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マザリネットのマンチーニ姉妹

このヴェルサイユ宮殿では、マリー・マンチーニ(マリー・マンシーニ)とルイ14世の企画があったようで、そのポスター(チラシ)がいままで見たものよりとってもお上品で素敵。

ルイ14世展の記事はこちら
太陽王ルイ14世展
その記事にちなんで
ルイ14世 球体に描かれた肖像画
ルイ14世 御伽の国から夜伽の国へ

それでは前回の記事の続きです。



マザリネットと呼ばれた五人姉妹。いま手元に参考になるものがないので、wikiから引用要約させていただきます。

wiki マリー・マンチーニより
フランス王ルイ14世の愛人。ジュール・マザラン枢機卿の姪にあたる。ローマで、ミケーレ・マンチーニとジェローラマ・マザリーニの三女として生まれた。姉にラウラ、オリンピア、妹にオルテンシア、マリア・アンナがいる。愛妾ではなく、結婚を望むことを宰相に告げた。マザランと王太后アンヌ・ドートリッシュはマリーにコロンナ家の公子ロレンツォ・オノフリオとの縁談を承知させ、1661年にイタリアへ嫁がせた。この二人の悲恋はジャン・ラシーヌが「ベレニス」(Bérénice, 5幕悲劇、1670年)の第5幕に台詞を取り入れた。生涯二人は会うことはなかった。マリーは回顧録を執筆。フランスで出版。彼女の子孫にはポーリーヌ・ボナパルトの夫であるカミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼ侯爵がいる。

マザランの姪マンチーニの五姉妹はwikiでわかります。末のマリア・アンナは元帥の甥と結婚し宮廷にも出入りができるほどでした。また詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌのパトロンでもあったそうです。



Mazarinettes


左がマリア・アンナ、中央がマリー、右がオルテンシアです。「マザリネットの三姉妹」で1660年頃の作品。作者不詳です。

さてモンテスパン侯爵夫人と黒ミサに関与したといわれている次女のオリンピア。モンテスパンはフォンタンジュ嬢、オリンピアはラ・ヴァリエール嬢の毒殺の疑いがもたれています。ラ・ヴァリエール嬢の修道院への逃避はこうしたものから逃れたかったのかもしれませんね。

こちらは→ オルテンシアとマリーで、ヤコブ・フェルディナン ヴォエ(Jacob Ferdinand Voet)の作品。


この作品は2枚ともマリー・マンチーニ(マリー・マンシーニ)です。画家はヤコブ・フェルディナン ヴォエです。

ルイ14世の初恋の相手としてはもうご存知でしょう。ノーベル賞受賞ハロルド・ピンターの妻アントニア・フレーザー(Antonia Fraser)によって「Love and Louis XIV」で二人の関係を取り上げています。

さてラ・シーヌの「ベレニス」に二人の場面が第5幕第5場にあるとwiki にありましたが、なにもこの場面だけではありません。

モリエールたちによって演じられた「ベレニス」は、オルレファンの侯爵夫人が秘密で国王とマリー・マンチーニの恋の物語をマダム・アンリエット・ダングルテールがコルネイユとラ・シーヌにつくらせたようなんですね。

弟王の妃ヘンリエッタ・アン・ステュアートのフランス名と同じ呼び方の侯爵夫人の依頼。ジャン・ラシーヌは1670年に発表したこの戯曲を悲劇に仕立て上げました。




肖像画「マリー・マンチーニ」1661年
ヤコブ・フェルディナン ヴォエ


物語はローマ皇帝ティチュス(ティトゥス)とパレスチナの女王ベレニスに置き換えています。ベレニスは異邦人のためローマ皇帝とは結婚できません。

この物語全体が二人をモデルにしたもので、もしかすると第5幕第5場の台詞が実際に使われていたのでしょうか。

わたしとしては、次のシーンがこの悲恋そのものだと思っています。

第4幕第5場

「わが義務のため身を引いてほしい。」
「あぁ、いまさら・・・。ああ私は愛されてるとばかり思 い込んでおりました。」

どうですか。



肖像画「マリー・マンチーニ(マリー・マンシーニ)
 コンスタンティン・ネッチェル(Constantin Netscher)


このコンスタンティンが描いたマリー・マンチーニは回顧録を書いた頃なのでしょうか。品の良いお顔立ちの貴婦人に見えますね。

マリーは1665年に夫婦関係が破綻し、イタリア国外で暮らしていたといいます。その生涯を終えたのは76歳のときでした。



さて五人姉妹のなかでもルイ14世のお手つきではないのですが、彼女ものちに宮廷の愛妾となるのが四女オルタンス・マンチーニ(1646-1699)です。

多くの愛人をもち愛妾となった英国のチャールズ2世とも関係を絶ったあとまで友人として保っていたといいます。気質、性質的に王妃マルゴと似ています。

 

「オルタンス・マンチーニ」
Hortense Mancini, duchesse de Mazarin
ヤコブ・フェルディナン ヴォエ(Jacob Ferdinand Voet)


結婚相手は富豪の一人であるアルマン=シャルル・ド・ラ・メイユライエで、オルタンスはマザランの遺となったマザラン邸や絵画コレクションを相続します。このあと結婚生活が破綻し、妹のマリー・マンチーニが嫁いだイタリアへ向かいます。

オルテンシア(Ortensia)と呼ばれたオルタンス。紫陽花のこと?



「オルタンス・マンチーニ」1671年
Sir Godfrey Kneller


この肖像画の画家はクリスティーズで蔵書のオークションでも有名な作家ジョン・イーヴリンの肖像を描いた人なんですよ。この堂々とした。かっこいいですね。

オルテンシアはバイセクシャルで男装も好んだそうですが、絵画作品には見当たらない。残念。でも寓意画のような作品を発見しました。



「オルタンス・マンチーニ」
ヤコブ・フェルディナン ヴォエ 年代不詳


トルコのスルタンを思い出すような寓意画ですね。

オルタンスは嫁先から逃げ、ルイ14世が保護者となってオルタンスはオート=サヴォワへ城で、作家や哲学者、芸術家を集めパトロンとなります。優雅ですね。

wiki によると「剣と銃を携える彼女の冒険談が、ヨーロッパ中のいたるところに伝わるほど有名だった」とありましたが、この様子は絵画作品になっていました。



「オルタンス・マンチーニ」
ベネット・ジェンナリ Benedetto Gennari the Younger


いつものように画像は大きくなります。(たまに外れていることもありますが)

この作品からわかるように、どれ〜だけスッゴイ冒険談、いえ武勇談だったんでしょ!!!ジャングルにでも行ったのでしょうか。虎狩とか。

オルタンスはさっそく回顧録を書き始めます。自分を正当化するためにってありましたが、回顧録や手紙があてにならないと思うのは、自分もお手紙なんかはちょっぴり気取って書きますからね。



「オルタンス・マンチーニ」
(C)Elizabeth Goldsmith


あのリニャック夫人の家系ポリニャック伯ピエールの息子レーニエ3世は、オルタンス・マンチーニの子孫にもあたります。

とっても華やかで貫禄のあるオルタンスは54歳で自宅で静かに亡くなったようです。





肖像画「ラウラ・マンチーニ」
Laura Mancini


おだやかで寛容的な雰囲気ですね。マザリネットと呼ばれた姉妹の長女。オルスタンは公妾タイプですが、このラウラは王妃タイプだと思いませんか。

アンリ4世の孫に当たるヴァンドーム公爵ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンと結婚しています。ブルボン家に嫁いだのですね。

彼女は3人目の子を産んで亡くなっています。末のマリア・アンナ ブイヨン公夫人が引き取っています。

ヴァンドーム公爵は再婚しなかったとありますから結婚生活もきっと幸せだったのでしょうか。幸せとは長続きしないものですね。



末っ子の五女マリア・アンナ・マンチーニ(マリア・アンナ・マンシーニ)はしっかりものという気質をうかがわせます。



「女性狩猟家 マリア・アンナ・マンチーニ」
Maria Anna Mancini
(C)Sotheby's


サザビーズのオークションの1枚。こんなに美しいマリア・アンナ・マンチーニ(1649-1719)の肖像画(見比べてください)は希少です。もっと値をつり上げてもいいくらい。そして購入したほうがお得な気もします。

ただタイトルが「女性狩猟家」とあるところはオルスタンを思うところ。

でもこのうつくしさ。ほかの作品からはなかなか見えてこないので、ホント希少。

マリア・アンナ・マンチーニはブイヨン公モーリス・ゴドフロワ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(テュレンヌ元帥の甥)と結婚し、宮廷にも自由に出入りができる身分。

長女ラウラが亡くなって、ヴァンドーム公爵は枢機卿になり、教会に入ることになったとき、彼女はラウラの子を引きとって育てます。

詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌのパトロンになるなど寓話的な詩が好きだったのでしょうか

スキャンダルが見あたらない長女ラウラと五女マリア・アンナ。次女の毒殺事件の嫌疑のときには姉妹ともいえど毅然と反オリンピア派となって地位を守るところなど、確実で的確な判断ができる人であったと思いました。



1679年、オリンピアはラ・ヴォワザン(Catherine Voisin )に頼み・ヴァリエール嬢の毒殺を図ったと告発されます。

フランス語名はオランプ(Olympe)。

妹のマリー・マンチーニがルイ14世と別れたあとにお相手となったんでしたか?


オリンピア(1638- 1708) は、1680年に宮廷から追放されます。弟王の妻アンリエット・ダングルテール(ヘンリエッタ・アン・ステュアート 1640-1670)と親交がありましたが、オリンピアが追放のときにはヘンリエッタは亡くなっています。

こうした事件のあと、オリンピアはブリュッセルへ。wikiでは音楽家のピエトロ・アントニオ・フィオッコとアンリ・デマレのパトロンになっています。

反オリンピアの立場をとった五女マリア・アンナとは関係が絶たれたようですが、三女マリー・マンチーニ、四女オルスタン・マンチーニとスペイン、英国を旅したとあるのでこの二人とは縁はつながっていたようです。

なぜンテスパン侯爵夫人に寵愛が移っている最中、彼女はラ・ヴァリエール嬢を毒殺する理由があったのでしょうか。

1669年、ラ・ヴァリエール嬢はシャイヨの聖母訪問会女子修道院に身を寄せた時期でもありました。

誰が告発したのでしょう。

彼女は70歳まで生きていました。黒ミサの守護のおかげでしょうか。



マザランの姪でマザリネットと呼ばれたのはマンチーニ姉妹だけではありません。マルティノッツィ姉妹がいます。



ラウラ・マルティノッツイ(ラウラ・マルティノッジ)
年代・作者不詳


ラウラ・マルティノッツィ(Laura Martinozzi 1639-1687)は1655年モデナ公及びエステ伯アルフォンソ4世と結婚しています。彼女の肖像画はたいへん少ないです。

1662年にアルフォソン4世は急死し、ラウラの摂政のもとに2歳の息子が即位しています。アルフォソン4世の祖父の従兄弟に、ンパドゥール夫人の肖像画に描かれている「忠実な羊飼い」の作者であるョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニのパトロンだったアルフォンソ2世・デステがいます。

信心深く厳格だったラウラ。娘のマリーアはイングランドのジェームズ2世妃 となっていますが、彼女の結婚式でイングランドに同行したおり、息子フランチェスコ2世は実権を握ります。

名誉革命でマリーアとジェームズ2世(←ダイアナ元妃は子孫)一家を保護していたルイ14世は、ラウラの息子 フランチェスコにずいぶんと口出しをしていたようです。

ちなみにオルスタン・マンチーニはジェームス2世の兄チャールズ2世の公妾でした。ルイ14世の弟王の妻ヘンリエッタ・アン・ステュアートは彼らの妹になります。





アンヌ・マリー・マルティノッジ(マルティノッツイ)
作者不詳


アンヌ・マリー・マルティノッジAnne Marie Martinozzi 1637-1672)はフロンド側のコンティ公アルマンとマザランが和解した証として結婚。

前記のとおり妹はモデナ公妃となったラウラ。マンチーニ姉妹は従姉妹になります。

息子のルイ・アルマンは、フランス王ルイ14世と、寵姫ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールの娘マリー・アンヌ・ド・ブルボンと結婚します。

1685年、天然痘に感染したマリー・アンヌからルイ・アルマンもうつされ、ルイ・アルマンは亡くなります。

アンヌ・マリーの第2子がフランソワ・ルイ(1664年-1709年)で、第3コンデ公となります。このコンティ公フランソワ・ルイはたいへん宮廷での人気が高い知的な好青年であったことから、ルイ14世は好ましく思っていなかったといわれています。



アンヌ・マリー・マルティノッジ
?コンスタンタン ネッチェル Constantin Netscher?


wiki によるとアンヌ・マリーは夫アルマンが1666年に急死後、修道院にはいり、二人の息子は伯母と伯父に引き取られ、もっとも高い教育を受けたとありましたが、ラウラのように夫が急死してもその後を継ぐ意思はなかったのですね。

幼い子供たちと別れて暮らす辛さはなかったのでしょうか。

それとも修道院入りしなければならない背景があったのかもしれませんね。

ちなみに伯母というのがロングヴィル公爵夫人アンヌ・ジュヌヴィエーヴのことです。ラ・ロシュフコー公と恋に落ち、彼のためにフロンドの乱で指導的な立場になりますが、のちにラ・ロシュフコーに裏切られ、夫アンリと共にルーアンへ向かいます。その人に育てられたのはどちらのルイだったのでしょう。



マザリネットとよばれたマザランの7人の姪。
どなたの生き方が一番好きだったでしょうか?
| 太陽王のヴェルサイユ | 20:37 | comments(3) | trackbacks(2) | pookmark |
秘密の正室 マントノン侯爵夫人
思いがけずに巡りあった中島実穂さんの「マダム・ド・マントノン: ルイ一四世と冠のない王妃」(文芸者)という1冊。

ドラマティックに装飾されずに、マダム・ド・マントノンの生涯を伝記として伝えたいという著者の冷静な視線を感じる1冊で、非常に丁寧に描かれています。

本日の記事「マノントン侯爵夫人 ルイ14世と冠のない王妃」は、中島実穂さんの著作からも、要約させていただいております。

はじまり、はじまり!



マントノン夫人
フランソワーズ・ドービニェ(1635-1719)


フランソワーズの洗礼父はあの、箴言集のロフシュコーの従兄弟でした。

祖父はカルバン派プロテスタント作家で、父のほうは監獄と縁があり、またカトリックの娘と結婚を決め、「良き風俗の破壊者で、家の名誉を汚すもの」として、相続人から名を消されています。

それゆえ、フランソワーズは「カトリックの娘」とよばれました。

宗教上の祈祷の違いなどを教えたのは叔母アルテミスでした。フランソワーズはプロテスタントの叔母アルテミスに育てられることになったのですが、フランソワのカトリックの洗礼母で、その母親二オール総督夫人のもとに引き取られることになります。

家族の崩壊。

それはフーケ(デュマの三銃士ダルタニャンに逮捕されたお城のフーケ)の父が援助してくれたおかげなのですが、結局、遠い島に取り残され途方にくれた境遇となるのです。



マントノン夫人 1685年

「無冠の王妃マントノン夫人 ルイ十四世正室の回想」
(表紙に使用されている肖像画)
マントノン夫人自身の回想も書かれています。
著:フランソワーズ・シャンデルナゴール  訳:二宮フサ

家族から離れどこにも逃げ場がない娘。それがフランソワ。のちのマントノン夫人です。

フランソワはウルスラ派・カトリック女子修道院で教育されました。つぎは規律の厳しいパリのウルスラ修道院。

フランソワーズは自分の身の振り方を考えなければならない境遇。フランソワーズが修道院から逃れ生きていく方法は、ひとつ。

カトリック教徒として聖体拝受を得ること。

それは貴族階級のカトリックの娘としてこの世に生きていける資格を得られるわけなんです。

フランソワーズの両親を知っているというド・ヴィレルモン夫人に会ったときも、喜ぶべき偶然か、恥ずべきことなのかもわからない。ところがそういった境遇でも、時代の寵児ポール・スカロンと出会うきっかけをつくってくれたのです。
ポール・スカロン マントノン夫人の最初の夫



スカロン夫人(のちのマントノン夫人)


その詩人で喜劇作家の「文学サロン」でポール本人に見初められ結婚をします。この9年間、ポールの病気で「処女妻」だったというらしいマントノン夫人。

それでもつかのまの安息。

発病したポールでしたがパリで開くサロン。明日生きるためにも困っていたフランソワにとっては、ブルジョワ層、貴族たち、そして知的な会話にも恵まれます。

ニノン・ド・ランクロ、ルイ14世の公妾マリー・マンチーニ、ダルブレ元帥、スウェーデン王妃クリスティーヌ。

ところが、1660年にポールは亡くなり、家庭教師などをしていましたが、アンヌ太后が亡くなると同時に寡婦年金もなくなります。

また貧しさに耐えなければならない。

この頃フランソワーズは秘密の恋も経験します。
それは中島実穂さんの本から読んでくださいな。

 painted by the Villarceaux Marquis

スカロン未亡人 1664年
40歳まで処女という説は否定されます。
マントノン夫人の秘密の恋が発見された絵 
ヴィラルソー侯爵の作品


親しい交際を続けるダルブレ伯爵は、細々とした生活のフランソワーズに思いがけない出会いを与えてくれました。

先日招かれたダルブル伯爵邸での出会い。

美しく誇らかな物腰で、大輪の花ピオニーのような人 。モンテスパン侯爵夫人だったのです。

ただ見とれて、一言も話さなかったフランソワーズ。それなのにモンテスパン侯爵夫人はフランソワーズの年金が打ち切られる話を聞き、国王に引き続き支払われるようお願いしたことが伯爵から知らされます。
モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス
なんとしてもモンテスパン侯爵夫人にお礼を表したい!



モンテスパン侯爵夫人とその子供


フランソワーズがモンテスパン侯爵夫人とルイ14世の秘密養育官になったのは1669年。1670年のルイ・オーギュスト(メーヌ公爵)の出産にあわせてでしょうか。

そして1674年には、モンテスパン侯爵夫人はルイーズ・マリー・アンヌを出産します。モンテスパン侯爵夫人の寵姫就任の宴もこの年に開かれていますが、国王の公妾だったド・ラヴァリエール嬢がカルメル修道院にいくのを決心するのもこの年。

ルイズ・ド・ラヴァリエール ルイ14世の菫の貴婦人
そしてルイ14世はフランソワーズの働きぶりに20万リーブルという報酬を与え、マントノン城を購入するように呼び出したのもこの年のことです。

そして「侯爵夫人」という称号も。

Francoise dAubigne (1635-1719) Marquise of Maintenon and her Niece

マントノン夫人とその姪


1672年ルイ・セザールの誕生の頃。1673年にルイーズ・フランソワーズ、そしてルイーズ・マリー・アンヌと続き、1678年にルイ・アレクサンドルが誕生しています。この年にはフォンタンジュ嬢が、ルイ14世の新たな寵姫として加わっています。

宮廷での養育官となったのは1673年前後?

公妾は何人もいるルイ14世。飽きられると無視をされ、新しい寵姫に夢中になるという国王。

ルイ14世は、飽きられたルイーズが修道院に何度か逃げ込んだときに体裁を考えて連れ戻したとありますように、飽きた公妾を追い出すことはなかったようですが、新しい公妾が加われば、針のむしろに座らせるような苦しみを自然に与えることは当たり前で、そういった女性に対する繊細な気配りにかけた国王だったんだなって思います。

ここが光源氏と違うところでしょうか。(笑)

Françoise dAubigné, Marquise de Maintenon

マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ


こうした時期に宮廷入りしたマントノン夫人が仕えたモンテスパン侯爵夫人は、国王の寵愛を独占したいため、愛の妙薬の黒ミサ事件がもとで逆に愛想が尽きてしまうのです。

絶対王政時代のルイ14世。

その面目を考えて行動できる公妾がいなかったんですね。マントノン夫人の間までに。

ルイ14世の孫のルイ15世。その愛妾ポンパドゥール夫人はマントノン夫人に倣ったというのは、国王を支える力だったんです。

マントノン夫人の肖像画の書物をご覧ください。ポンパドゥール夫人は肖像画にも利用したのでしょうね。

私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
マントノン夫人は、これまでの愛妾とは違う国の体面も保てる女性として、王妃がなくなったあとに公の結婚ではなく、秘密結婚として公妾ではなく「公ではない正室」となったのです。



マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ


ところが・・・。(笑)

王妃の失態、モンテスパン侯爵夫人の黒ミサに続き、失寵はなかったものの秘密正室マントノン夫人もキエティスム(クワイエティズム)事件をおこしちゃうんです。

もともとマントノン夫人はプロテスタントの家に生まれ、カトリックの洗礼を受けという奇遇な宗教の運命をたどっています。

フランスの宗教はカトリーヌ・ド・メディシスによって、ユグノーのサン・バルテルミーの大虐殺があり、そのあとの王妃マルゴの夫アンリ4世(この人はプロテスタント、カトリックと何度も改宗してますね)によって「ナントの勅令」(プロテスタント(ユグノー)などの新教徒に対してカトリック教徒とほぼ同じ権利)を発令します。
カトリーヌ・ド・メディシス 黒衣を纏う灰被り猫
そしてルイ14世は・・・。

1685年、フォンテーヌブローの勅令によりこの「ナントの勅令」を廃止(フランス革命の遠因)したわけです。



マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ


キエティストとして知られる神秘家たちによって、キリスト教哲学「キエティスム(静寂主義)」に影響されます。

マントノン夫人はあんなに信仰を嫌い、尼僧を嫌って修道院を「聖体拝受」で逃げ出したのに、宗教陪審委員会の議長を務めたり、宮廷では黒衣とロザリオ、そして聖書を持ち歩く聖女になっています。(ルイ14世の性欲を避けるためでしょうか?)

作家ギュイヨン夫人によって、マントノン夫人、フェネロン大司教(Francois Fénelon)などのカトリック派を改宗させました。

これは当時にとっては「異端者」だったわけなんですね。

思慮深いマントノン夫人。どうしたことでしょう。

そしてフォンテーヌブローの勅令による「ナントの勅令の廃止」は、マントノン夫人が黒幕とも言われています。



マントノン侯爵夫人(ディティール)


公妾モンテスパン侯爵夫人は黒ミサで、私正室マントノン侯爵夫人は異端者で、ルイ14世の身辺はスキャンダルで忙しい〜。

フランスの華やかな悪徳者に対して、フランスがもっとも嫌う陰鬱な美徳者。国民から愛されたモンテスパン侯爵夫人は前者で、国民からは愛されなかったマントノン侯爵夫人は後者です。

ほら、戯れ歌が聴こえますよ。
みせかけの信心、偽善、信仰心
そしてイエスズ会の聖職者
フランスにはこんなのがいる、いる、いる
老マントノンのおかげでさ!
(意訳:楓)
マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」、「美徳の不幸」なんて極端すぎますが、フランスの風潮を巧くタイトルに組み合わせているって思うんですね。



ルイ14世とその家族 1710-1715
by ?ニコラ・ド・ラルジリエール(Nicolas de Largilliere)?

右が息子ルイ(グラン・ドーファン)、左が孫ルイ(ブルゴーニュ公)
その椅子にルイ14世、ヴァンタドール夫人とルイ(ブルターニュ公)
壁後ろの彫像だと思われるのがアンリ4世とルイ13世らしいです。


穂蜜の正室マントノン侯爵夫人は、「その家族」に描かれていません。ルイ15世の養育係りヴァンタドール夫人が描かれています。王室にとってはマントノン夫人は結局愛妾だからでしょうか。
ルイ14世  唯一の信仰 唯一の法 唯一の王
ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻
ルイ14世 芸術への愉楽
ルイ14世  コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言
モンテパス侯爵夫人は、サン=ジェルマン=アン=レーに領地を買い求め、貧民層、高齢者などを受け入れる施設の施療院を創立しました。のちに19世紀の画家モーリス・ドニが買い求め、現在はモーリス・ドニ美術館になっています。



マントノン侯爵夫人


マントノン侯爵夫人は、サン・シール学院(Saint-Cyr-l'École)を設立しました。サンシールの乙女たちと呼ばれた、貧しい貴族の娘たちの全寮制の学校です。

1715年8月30日に、ルイ14世の臨終に立ち会うことなく、無冠の王妃(秘密の正室)マントノン侯爵夫人は、ヴェルサイユをあとにします。

サン・シール学院で余生を送るため。

扉を開くとヴィルロワ将軍が万感を胸に秘め立っていました。

「アデュー(永遠にさようなら)、将軍」とマントノン夫人はつぶやきました。心のなかで、ルイ14世になんとお別れをしたのでしょうか。

罪あるものの娘として生まれ、宮廷で日陰の王妃となり、最後は身を寄せる場所もあり、静かですが、1719年に84歳で亡くなりました。

ここまでの参考(引用)
wiki
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン
マダム・ド・マントノン: ルイ一四世と冠のない王妃 中島実穂




この作品タイトルは、「マントノン侯爵夫人とブルゴーニュ公爵夫人(Duchess of Bourgogne)」となっていました。

ルイ14世の孫ブルゴーニュ公ルイと結婚したマリー・アデライード・ド・サヴォワ(1685-1712)でしょうか。

そうすると王太子妃となっているはずなんですが。

ルイ14世の孫の嫁が甘えているのでしょうか。なんとも不可解な作品を「LIFE」でみつけてしまいました。

ラ・ボーメル(La Beaumelle) によると、「マントノン夫人は時期というもの十分に捉え、それを表に現さずにおく力をもった人であった。」 と表現しています。

そのとおりで、マントノン侯爵夫人がスカロン未亡人だった頃の不倫も、紹介した絵が発見されなければわからずじまいだったはず。

回想録や歴史作家など、日本書紀のように政治的意図が絡んでいる場合もあるので100%信用していません。

また当人による回顧録や手紙、日記など、王室や貴族(日本でもそうですが)に生まれたなら、「後に残るもの」としての小さい頃から教育されます。

ですから、この場合も100%信用していません。

火のないところに煙は立たないので、絵画や文学、あるいは一般人の日記も読んでみると面白いことが残っています。

ただこれも100%信用していません。

でも、ラ・ボーメル(La Beaumelle) の、「マントノン夫人は時期というもの十分に捉え、それを表に現さずにおく力をもった人であった。」というのは、彼女の生い立ち、最初の結婚からみて、十分に納得できる言葉の力を含んでいます。

ポール・スカロン マントノン夫人の最初の夫
ここでもsai は「計算高い女性」と記事本文に書いていますが、モンテスパン侯爵夫人の子を養育するにも、たいへんな苦労があったと思いますが、母親より信頼されるよう手なずけたり、母親より献身的であるように努めたり、画された計算が時期というものを十分にとらえて成功していった女性ではないでしょうか。

残念なことに、マントノン夫人が養育した国王の嫡子、庶子には徳を備えた人は育たなかったようです。


ルイ14世の秘密結婚の相手として、公妾と違う立場を貫いたマントノン夫人。公妾の立場となれば、新しい公妾が入城すると、モンテスパン侯爵夫人のようにいつまでも嘲笑いに耐えているわけにもいきません。

衣装、装飾品、ヘアスタイルもこれまでの公妾と全く違い、黒衣にロザリオや聖書を見に付け、ヘアスタイルはシニヨンで上品な仕上げをし、濫費、政治の口出しなどで騒がす、彼女たちとは違う「格」を強調します。

それは「シック」と「教育」でした。

マントノン侯爵夫人の手紙の要約

「もしわたくしたちがこの少女たちを教育するのに保護者然としているのなら、その将来は期待できないでしょう。忍耐こそ大切です。わたくしの努力がほかの誰かに拡がるなら、そのためのお世話や仕えることになんの席槽もないことでしょう。」
「マントノン夫人によるサヴォワの王太子妃教育」(マリー・アデライード・ド・サヴォワのこと)では、1枚目の作品の二人がマノントン夫人と王太子妃ならば、なにかマントノン夫人が訴えている教育とは違う気がします。


マントノン侯爵夫人の書簡

マントノン夫人の書簡からの抜粋と要約
王女の立場において決して党派的であってはなりません。
むしろさまざまな方法で平和をつくりださねばなりません。
国を愛しなさい。
その支えである貴族を愛しなさい。
民衆を愛しなさい。
その所領地を守り抜き、仕えの人を愛しなさい。
豊かになりなさい。しかしなりすぎてはいけません。
そして両親を愛しなさい。
フランスだけがあなたの祖国であるべきです。
フランスを愛する姿はフランスもあなたを愛すでしょう。
あなたに救いを求める請願には誠意を示しなさい。
その奉仕は真の償いのおこないなのです。
マリー・アントワネットの女官長だったら国が滅ばなかったかもしれません。

最後の行に「奉仕は真の償いのおこない」とありますが、これまで懺悔に値するものがあれば善行を行えば浄化されると信じられ、宮廷や貴族の国民への援助や慈善事業は、死するときに罪なく天に召されるためにと行われていたんですね。

マントノン夫人の書簡からの抜粋と要約

神への畏れは知恵のはじまりで、神への愛は律法の充足に値します。

世俗の書物(最初の夫ポール・スカロンの本も含めているのでしょうか?)は倣慢を養い、それがひろがるにつれ女性には有害となるでしょう。

人は不幸なことに簡単に悪徳の手におち、そこから離れにくくなります(マルキ・ド・サドの悪徳の栄えのようですね!)。

聖書は教会を象徴し聖職者を敬愛し貴人を守ります。区別なく不幸な人を助け、寛容で美徳と積むように語りかけます。

全き幸福などを期待してはなりません。そういうものはこの世にはありません。(そのとおりですね!

宮廷にさえないのです。

結婚のなかに全き安らぎを期待してはなりません。もっとも善き人というのは、優しさと忍耐で他人のことを悩み受けとめうる人のことです。自分の従属をおもてに出さずに従順であり続けるのみです。
さて、この手紙。キエティスム事件で「異端者」扱いされたあとでしょうか。そしてアンリ4世のナントの勅令を廃止したあとでしょうか。

もしも、キエティスム事件でルイ14世が勧誘されられていたら、フランスの宗教と政治はどうなると思いますか?

モンティスパン侯爵夫人の「愛の妙薬」より、はるかに国を滅ぼす可能性があったため、本来はモンティスパン侯爵夫人を凌ぐスキャンダルに成りかねなかったのです。

でも、これも宮廷で封印されたわけですね。



「わたしは自分の欲望に限界をつけることは決してないでしょう。」

この欲望とはマントノン夫人の強い意思を言っているのだと思われます。

生まれた時から彼女の理想と違う運命を歩んできたマントノン夫人。前妻とその愛人を殺しただけではなく、放蕩を続けた父のために、家族は迷い、身寄りのない娘が、修道院から逃げ出したい一心で聖体拝受を受け、身体の不自由な作家と結婚をし、宮廷に縛られた一生。

でも、どこにいてもマントノン夫人の強い意志は損なわれませんでした。理想は違っても。

最後に、わたしはこの人は秘密結婚ではなく
ほんとうのフランス王妃の座を狙っていたと思っています。


参考(引用・要約):LIFE/ルイ14世の世紀(ヴォルテール)
| 太陽王のヴェルサイユ | 22:38 | comments(3) | trackbacks(2) | pookmark |
モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス



モンテスパン侯爵夫人
ピエール・ミニャール


ルイ14世の侍従長ガブリエル・ド・ロシュシュアールがモルトゥマール公爵に昇爵したのが1663年です。

ルイ14世の愛妾ラ・ヴァリエール嬢が国王の子を産んだ年のこと。

昇爵したモルトゥマール侯爵の娘で、王妃の侍女フランソワーズ・アテナイスがモンテスパン侯爵に嫁いだのもこの年です。

アテナイスは、「殿方は気が多いものです。何ほどのことはありません。王妃が健康なお子さまが恵まれますよう私もいっしょに祈ります。」と励ます機転の利く侍女。

アテナイスのもともとの婚約者は決闘で亡くなり、嫁いだのがその兄弟モンテスパン侯爵ルイ・アンリ・ドゥ・パルダヤン・ドゥ・ゴンドランでした。



モンテスパン侯爵夫人
カスパル・ネッチェル(Caspar Netscher)


アテナイスも1663年に、長女(12才で夭折)を出産しています。

アテナイスの美しさは咲き誇る薔薇のように華やかな印象を与えます。金髪の巻き毛に青い大きな目、ふくよかな曲線美は、夫にも周囲にも魅力をふりまきます。

私はとくにアテナイスの洗練された会話や振る舞いが、いっそうの魅力になったのだと思います。

北のフランドル戦場にむけて宮廷の移動がはじまります。そのときに王妃の侍女アテナイスに目をむけていた国王。アテナイスもその視線を感じていました。

野心家のアテナイスは国王の寵姫の座を狙っていたのです。

1665年には夫との間に男の子が誕生します。ラ・ヴァリエール夫人も国王の子を出産。



モンテスパン侯爵夫人
アンリ・ガスカール(Henri Gascard)


この頃のアテナイスは宮廷で噂のラ・ボォワザンを訪れるのです。たぶんですね、この時代の宮廷での賭博と黒ミサは同じように愛好されていたんです。

最初は呪文、あるいは護符だけだったと思われます。

はじめは可愛い恋のおなじないだったのでしょう。皆さんも思春期の頃に恋の御まじないをしませんでしたか?

その結果は!

1666年、フィリップ1世 (オルレアン公)に招かれた舞踏会で、国王と踊る機会を得ることができたのです。

1667年のフランドル戦争の戦地に国王と同行する侍女の名に連ねることができました。ラ・ヴァリエール嬢の名がないこのは私の勝利、いえ御まじないの勝利だったのでしょう。

この年には国王との子を産みます。



モンテスパン侯爵夫人と三美神
ピエール・ミニャール (Pierre Mignard)


1674年には、公式の寵姫就任の披露宴が祝典として開かれました。

また、人を唖然とさせたマタニティのガウン(罪なき者)をデザインをするところなど、相当な自信家で、自分の考えや好みがはっきりした女性でもあったのでしょうね。

王はコルベールに命じ、モンテスパン侯爵夫人の城を建設させることにしました。ここのヴィーナスの館とよばれたクラニー城(現在はありません)

モンテスパン侯爵夫人のクラニー邸では賭博の出入りが多く、とくにランスクネとよばれるトランプが好まれたようです。

「クリスマスの日、モンテスパン侯妃お一人で70万エキュも失われました。」

たいしたものですね。

王はとくにモンテスパン侯爵夫人には、寛大でした。
「他人の目を惹く余興は多いに結構」といって。



モンテスパン侯爵夫人とその子供 1675年
アンドレ-シャルル・ブール
(Andre-Charles Boulle,1642-1732)


ですが王妃を軽んじる言動に対してルイ14世は・・・。
「王妃が主人だということをわきまえ忘れぬよう。」と諌めることもあったようです。

寵姫就任の翌年の頃でしょうか。一時クラニー城に身を引くよう乞われた時期もあったようです。

友人で未亡人だったスカロン夫人(のちのマノントン夫人が養育係りでした。モンテスパン夫人と国王の隠し子の秘密養育官。

この頃の平均的な労働者の年収は400リーヴル。スカロン夫人はモンテスパン侯爵夫人のとりなしで、年収2000リーヴルを与えられました。

モンテスパン侯爵夫人が公妾となって、ヴェルサイユに20のアパルトメントを持つころにはスカロン夫人も宮廷で愛妾の子の養育官となり、年収は6000リーヴルとなったようです。

さて母としてのモンテスパン侯爵夫人はスカロン夫人と教育のことですれ違いが多くなります。

また、4人目の出産でモンテスパン侯爵夫人は取り返しのつかないほど太り、地味なスカロン夫人が際立つほど。



モンテスパン侯爵夫人とその子供 作者不詳


養育のすれちがい、王がスカロン夫人をみる目。モンテスパン侯爵夫人は国王に、養育官を変えたいと申し出ます。

一週間後、スカロン夫人はドーファン付きの女官になり、養育官の役目を終えることを伝えられます。勝利に不敵な笑みをはなつモンテスパン侯爵夫人。つぎの言葉を聞くまでの短い勝利。

「スカロン夫人。これまでの奉仕に報い、爵位を授ける。マントノン侯爵夫人と名乗るように。」

モンテスパン侯爵夫人の勝利に酔いしれた時間は儚く散ったのです。

1678年、ルイ・アレクサンドルが誕生したこの年、オルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットの侍女のマリー・アンジェリク・ド・スコライユ・ド・ルーシーユがルイ14世の目にとまったのです。のちにフォンタンジュ公爵夫人の称号が与えられます。


新しい公妾マリー・アンジェリク・ド・スコライユ・ド・ルーシーユ



マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ


まったく知性を感じさせない若くて美しい娘。とよく言われています。

ところが機転がきくんですね。その機転とは。フォンタンジュ嬢の名をとったヘア・スタイルはの所以になるお話です。

太陽王ルイの恋心に火をつけたご褒美に下贈されたフォンタンジュ公爵領。狩猟の合間の1本の矢がこのフォンタンジュ嬢の髪をひっかけます。

女神アテナの驕りの春の高ぶりと (モンテスパン侯爵夫人)
ジュノンの艶姿、ヴィナスの均斉な美もて飾れる (フォンタンジュ嬢)

このラ・フォンテーヌの激賞は、予言めいたものになりますね。

さて、とっさの機転ですばやくレースの靴下止めで見事に束ねた髪。

ルイ14世は、彼女の沈着と機敏さに驚きます。



フォンタンジュ スタイル


こちらがフォンタンジュ嬢のヘアスタイル。

髪を上天へ結いリボンなどで結びます。シャッポーも立体化したものが売り出され、こののち30年の流行を保ちます。このシャッポーが髪をすべて上に結い上げ、髪の上から飾るもの。

フォンタンジュ嬢のスタイルをベースにさまざまな手を加えて。

このときのフォンタンジュ嬢はすでに妊娠をしていたのではないでしょうか。

1679年、フォンタンジュ嬢は公妾となりました。公妾は一人とされていますので、当然モンテスパン公爵夫人は公妾ではなくなってしまいます。

それでもモンテスパン侯爵夫人はそのままヴェルサイユにも居住します。



マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ


ラ・ヴォワザンでは、多くの顧客がつくにしたがって、ますます黒ミサは本格的な黒ミサにかわっていくのです。

呪文から鳥獣類の生贄をささげるようになります。

モンテスパン侯爵夫人は太陽王ルイの寵愛をつなぎとめるために儀式を行うようになりました。

神聖とされる祭壇に全裸で横臥し、全身を嬰児の血で洗礼します。呪詛がこめられている赤子の血とワインを飲み干し、その願う人にもその血と淫剤の愛の妙薬を飲まさなければなりません。

ルイ14世は密かに飲まされたのですね。

1678年の儀式での「ラ・ヴォワザンの毒薬」で、王の殺害が計画されます。このモンテスパン侯爵夫人の黒ミサ事件(ラ・ヴォワザンの毒薬)に関与していたのが、ポリニャック家です。

また、フランス王室では、ブルボン家の前のヴァロワ家でも、王妃カトリーヌ・ド・メディチが毒殺事件のほか、黒ミサでの生贄の儀式を行っています。

カトリーヌ・ド・メディシス 黒衣を纏う灰被り猫

繰り返し行われる妖魔術は、フランス王室の影の歴史。



マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ


さてこのフォンタンジュ嬢は黒ミサが発覚した年、1679年に亡くなりました。黒ミサ事件のあとでしたから、モンテスパン侯爵夫人が「ラ・ヴォワザンの毒薬」を使ったともいわれています。

妊娠してからは顔立ちも身体も大きく変化し、出産直後は出血がとまらなかったといいます。

出産したあとの顔は浮腫んだまま。息をひきとる半年間、その凄まじい容貌だったといわれています。

モンテスパン侯爵夫人はなかなか怜悧で賢い人です。マントノン伯爵夫人とも自分の立場が危ういと思えば、涙ながらにお話しをするという人。

こうした権威を守る術を操れるモンテスパン侯爵夫人でしたら、巧く言いくるめて「ラ・ヴォワザンの毒薬」を良薬といって贈ったのかもしれません。





モンテスパン侯爵夫人


ラ・ボーメル(ラ・ボーメイユ)は、モンテスパン侯爵夫人をこのようにみています。

「はばかるところなく人の悲運をよろこんだ。」と。
 
サン・シモン(1675-1755)は、どう見ていたでしょう。

「支配欲が強く、倣慢にして、人を侮る。この美貌の主は従臣にさえ自己本位にとらわれた。」

ところが、モンテスパン侯爵夫人は国民には大変人気があったらしいんですね。

まぁ、側で見ていないからでしょうが、支配欲が強いところは誇らしげにみえ、その美貌は見る人をうっとりさせてしまうからなのです。



フランソワーズ・アテナイス・ドゥ・モルトゥマール
(モンテスパス侯爵夫人) 作者不詳


ラ・ボーメル、サン・シモンがとらえているように、モンテスパン侯爵夫人の勝手には、もとの夫モンテスパン侯爵もたいへん侮られました。

1669年、妻に会いにルーヴルを訪問したときの冷たい態度。またモリエールの「ジョルジュ・ダンダン」は、この寝取られ侯爵を揶揄したものでした。

国王と妻の関係をあとになって知らされたモンテスパン侯爵は、「妻の貞操に対する喪」と称し、喪服で宮廷にあらわれて、ルイ14世を怒らせます。

結局、10万エキュの大金で離婚することになりますが、黒ミサ事件が起きて、モンテスパン侯爵夫人は領地に戻ると元夫に願うのですが、当然のことで断られます。

こうして、1686年に宮廷を出て、サン・ジョゼフ修道院にはいります。「ラ・ヴォワザン毒薬事件」から6年もいたんですね、宮廷に。



モンテスパン侯爵夫人


宮廷での嘲笑に耐えたのでしょうか?マントノン夫人が哀れんだのでしょうか。

マントノン夫人も父親が前妻と愛人を殺害し、罪ある人の子として孤児同様に修道院にいれられ、なんとか修道院をでたいけれど、行き場所がない。

そんな思いが「行く場所」のないモンテスパン侯爵夫人を留めておいたのでしょうか。

マントノン夫人は若かった。だからポール・スカロンという才能溢れた作家と結婚もしました。でもモンテスパン侯爵夫人に何が残ったのでしょうか。

公爵に叙せられた子供たちでしょうか。

誰も彼女を引き取ったりはしなかったのですね。



モンテスパン侯爵夫人
もしくはラ・ヴァリエール嬢


自分のためにだけ生きた。
それもひとつの人生です。
ただあまりにも人を犠牲にし過ぎました。
夫も子供も、若い美しい侍女も。

ルイ14世の王妃マりー・テレーズはいいました。
「いつかあの辻君に国は滅ぼされるでしょう。」と。

国を滅ぼす女性の登場はまだ先のこと。

ところが、モンテスパン侯爵夫人は、宮廷をあとにすると。
19世紀の画家モーリス・ドニが買い求め、現在はモーリス・ドニ美術館になっているところは、実は彼女が領地を買い求めたところで、貧民層、高齢者などを受け入れる施設の施療院を創立したんですよ。

この人、なかなか侮れない。
この時代の慈善事業は罪を洗い流すことを意味します。

ルイ16世期までの王室や貴族の「施し」はそのために行われていたわけでした。

ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王
ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻
ルイ14世 芸術への愉楽
ルイ14世  コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言

参考(引用)
wiki
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン
マダム・ド・マントノン: ルイ一四世と冠のない王妃 中島実穂



追記



マリー・マンチーニ(仏マリー・マンシーニ)
ルイ14世の初恋


最近書いた記事 ルイ14世の初恋 マリー・マンチーニの姉オリンピアはモンテスパン侯爵夫人と黒ミサのリストに名があがったルイ14世の愛人。マザリネットといわれたマンチーニ姉妹、マルティノッツィ姉妹からご覧ください。→「マザリネットのマンチーニ姉妹」より

追記:マリー・マンチーニをのぞいて、モンテスパン侯爵夫人、ラ・ヴァリエール嬢、オリンピアはじめとして、ルイ14世と王妃を取り巻く公妾たちも含んでいると考えている寓意画「ルイ14世とその家族」もあわせてごらんください。

記事 ルイ14世 御伽の国から夜伽の国へ
| 太陽王のヴェルサイユ | 13:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール ルイ14世の菫の貴婦人



ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール


ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(Louise de la Vallière, 1644年 - 1710年)は、フランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップと結婚するヘンリエッタ・アン・ステュアートに付き添って宮廷にきました。

オルレアン公フィリップはわたしもちょっと興味のある人物で、幼少時は兄ルイ14世を際立てるためなのでしょうか。女装をさせて育てられ、成人してからは、オルレアン公の個性というか人格に影響することになります。





マリー・マンチーニ(仏マリー・マンシーニ)
ルイ14世の初恋


最近書いた記事 ルイ14世の初恋 マリー・マンチーニはマザリネットといわれたマンチーニ姉妹、マルティノッツィ姉妹からご覧ください。→「マザリネットのマンチーニ姉妹」より

追記:マリー・マンチーニをのぞいて、ラ・ヴァリエール嬢をはじめとして、ルイ14世と王妃を取り巻く公妾たちも含んでいると考えている寓意画「ルイ14世とその家族」もあわせてごらんください。

記事 ルイ14世 御伽の国から夜伽の国へ

Henrietta Anne Stuart

Henrietta Anne Stuart
ヘンリエッタ・アン・ステュアート


このヘンリエッタは、男色家の夫オルレアン公との結婚で、義理兄ルイ14世と恋愛がはじまるのですが、侍女のルイーズに恋をしてしまったため、身を引くことになるのです。

ちなみにヘンリエッタは、かの王妃マルゴのあとにアンリ4世と結婚した、マリー・ド・メディシスの孫になるんですね。

侍女ルイーズをルイ14世との逢引にカムフラージュしてもらったことで、国王の恋心が移ったのです。

アン・ゴロン著「アンジェリク」(全24巻)の、第4巻と第5巻のヴェルサイユの恋人では、主人公アンジェリクがみたラ・ヴァリエール嬢が描かれていますよね。(図書館利用をおすすめ)



ラ・ヴァリエール嬢 1664年
ジャン・ノクレ(Jean Nocret)


alei の記事「ルイ14世」を読んで、あんな匂いの国王を、よく愛し続けられたものだなって感心します。

いったい、いつごろから「国王の匂い」に気絶する女性が増えていったのかしらん。

ルイ太陽王(ルイ14世) 王権神授説の宮廷絵巻
王妃もラ・ヴァリエール嬢も、ルイ14世を生涯愛し続けました。ラ・ヴァリエール嬢は、ルイ14世の寵愛を受けながら王妃に対して罪悪感をもつほど純粋な女性だったようです。



王妃 マリー・テレーズ


公妾の存在に苦しむ王妃。控えめな公妾・ラ・ヴァリエール嬢を、「野にひそやかに咲く菫のような方」と、悩みながらも悪くは思っていなかったようです。

王妃が言うように、ひそやかなラ・ヴァリエール嬢は、国王の歓心を得るのは短かかったのですね。なにせ、社交でのウィットに富む会話ができないようで、飽きられてしまった・・・。

女性の美徳には、薔薇の棘を少々と微量の甘い香水を隠し味に、そして華やかな社交性と機知は充分に必要だということですね。

Françoise Athénaïs de Mortemart, marquise de Montespan

モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス


ちょっとスパイスの効いたモンテスパン公爵夫人は、最後のマントノン夫人があらわれるまでは、ラ・ヴァリエール嬢から国王の寵愛を引継ぎ、まるで召使のようにラ・ヴァリエール嬢を扱ったようなんですね。

ちなみにマリー・アントワネット時代のポリニャック夫人が嫁いだポリニャック家は、このモンテスパン公爵夫人の黒ミサで失脚しました。

デュマ(父)作三銃士のダルタニャン物語(第9巻)「三つの恋の物語」では、ブラジュロンヌ子爵、ルイ14世とラ・ヴァリエール嬢の恋が物語になっています。



ルイーズ・ド・ラヴァリエール夫人とその子供


国王に飽きられ、1669年に 菫の方ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールが、シャイヨの聖母訪問会女子修道院に一時身を寄せます。

王妃カトリーヌ・ド・メディシスがシャイヨに建てた館だたんですよ、たぶんその修道院は。このシャイヨ宮(旧トロカデロ宮)の前進が聖母子訪問会女子修道院だったはずです。

ルイ14世といえば父ルイ13世の館ヴェルサイユを宮殿にしてしまうのですが、なぜヴェルサイユだったのでしょうか。

Lely Peter Sir (dit), Van der Faes Peter (1618-1680) - Mademoiselle de la Vallière et ses enfants

ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール夫人とその子供
ピーター・レリー(ペーテル・ファン・デル・ファース)
Lely Peter, Sir (dit), Van der Faes Peter  


実はダンジヨの日記の補註で、サン・シモンは記しています。
(要約:ジャック・ルヴロン ヴェルサイユの春秋)

「王が、ド・ラ・ヴァリエール夫人を愛人にしたばかりの頃、宮廷はサン・ジェルマン・アン・レーにあった。王は週に一度か二度御供を連れ、ヴェルサイユでド・ラ・ヴァリエール夫人とひとときを過ごす。」

それだけの理由ではありませんが、王の侍女ド・ラ・ヴァリエール夫人とのスキャンダルは人目を避ける場所が必要なほどだったのです。

Louise de La Baume-Le Blanc

ラ・ヴァリエール夫人


ルイ14世との間には、1663年にシャルル、65年にフィリップ、66年にマリー・アンヌ(コンティ公ルイ・アルマン1世妃)を、67年にルイ(男色家)を誕生させています。

シャルルが誕生した翌年は、ルイ14世がラ・ヴァリエール嬢のために王の祭典をヴェルサイユで開かれました。

「魔法の島の快楽」といわれた祭典。

モリエールの即興劇、夜の仮装パーティー、バージュ競技に演奏会など1週間にわたる大祭典でした。

ルイ14世 芸術への愉楽

Mademoiselle de La Valliere, age 26

Mademoiselle de La Valliere, age 26
26 歳のルイーズ・ド・ラヴァリエール
もしかしてディアナに扮したルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールかも


片足がもう一方より短いため、ルイ14世はヒールを少し高めにつくった靴を贈ります。

17歳のド・ラヴァリエール嬢は、絶妙な肌合いにブロンドの髪、そして青い目に甘い微笑、その穏やかな風情が、すぐに国王の目に留まったのですね。

18歳のとき、随行してきたヘンリエッタの新しい愛人ギシェ公(夫の恋人)との関係を、ルイ14世に尋ねられますが、二人の関係を話しはしません。国王は怒り、ルイーズはシャイヨのあの修道院に逃げるのは、1662年が最初のことらしいんですね。

その出来事は絵画の作品として残っているほど。国王が修道院に迎えに行ったからなのでしょう。 



ラ・ヴァリエール夫人とその子供たち
ピエール・ミニャール


1663年、最初の子シャルルが生まれたこの年に、オルレアン公が王妃にその件を知らせます。たいへん苦しい思いをした王妃。

セイントロイでの秘密の出産は、侍医ブーシェ、あのジャン=バティスト・コルベールによって守られたはずが、パリ中の噂になります。

ルイ14世 コルベールの重商主義芸術政策

ちなみにコルベールは1671年に、ルイーズが修道院に身を寄せたときも迎えに行っています。
ルイーズとルイ14世の子供は6人で、1人が死産で、もう一人は流産。4人の子供たちで成人したのはルイとマリー・アンヌだけでした。



ラ・ヴァリエール夫人


23歳のときに最後の子ルイが誕生し、ヴォージュール伯爵夫人の称号と領地を与えられます。

それは6年間の愛の決算なんですね。いよいよモンテスパン侯爵夫人がルイ14世の寵愛を受け、ヴェルサイユに入城します。

ルイーズは、国王にすがり泣きますが、結局モンテスパン夫人に召使同様に扱われ、27歳のときにまたシャイヨの修道院に身を寄せますが、コルベールに連れ戻されます。


1674年に、彼女がパリのフォーブールセイント-ジャックのカルメル会修道士修道院を入れることが最終的に許可されました。



マーシーの修道女ルイーズ
ピエール・ミニャール


のちのマントノン侯爵夫人が引きとめるのをやめてしまうほど、ルイーズの固い決心だったのです。

オルレアン公爵夫人エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールにルイとマリー・アンヌを託し、ルイーズは王妃マリー・テレーズに跪き、これまでの罪の許しを請います。

王妃はラ・ヴァリエールの黒いベールを開きキスをします。

こうしてマーシーの修道女ルイーズとなったラ・ヴァリエールを見舞うようになる王妃。

ルイーズは「この世で死に、神に生きた」と言葉を残しているようです。

さて、ラ・ヴァリエール嬢をはじめ女性を奔放したルイ14世。彼はどんな国王だったのでしょうか。

太陽王ルイ14世展 ヴェルサイユ宮殿
ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王

ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻
ルイ14世 芸術への愉楽
ルイ14世  コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言
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