこに陰謀があったのでしょう。でも陰謀より運命によって虐殺されることもあるのです。つまり陰謀より先に。

犠牲者の数は3,000〜4,000人。このなかにコリニー提督も含まれています。

結婚でこの地にいた花婿ナバラ王アンリは、捕らわれてカトリックに改宗されてしまいます。

この2年後、シャルル9世は亡くなりその王位をめぐり「3 アンリの戦い」が、シャルルの弟アンリ3世、ナバラ王アンリ、ギーズ公アンリにより争われました。



Caterina de' Medici
by Claude de Valois


カトリーヌは、陰謀に巻き込まれたのか、生まれたときの予言のように、周囲を陰謀に巻き込ませたのかわかりませんが、占星術を含めて魔術や毒薬にずいぶんとのめりこんだようです。

人の生贄をつかったことが、澁澤龍彦氏の「世界悪物語」にもありましたが、どこからの引用文献かが載っていなかったので、残念。

とにかくこの記事を書くにつれ、カトリーヌの息が詰まりそうな堅苦しい性格に辟易もしましたが、美や芸術を愛する趣味など、カトリーヌに関心を持つことができました。

魔術、毒薬のほかに、芸術を愛するカトリーヌ。やはりメディチ家の人間ですね。

芸術家を保護し、祝典や豪奢な音楽界を催し、ルーヴル宮に美術品の数々を蒐集した。
リモージュ焼き 、陶工ベルナール・パリッシーの陶器も収集していたようですが、このシュノンソー城では、調度品などはりプレカだということです。

王妃カトリーヌは見かけによらず、たいへん華美を好んだようで、主催する饗宴も、侍女たちにニンフや神話の女神の衣装を身に着けさせたという徹底ぶり。



シュノンソー城 王妃の寝室


カトリーヌらしい寝室。夫とディアーヌの寝室を模倣したとも言われています。豪腕の士師サムソンの生涯を描いているタペストリーは左にあるのですが、この写真では見えていません。不思議に左のある絵は、本来アンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレの寝室右にかかる絵です。そしてカトリーヌの寝室で有名なのがコレッジョの「愛のおしえ」です。↓ この作品ですね。


wikiによると、カトリーヌ・ド・メディシスの緑の書斎は、ティントレットの「シバの女王」、「ドージエの肖像」、ヤーコブ・ヨルダーンス「象牙色のムシトリナデシコ」、ゴルシウスの「サムソンとライオン」、ジャン・ジュブネの「商人を寺院から追い払うイエス」、プッサンの「エジプトへの飛翔」、アンソニー・ヴァン・ダイク「子供と果物」などがあるそうです。


カトリーヌが図書室として使用していた部屋には、バッサーノの「聖ベネディクトの生涯」、コレッジョの「殉教者」、ジャン・ジュブネの「ヘリオドール」があります。

ディアーヌの寝室だった部屋にはムリリョの「聖母子」、リバルタの「脱衣するキリスト」、「王妃カトリーヌ・ド・メディシス」の肖像画などが壁にかかっているようです。

Jean Baptiste van Loo. ジャン・バティスト ヴァン・ロー

フランソワ1世の寝室
愛妾シャトールー、ヴァンティミユ、マイユ
Jean Baptiste van Loo
(ジャン・バティスト ヴァン・ロー)
「三美神」 ディティール

Diane by Francesco Primaticcio

フランソワ1世の寝室
ディアナに扮したガブリエル・デストレ
by Francesco Primaticcio 1504-1570
(フランチェスコ・プリマティッチオ)

Salon François 1er

フランソワ1世の寝室
Allegorical portrait of Diane de Poitier
ディアナに扮するディアーヌ・ド・ポワチエ
フランチェスコ・プリマティッチオ



ガブリエル・デストレの寝室
フローレンス派 聖セシリア




こうしてみるとフランソワ1世の壁にかかる作品がわたしの好み?かも。

フランソワ1世は「美女のなかの才女、才女のなかの美女」が好きで、王妃カトリーヌも大変目をかけてもらったのです。

ヴァロワ朝は、カペー朝(現在のスペイン ブルボン家の祖先)から直系男子がいないため、1328年ころに成立しました。1380年頃、国王の死去にともないイングランドとの敗戦を重ね、いよいよフランスがイギリスの国になろうかと危ぶまれていたときに、かのジャンヌ・ダルクの活躍でヴァロワ家のシャルル7世が正式に即位することになったのです。

フランスのジャンヌ・ダルクは、このヴァロワ家の存続の力だったわけです。

Jean Auguste Dominique Ingres: Jeanne d’Arc au sacre du roi Charles VII, dans la cathedrale de Reims, 1851

ドミニク・アングル
「シャルル7世の戴冠式のジャンヌ・ダルク」


その後のヴァロワ本家はの跡継ぎがなく、ヴァロワ=オルレアン家、そしてフランソワ1世のヴァロワ=アングレーム家に交代したのです。

つまりフランスでよき王フランソワ1世の皇子アンリ2世と結婚したのがカトリーヌ。そしてカトリーヌの3人目の息子のアンリ3世までで、断絶したのは嫡流で、カトリーヌの娘「マルガリータ(王妃マルゴ)の元夫アンリ4世が、スペインブルボン家として国王となったのです。

ヴァロワ家の終焉はカトリーヌ王妃が生んだ子供たちで終わり。嫡流となったヴァロワ家には、のちにブルボン家に嫁いだマリー・アントワネットの首飾り事件で有罪になったのがジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ。



マリー・アントワネット


マリー・アントワネットが結婚式当日に、ルイ15世から贈られたのは、このヴァロワ家の王妃カトリーヌと、王女メアリ(のちに2度目の結婚で断頭台に消えます)の宝飾品。

占星術師コジモ・ルッジェーリの鏡をのぞいた王妃カトリーヌ。そこに最後に映し出されたのはブルボン家だった。

カトリーヌはフランスに嫁いだときに「この国の女になる」という言葉がありましたが、彼女にとってフランス、そしてフランス宮廷は愛すべき存在になったのでしょうか。

ヴァロワ家にかわって未来にブルボン家が継ぐことを知っていたカトリーヌ。

不幸にもフランスを愛していなければ、ブルボン家への恨みとともに、「わが亡きあとに洪水はきたれ」とポンパドゥール夫人よりも200年はやく唱えていたのかもしれません。

魔術、黒ミサの王妃カトリーヌですもの・・・。

Nozze di Caterina de’ Medici

Nozze di Caterina de’ Medici 1600年
「カトリーヌ・ド・メディシスの婚礼」
Jacopo di Chimenti da Empoli
ヤコポ・ディ・キメンティ・ダ(1551-1640)


中央の二人がカトリーヌとオルレアン公アンリ・ド・ヴァロア。その二人の間にいるのがカトリーヌの叔父クレメンス7世。カトリーヌの後ろにはアンリとの縁組の間に預けられていた叔母マリア・サルヴィアーティ。そして結婚後にカトリーヌに目をかけてくれるスランソワ1世は、左端にいます。

この製作年が1600年。カトリーヌ(1519−1589)とアンリ2世の結婚式の集団肖像画が結婚70年ほど経て描かれたわけです。

不思議です。カトリーヌの死後描かれたわけですね。

同じく1600年のマリア・ド・メディチの婚礼肖像画と対画のような作品です。奇しくもカトリーヌの娘「王妃マルゴ」(1553ー1615)が離婚したために、アンリ4世に嫁ぐカトリーナの遠縁です。

カトリーヌ・ド・メディチの義兄弟アレッサンドロ・デ・メディチが同一族ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)によって暗殺されたあと、コジモ1世(メディチ傍系)が跡を継ぎます。

フィレンツェを支配していたメディチ家の頭首の最後の子孫がアレッサンドロとカトリーヌで、同族でもマリア・ド・メディチ(1573−1642)はコジモ1世の孫にあたります。

Marie de Medicis marriage

Nozze di Marie de' Medici 1600年
「マリー・ド・メディシスの婚礼」
ヤコポ・ダ・エンポリ


これはたぶん対画で、カトリーヌはヴァロワ朝の終焉を象徴し、マリー(マリア・ディ・メディチ)はスペイン ブルボン朝の幕開けを象徴し、フランスの王朝が交替したことを描いているのではないでしょうか。しかも、二人ともフィレンツェのメディチ家からのお嫁入り。

こちらの集団肖像画に描かれている中央は、カトリーヌの娘で王妃マルゴと呼ばれたマルグリットの元夫、アンリ4世といいたいところですが、代理婚礼の場面なので、叔父のトスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチと花嫁マリーです。

左の人物たちが非常に興味深いです。トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ・の妃 クリスティーヌ・ド・ロレーヌです。カトリーヌの娘、クロード・ド・ヴァロワが母になります。つまりカトリーヌの孫なんですね。付き添っているのがまだ少年のコジモ2世・デ・メディチ。

Claude de Valois

クロード・ド・ヴァロワ

このクリスティーヌの母クロードは、妹のマルグリット(王妃マルゴ)がアンリ4世に嫁ぐ時には、危険だと忠告していたのです。(wiki)
右側はメディチ一族です。

まず中央で代理のトスカーナ大公フェルディナンド1世は、マリーの両親を毒殺したという疑いをもたれている人物です。最近になって砒素による毒殺であることは解明されたようですが、真犯人はいまだ不明です。

一番右端に描かれているのがドン・ジョヴァンニ・デ・メディチ(Don Giovanni de'Medici 1563-1621)は、コジモ1世の愛妾エレオノーラ・デッリ・アルビツィ(Eleonora degli Albrizzi)から誕生したドン・ジョバンニ。軍事指揮と外交官を務めた人ですが、画家、建築家の才能があったようです。戯曲や物語、音楽などで有名はドン・ジョバン二は正妻の早世した息子です。

Isabella Romola deMedici

イザベッラ・デ・メディチ


パオロが自分を暗殺しようとしていたことを察して、パリにいたカトリーヌ・メディチに助けてくれるよう手紙をだしています。
その隣はドン・ヴィルジーニオ・デ・メディチ(Don Virginio de'Medici 1572-?)です。ヴィルジーニアの父パオロに殺害された母イザベッラ・デ・メディチは、いまでもかつての古城に幽霊として現れているそうです。共犯に、トスカーナ大公フェルディナント1世の名が挙がっています。のちにパオロも暗殺され、ヴィルジーニオがブラッチャーノ公を引き継いでいるはず。

一番奥がドン・アントニオ・デ・メディチ(Don Antonio de'Medici 1576-1621)。毒殺されたフランチェスコ1世と愛妾(のちに正妻) ビアンカ・カッペッロのいわく付きの息子。フランチェスコ1世は妃を袖に、ビアンカ・カッペロを正妻のように扱った人で、ビアンカは男の子をなかなか産むことができず、ほかの女性が産んだ子を自分の子としたという説もあります。



ディアーヌの寝室にある王妃カトリーヌの肖像画


ドン・アントニオは、狩を好み演劇、芸術を愛し、錬金術や科学的関心が高く、ガリレオ・ガリレイを招いたりしています。いわくつきのメディチ家の子孫ながら、一番メディチ家らしいふるまいが多かったようです。

こうしたメディチ家の特徴を示す人物が描きこまれていますが、カトリーヌがささやかれた黒い噂となんら変わりません。

さて、ノストラダムスの予言のとおり、フランソワ2世、、弟シャルル9世、アンリ3世が「玉座に座る」ことはできました。

フランソワ2世の頭部切開を拒否したカトリーヌ。フランソワ2世は死に、シャルル9世は精神を病み、カトリーヌに毒殺されたとも言われますが、サン・バルテルミーの虐殺のあとの呵責に耐え切れず、全てを病み、衰弱して亡くなりました。

そして玉座に座るアンリ3世は、カトリック同盟に属するドミニコ会修道士ジャック・クレマンに暗殺され、ヴァロワ家直系が断絶。結局「三アンリの戦い」で暗殺されずに生き残ったスペインのブルボン家アンリ4世が王位を継ぎます。

占術師コジモ・ルッジェーリの不思議な鏡が映し出したとおり、ブルボン朝の時代となるのでした。



Antoine Caron  Musée du Louvre

パンティエーヴル公コレクション(ランバル公妃の義父)
Musée du Louvre(ルーブル美術館)
タペストリー連作「アルテミシアの物語」より「請願書」

素描:アントワーヌ・カロン(Antoine Caron 1521–1599年) 

カルトン(下絵):アンリ・ルランベール(1545年頃–1608年)とロラン・ギオ(1575年頃–1644年以降)
ルーブル美術館にあるカトリーヌ・ド・メディシスを称えるタペストリーだそうです。

作品解説 引用:ルーブル美術館
アルテミシアの物語は、小アジアにあったカリアの2人の王妃の生涯に着想を得ている。ひとり目のアルテミシアは前5世紀の王妃で、その行いと息子のリュグダミスの教育で知られる。もうひとりのアルテミシアは前4世紀の大守マウソロスの寡婦であり、夫への貞節の証として、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟という類を見ない陸墓を建設させた。これは古代世界の七不思議に数えられる。壁掛けは44の題目で構成され、 大守マウソロスの盛大な葬儀と、摂政アルテミシアの見事な統治と息子の教育を表している。新たに織られる一連のタピスリーはそれぞれ、大抵注文主の関心に応じて選ばれたいくつかの主題で構成されたため、葬列が優先されたり、摂政政治が優先されたりした。このタピスリーは第2のまとまりに属し、王妃が柱廊の前で、自分が指差す息子と共に使節を迎えている。
これは、パリの碩学ニコラ・ウエルがカトリーヌ・ド・メディシスの栄光を讃え、長編詩を献じたそうですが、アルテミシアに、王妃カトリーヌ・ド・メディシスを例えているということです。
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