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ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

Portrait of Marie Antoinette and her children by Charles Leclercq

マリー・アントワネットと子ども達 1782年
シャルル・ルクレルク


これはエリザベート王女をウェヌスの処女にたとえて描いた作品と同じ画家です。1782年ですからマリー・テレーズとルイ・ジョゼフ。ルイ・ジョゼフは、ルイ16世の第3子で、はじめて世継ぎの男の子として誕生しました。

これまでのマリー・アントワネットの記事
過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの
過去記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
過去記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
過去記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

マリー・アントワネットが好きなものですから、記事も使用している肖像画もとっても多くなりました。今度は記事に使用した肖像画だけの記事も書いてみようかと思っています。

いちばん肖像画が多いのは「マリー・アントワネットが愛したもの」ですが、そのほかの記事は、大きく肖像画をご覧いただけます。


 Reine de France  王妃のノブレス・オブリージュ

「私は一生涯、戴冠の日を忘れないでしょう。」

1774年、ルイ16世はフランス国王となり、マリー・アントワネットはフランス王妃となりました。

ここで結婚式と戴冠式について、二人をみようと殺到したため犠牲となった国民や農民がいます。(どちらの時だったのかは、それぞれの本によって違います。)

そうした犠牲者とその家族のために、ルイとマリー・アントワネットが、1年間にわたり私財からお金を与え続けていたということです。

マリー・アントワネットが王妃となり、ルイ16世が統治することになったフランスの財政はこれまでの国王の時代の浪費にため、たいへん窮乏していました。

記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

ルイ15世の葬儀の費用はさらに財政を圧迫します。そしてアントワネットと反目していたデギュイヨン公爵の罷免にともなう退職金。アメリカ独立戦争の支援にともなうチェサピーク湾の海戦はさらに財政難に拍車とかけます。

この時代、フランスの国民の3/4が農民です。

フランスの社会制度 「アンシャン=レジーム」では、特権階級の第一身分が聖職者で、第二身分が貴族となります。そして第三身分が平民。つまりフランスの4%が特権階級で、96%が市民だったわけです。

明日がこないかもしれない貧困と激しい労働に重税が農民の若い娘たちの美貌や容姿を侵食します。28歳の老婆というのは、アーサー・ヤングのフランス紀行にでてきます。

つまり、アントワネットや宮廷が美しく着飾っているとき、20代の娘たちは、すでに老婆の顔をもつ容姿と成り果てていたのです。

「フランス紀行」は、フランスのルイ16世時代を旅したアーサー・ヤングによって書かれています。ぜひご一読ください。(現在はフランス旅行記になっているかも)



マリー・アントワネット 1775年 作者不詳


こうした時代に即位したルイ16世は、国民から「王妃の飾り帯」に祝い金を贈る風習を廃止しました。

マリー・アントワネットは「王妃の飾り帯はもう締めません。」と農民に話したエピソードがありましたがたいへん感銘を受けた言葉として残っています。

そして、1776年の冬。

ルイ16世は農民に寒さをしのげるよう、薪を配りに訪問します。施しものを貧しい人々に贈り、生きるための援助を惜しみません。

私財を投じて施し物を配って、ルイ16世はしばしば貧しい人々を訪問しました。 厳しい1776年冬の間、王は農民たちに薪を配ります。 ルイ16世は人道主義で、病院、刑務所、工場にお忍びに行きました。

国王と王妃は、慈善の「メゾン・フィランソロピー(博愛の家?)」(Maison Philanthropique)を後援し、高齢者、未亡人、病人を保護します。

王妃はマリー・テレーズに貧困者のために薪と毛布を買い与え、病気の人々へは、食料の入った籠を贈ることを教えます。

人間愛に基づく活動をルイ16世とアントワネットは活発に行っていたのでした。クリスチャンの基本的な活動として。

そして1792年、オランプ・ドゥ・グージェがエタンプの市長の葬儀の祭典に寄付することを要求してきました。12000リーヴルを王室費から寄付しています。

王妃は「私たちが不運な彼らの幸福のために努めることが、当然の義務です。」とルイ16世に伝えたのでした。


 タンプル塔

タンプル塔では「家族」という絆が強くなった王一家。ルイ16世、マリー・アントワネット、エリザベート王女の処刑。ルイ・シャルルの病死。そして最後まで生き延びたマリー・テレーズ。

真実優しかったシモン夫妻、密告の管理人ティゾン夫妻、悪徳でお名高いバラス子爵が発見したルイ・シャルル、そしてバラスの息がかかったと疑われるローラン、そのローランを監視するためのゴマンと小説ではなくともドラマティックに陰謀のシナリオが進みます。

こうしたなかでも、タンプル塔での贅沢な食事は十数人のコックがいました。スープは3種類、前菜4種類、肉料理6種類、アントルメ4〜5種類で、これだけでも一人15皿。さらにデザート、果物をいれうと19皿。王一家は王権も奪われ、王室費も停止され、カペーと平民の名を与えられながらも、パリ市の財政と思われるところから、特別待遇です。

ローズ・ベルタンは、タンプル塔でのアントワネットのドレスを作り続け届けています。

のちに王家に関わった仕立て屋、宝飾店などの商人たちが断頭台にあがることになりますが、ベルタンが免れたのは、多くのお針子を抱え、当時の雇用促進の要だったからです。

アントワネットはパリ市に衣装一式を依頼します。それがローズ・ベルタンに仕立てさせたと思うのですが、アンドレ・カストロはそのため30人のお針子が働いたと述べています。

もちろん支払いはパリ市の財政からでるのです。苦しいパリの財政。

Tour du Temple

タンプル塔の国王一家


藤本ひとみさんは、「黒いビーバーの毛皮の乗馬服、フィレンツェのタフタ織の長上衣等、上質の衣類が各数点以上注文し、肩掛にいたっては、数百枚。もちろん化粧品、そして莫大な香水の支出。」

マリー・テレーズの回想録は、かなり妙訳が多いのでしょうか。翻訳されていない部分もありますが、藤本ひとみさんの著作本にはこの部分がちらりと書いてありました(抜かりが無い)。

マリー・テレーズの回想録に「母はパリ市へ父の死を悼むため、大喪用の喪服、下着から蝋塗りの履物、黒のタフタ織の扇にいたるまでを注文した。」とあるそうです。

チュイルリーからタンプル塔に幽閉されて、アントワネットは長くいるとは考えることがなかったのです。救出されることができると確信していたからです。

さて、それぞれのタンプル塔はこちらの記事からご覧ください。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年10月
記事 マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達
記事 フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの
過去記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
過去記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
過去記事 マリー・アントワネット フランス紀行から
過去記事 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
過去記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス


 コンシェルジュリーでの元王妃 「ロザリー・ラモリエール記」より


コンシエルジュリーに入った王妃の牢は現在観光コースですが、実際のマリー・アントワネットの独房ではありません。礼拝堂に面した部分だそうです。そしてカーネーション事件後は一番奥の建築物。処刑の一月前です。

王妃のコンシェルジュリーでの食事

朝食はプチ・ロール(ロールパン)にショコラ。王妃時代から朝食のメニューも変わっていませんね。王妃は葡萄酒は口にしない習慣でヴィル・ダブレのお水を愛飲。この手記にもお水しか口にしないとありましたが、ヴィル・ダブレも用意されていました。

この当時、1973年の7月から9月までは物価が高騰して、都市に住む平均的な市民も、パンを手に入れるのが一苦労でした。パンの質がさがり、ひどくまずいパンでさえ入手が難しかったのが8月でした。

そして昼食はいちばん多く取る習慣でしたね。コンシエルジュリーの王妃の昼食はスープ、ミルク粥、野菜、家鴨(王妃の好物らしいです。)、または仔牛のお肉、デザートで、夕食はこの昼食のメニューから選ぶそう。

Postumous portrait of Marie Antoinette in the Conciergerie

コンシエルジュリーの喪服のマリー・アントワネット


当時のコンシエルジュリーは、藁をひいた大監房に集団で投獄されます。

寝台もなく、藁のうえで寝るそうです。排泄物のなかで寝て、死を待つ人々。裕福なものはお金次第で、二人部屋、個室に上等な食事を与えられました。

記事 フランス革命下の囚人たち

マリー・アントワネットには、特別に広い牢、排泄するときの屏風と排泄係りのほか、部屋付きの女中が身の回りの世話をしていました。

ロザリー・ラモリエール(部屋付女中)の手記

9月虐殺の少しあと、私が勤めていたボーリュー夫人が亡くなり、牢獄の管理人リシャール夫人に勤めることになりました。コンシエルジュリーのマダム・リシャールは、囚人に対する私の同情心に対して、すこしも反感を示しませんでした。

8月1日、王妃がこのコンシエルジュリーに移されてきました。ベットは王妃に似つかわしくないものでしたが、私達が用意した上等なシーツと長枕でお休みになられました。

4日目、5日目頃のこと。王妃から金時計を取り上げることになりました。

王妃の下着が届けられたのは10日もしてからでした。ミショニがマダム・エリザベートから預かってきたようです。白麻のシュミーズ、ポケットハンカチーフ、三角スカーフ、絹やあら絹の靴下、白い普段着、夜のボンネット、たくさんのリボンのはしきれ。

王妃は大きな喪の帽子をかぶっておられました。お持ちの寒冷紗でボンネットの仕立てをマダム・リシャールに頼みました。私は残りの寒冷紗をいただきました。まだ大切にとっています。

ある日、マダム・リシャールは彼女の息子、青い目の品の良い一番下の息子を王妃の部屋に連れてきました。王妃はその息子を抱きしめ、優しくキスをし王太子の話をはじめました。マダム・リシャールはかえって苦しめたのではないかと、連れて行くのをやめようと話しました。

マダム・リシャールは法令により、お食事に使う王妃の銀器を隠すことになりました。私は王妃が食事をされる器は銀のように磨きました。

王妃は鳥を二日間食べられるように二つにわけます。その見事な手さばき。二皿目の野菜料理。王妃はかなりの食欲でお召し上がりになりました。

マダム・リシャールがいた頃は、心のこもった食事をだされていました。美味しい鳥、上等な果物。

9月半ば、ド・ルージュヴィルという男がミショニという衛兵によって王妃の部屋へ連れてこられました。王妃の服の裾のところにカーネーションを落としていきました。

女中のアレル(アレン)は何もかも見ていて、フーキエに報告しました。リシャールとマダム、上の息子はサント・ペラジー、マドロネットの独房に入れられました。

Le cachot de la reine ・la Conciergerie

コンシエルジュリーのマリー・アントワネットの独房


新しい管理人はルボー、そして娘のヴィクトワール(マダム・コルソン)。ルボーはマダム・リシャールの投獄の件で、くれぐれも不注意に親しくするのは気をつけるようにと言いました。

管理は厳しくなり、王妃の食事は鳥か仔牛のお肉の主食に、野菜料理は一皿になりました。

そしてマダム・アレルがいつも髪を結っていましたが、彼女がいなくなって、王妃はご自分で髪をお結いになるのです。

王妃は折り返しのある小さな部屋履きを履いていました。私はこのきれいな、うつぼ黒の履物にブラシをかけました。サン・テュベルティ風でした。

ある将校が、私はいつも王妃の部屋履きをブラシをかけているのを見て、王妃の履物をひとつとり、磨いてくれたのです。

不幸なカーネーション事件から、洗濯屋のソーリュウが来なくなり、かわりに私が真っ白に洗って差し上げました。

革命裁判所の書記は、王妃のいくつかの下着類を取り上げ、時々1枚ずつ与えるようになりました。王妃の二つの指輪も取り上げられました。

王妃の生活は、ご不自由で蜀代もランプもありません。裁判を受ける日は断食させられました。

16日、フランス王妃は死刑の宣告を受けたことを知りました。私は自分の部屋まで叫び声と鳴き声を押し殺しました。

夜が明ける前、宣誓司祭がやってきましたが、王妃は断りました。

「今朝は何をお召し上がりになりますか。」

王妃は涙を流しておりました。「何もいりません。すべておしまいですから。」私はあえて「スープとヴェルミセルがございます。しっかりなさらなければなりません。」と言いました。

幾さじか飲み込むのがやっとでした。

王妃は憲兵の前で注意深く、誰かが持ってきたシュミーズを身につけました。朝に身につけられる白いピケの普段着にモスリンの肩掛を身につけました。髪は少し高く結い上げ、ひだのある飾りで縁どられた寒冷紗の帽子。形も変わらなければ傷みもしなかった黒い布製の靴。

私は王妃の前で悲しい思いをさせぬよう、さよならもお辞儀もせずに別れました。そのあと裁判所の守衛長が王妃の品々、1本の藁までを私に拾わせ、遺品を持っていってしまいました。

Death  of Marie Antoinette

?マリー・アントワネットの死に顔?


マリー・アントワネットはいつでも生きる望みを絶つことはありませんでした。そのためにはフランスを犠牲にしても。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月

私の過去記事では3つの罪をあげました。

過去記事 マリー・アントワネットが愛したもの

いま、フランスでは国王夫妻についてはとても同情的です。でもそれは真実を知ってこそだと思います。アントワネットの弁護士ショーヴォー・ラガルドの手記、処刑に関しては下記記事から。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年の10月

もっとも残念なのは、コンシエルジュリーに投獄されて、無実の民衆や修道女、非宣誓司祭たち、王党派の貴族や宮廷に仕えていた廷臣などの監獄生活を知ることもあったでしょう。

ロザリーの手記には、修道女が毎日祈り続けている姿に目をむけただけ。排泄物と藁の上で死を待つ囚人の姿は見ることはなかったのでしょう。そのことに関して心を痛めることがあったのでしょうか。

そして、仮に見なかったとしても、ルイ16世の全盛期、国王が何のために監獄を視察していたのかもわからなかったのかもしれません。救いと感謝の絆は牢獄からも生まれるのです。

記事 フランス革命下の囚人たち

ル・バトニエ・アンリ・ロベールは「ルイ16世」(レ・グラン・クール叢書)で、不幸のなかで王妃としての義務を自覚して、比類なき品位をそなえた悲運の王妃(悲劇の王妃)と派手に絶賛しています。

王妃はタンプル塔、コンシエルジュリーでどんな王妃の義務を果たしたのでしょうか。投獄前の生活とは比べられないほど、この監獄生活で品位を保ちながら暮らしたことは、義務に値するのでしょうか。

「私たちが不運な彼らの幸福のために努めることが、当然の義務です。」と言ったとされる言葉はどこにあるのでしょう。

ノブレス・オブリージュとは、「従者にかしずかれる高貴な身分の者は、高潔な意志のもとに義務を負うこと」で、社会的圧力ではなく、社会的責任を負うことです。

懐かしいトリアノンのあの遊び。ここで、朝の部屋着にはルブラン夫人が描いた真っ白なピケのドレスを、遊びでもなく、流行でもなく着ていました。「私はこういうドレスが好き」といった王妃。最後まで望みは叶ったのです。

Marie Antoinette Elisabeth Vigee Le Brun, 1800

死後の肖像画 マリー・アントワネット 1800
コンシエルジュリーでの朝の部屋着 白いドレス
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


オリヴィエ・ブラン著作から引用

「アントワネットは7時に起き10時に寝る。彼女は二人の憲兵をメシュー(あなたがた)と呼び、部屋付きの二人の女のうち、一人をマダム・アレルと呼ぶ(→カーネーション事件を密告した彼女ですね)。

警察理事官たちと、公式に彼女に近づく人らりは、アントワネットをマダムと呼ぶ。アントワネットはたいへんな食欲で食べる。しかし彼女達は、この元王妃と隣り合っていることに気づいているそぶりを見せない。」
1793年9月の王妃脱獄計画事件(カーネーション事件)の前のお話しですね。

「朝はショコラとプチパン、夕食はスープと多くの肉、鶏、仔牛肉、羊肉のカツレツ。彼女は水しか飲まない、母親とおなじように。母親は葡萄酒は決して飲まなかったとか。

彼女は「イギリスの革命」の読書は終わり、現在は「若きアナシャルシ」を読んでいる。

彼女は自分で身繕いをする。最後の最後まで女性から離れることはないおしゃれ心で。彼女の部屋は(最初の部屋のこと)、女達の監房に面していたあと、監獄の薬局が置かれていた場所に移る。

外界との交渉を防ぐために再補修された。これまで云々されてきたこととは反対に、彼女は最後までいい待遇だった。彼女の革命裁判所に、彼女は優雅な白のドレス、それも清潔なドレスを着てあらわれた。」
それでも健康を損なっている囚人たちですが、マリー・アントワネットも不正出血がありました。ロザリーの手記でも処刑当日に血に染まったシュミーズをアントワネットは壁の隙間に隠したとありました。


 不思議な逸話

コンシエルジュリーの王妃を見たという男の証言があります。部屋付きのロザリーの手記とは違う印象。

「王妃は粗雑なシーツのベットと古びた衝立の部屋だった。世話をする部屋付きの女はとても下品で、王妃はそのことをこぼしていた。

いつ拷問されるのだろうと王妃は、その覚悟で、一日中喪服を着ている。警察当局者のド・ミショスはそのことを切なげに泣きながら訴えた。」とあります。

不思議ですね。この証言に、まずミショスがでてきます。ということは、ルージュヴィルの証言ではないでしょうか?あのカーネーション事件で、失敗した瞬間に一人だけ逃げ出した「ルージュヴィルの騎士」です。

こういうルージュヴィルのような男が、哀れなお話しをつくるのですね。人を悲劇的にみて、不運、不幸と決め付ける、いやらしい人格です。それができるのは才能ある作家だけ!もし成功していたら自分が救世主だと名乗るつもりだったのでしょう。

私は私以外の誰かに、私の生涯が不幸で不運な悲劇的だなんて思われることにゾッとします。気位のこの高い王妃こそ、もっとも忌々しく感じることでしょう。

Sophie Prieur, 1793, Museum of Carnavalet

喪服を着るタンプル塔のマリー・アントワネット


王妃は悲劇的で不幸な王妃として後世に名を残したいわけがありません。そして私も私以外のその人の生涯を悲劇、不幸と決めることはしたくありません。

マリー・アントワネットは、美しく敬虔で、もっとも気高い王妃として名を残したかったのです。

マリー・アントワネットの遺体は、尊厳を奪われた埋葬だったとされていますが、身分の違いを死後にわかるように「両足の間に首をはさむ」とされていたようです。

マダム・タッソーがアントワネットとルイ16世の首をお墓から掘り出して、デス・マスクをつくっています。

王妃の遺体が2週間も野原に放置されていたという逸話がありますが、本当でしょうか?当時自殺した国民議会の一人が発見されたときには、獣に食べられていたあとがあったようですよ。

でもマダム・タッソーはお墓からアントワネットの首を持ち帰り、デス・マスクをつくったのですよね?

マダム・タッソーは、アントワネットの顔に傷がついていましたら、あのようなデス・マスクはつくれなかったと思うのは私だけでしょうか?それともあのデス・マスクは「作り物」なんでしょうか。


 マリー・アントワネットと子供たち


7年間もルイの不能で子供ができなかった二人に、第1王女マリー・テレーズが誕生します。 

1778年のマリー・テレーズの誕生時は、異常気象の年は続いていました。浮浪者、失業者があふれていたそうです。



マリー・テレーズ


マリー・テレーズについては回想録を記事にしていますが、ルイ18世が改竄しているところもあるようですが、「この世でいちばん不幸な子」と自分で数行の詩を壁に書いた彼女を、別記事でアップするつもりです。

死後100年後に公開の彼女の遺言は、いまだに封印されたままのようで、それも気になるところです。

過去記事 マリー・テレーズ王女の回想記録1

ルイ・ジョゼフ

1781年、第2子に王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ(1789年 8歳で夭逝)が誕生しました。

1785年には第2王子ルイ・シャルル(ルイ17世)、1786年にマリー・ソフィー・ベアトリス(1787年天逝)が誕生と4人の子が誕生し、革命前に2人が天逝。ルイ・ジョゼフとマリー・ソフィー・ベアトリス。

Louis-Joseph-Xavier-François, en 1781-82

フランス王太子誕生に集まる王室(部分) 1782


ルイ・ジョゼフの誕生では、王妃と王太子の肖像画が多く描かれています。wiki によると、「幼い王子は驚くほどの賢い子供であったと同時代の人々は記している。」とあります。

ちょうどあのフェルセンはアメリカ独立戦争に行っている頃なので、王妃マリー・アントワネットは、ルイ16世と二人で子ども達を育てる時間が与えられたのでしょう。

1783年、アメリカ合衆国の独立を認めるパリ和平条約(ヴェルサイユ条約)の調印の9月。国庫は空になりました。

フェルセンは1785年頃、パリに在住するようになります。

Louis Joseph Xavier Francois, Dauphin of France_by Adolph-Ulrich Wertmuller

ルイ・ジョゼフ
アドルフ・ウルリッチ・ヴェルトミュラー


1784年に王子の健康が損なわれ、ムエット(ミュエット)で静養します。3歳の頃ですね。1785年、静養先でルイ・ジョゼフは天然痘のワクチンの接種を受けているようです。

1786年、結核の初期症とが王太子は診断されました。乳母だったジュヌヴィエーヴ・ポワトリンヌからうつされたとされています。彼女はどうなったのでしょう。

ルイ16世が王太子のために、地理学者マンセルに注文したという大きな地球儀は、このルイ・ジョゼフに与えたものらしいですね。

1786年に王太子の背中が曲がりだし、歩行が困難になっていくのです、鉄製のコルセットをした王太子。結核菌が脊椎に感染してしまった。

Portrait by Elisabeth Vigee-Lebrun Princess Marie Thérèse Charlotte of France, Madame Royale, and her younger brother Louis Joseph Xavier of France, Dauphin of France, the eldest children of King Louis XVI of France and Queen Marie Antoinette of France, grandchildren of Empress Maria Theresia of Austria and Holy Roman Emperor Franz I. Stephan of Lorraine

マリー・テレーズとルイ・ジョゼフ 1784年
(ルイ・シャルルではありせん。) ルブラン夫人


王太子の背中は湾曲して、下半身は麻痺しだしたのですね。1787年のルブラン夫人の「マリー・アントワネットと子供たち」では、亡くなったマリー・ソフィー・ベアトリスの空のゆりかごに手をかけているルイ・ジョゼフの作品があります。

すでにルイ・ジョゼフの身体を侵蝕している病魔を取り除いた姿。すでにルブラン夫人は王太子の命が尽きることを知っていて、ゆりかごに手をかけた姿を描いたのでしょうか。

アントワネットのあの暗い顔。フランス国民には王太子はこんなに元気ですよ、あるいはマリー・アントワネットを理想の母親像としてフランスに知らしめるための作品なのかもしれません。

1788年1月から熱で体力を消耗し始め、病状が急速に進行したとあります。脊椎カリエスで王子の寿命が長くないことが知らされたようです。

Marie Antoinette-children-1785-6-Wertmuller

マリー・アントワネットと子ども達(マリー・テレーズ、ルイ・ジョゼフ)
アドルフ・ウルリッチ・ヴェルトミュラー ストックホルム美術館


1789年6月4日、ルイ=ジョゼフはムードンの城で亡くなるのです。そして葬儀の費用がないことを知らされ、銀器を売り払いミサを受けることができたのです。

王妃だけが浪費した訳ではないにもかかわらず、葬儀の費用はありません。でも王室費2500万リーヴルのほかに毎年支出される王妃の400万リーヴルはどこに浪費したのでしょう。

5月に支出された王室費は、6月にはなかったのでしょうか。賭博の借金の返済?やはりアントワネットが国民の憎しみの対象となってしまったのも仕方ありません。

これから国王となるはずだったルイ・ジョゼフ、これから育つ子供たちのために、母親として、少しでも財務総監のネッケルの提案を受け入れるべきでした。

Portrait de Marie-Antoinette (1755-1793) et ses enfants au pied dun arbre

マリー・アントワネットの子供たち 1790
フランソワ・デュモン


ルイ・シャルル

マリー・アントワネットの子供たちは手元において、ポリニャック伯夫人らが教育係としておりました。ポリニャック伯夫人が亡命してから、ヴァレンヌの逃亡にも同行したトゥルゼル夫人に変わります。

マリー・アントワネットの覚書 トゥルゼル夫人へ(要約)

王太子の健康は特に問題はありません。ただ疳が強くはじめて経験することに怯えます。ただし物心がつく年頃になれば自然におさまるような恐怖についてのこの問題には特別な配慮は無用です。

王太子は自尊心に傷がつくと突然に憤慨しますが、そうでなければ大変優しい愛くるしい子供です。その自尊心を上手にあなたが導いてくだされば、王家の誇りをもつ王太子として育つでしょう。

ただちに配慮せねばならないことは、他から聞いた話を想像した解釈で伝えてしまうことです。まだ自分の高い立場を理解しておりませんが、諂いの言葉を遠ざけ、真実のみを聞かせなければなりません。

Cher par son objet, cher par celui qui le traça, il est pour moi un gage de souvenir et de tendresse. Christies

ルイ・シャルル 1794年12月24日 テンプル塔
マダム・ロワイヤル(マリー・テレーズ)が身につけていた?


この当時のヨーロッパのあらゆる宮廷の流行だったのが、こうした意見を披露することでした。マリー・アントワネットもそれを書き残しています。いく人かのプリンセスが同じようなことを意見するのが最後の部分です。

このトゥルーゼル夫人にはポリーヌという娘がいます。のちにマリー・テレーズに仕えるようになります。

ルイ・シャルルとアントワーヌ・シモン

バッツ男爵ジャン・ピエールが、マリー・アントワネットの救出をくわだてたのが、1792年6月21日のことでした。実はあの靴屋のシモンが阻止したというのですが・・・これは半信半疑。

そして6月29日にルイ・シャルルの教育係として来ることになったのです。

シモン夫妻は下記のリンク先からご覧いただけるように、ルイ・シャルルのために、籐の椅子付きの浴槽まで購入し、小鳥や子馬も与えられ、屋上や庭園でマルセイユを歌うなど、根っからの共和制。

記事 アントワネットの子供達 18世紀の子供達

彼の虐待説は、どうやら王党派でルイ16世の密偵もしていたスイス人のマレ・デュ・パンが絡んでいるようです。(これは私の所見なので、どうぞ鵜呑みにしないでね。)

でも、「平等の思想にかぶれた男を教育係りにしたのか不思議がっていた」とあるように、シモン夫妻の役割は、ルイ・シャルルに共和制の思想を植えつけて、王妃の罪を確定させるためではないでしょうか。

シモン夫妻は本当の子供のように可愛がり、ルイ・シャルルも親に甘えるように懐いていたといいます。

それでは誰がシモンを教育係にしたのでしょう。

ガスパール・ショーメットだということなんですね。コルドリエ・クラブのメンバーです。構成員にはカミーユ・デムーラン、ダントン、マラー、エベールがいました。

マラーの暗殺
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月

Louis XVII au Temple, avec son geôlier le cordonnier Antoine Simon Histoire de la Révolution, dAdolphe Thiers. Ed. 1866. Tome 2, page 161

ルイ・シャルルと靴屋のシモン


しかもメンバーのジャック=ルネ・エベールはサン・キュロットの指導者でもあり、タンプル塔の監視委員でもあったのです。

コルドリエ通りの靴屋、平等にかぶれている無教養のシモンは、エベールたちの思惑にぴったりだったのですね。

そうしてエベールとフーキエの王妃の裁判。

アントワーヌ・シモンは、エベールの操るままに、あの署名をルイ・シャルルにさせたのでしょう。

1794年1月、エベールの役目を終えてくれたシモンに、コミューヌ議員をすすめたのでしょうね。シモンは革命家の道を選び、テミドールの乱で処刑されてしまったのです。

ルイ・シャルルが独房生活から発見されたのがその頃。本当に不思議ですが、アントワネットとフェルセンが6月20日が運命の日であれば、ルイ・シャルルとシモンの7月28日も運命ではないでしょうか。

7月28日に革命に飲みこまれたアントワーヌ・シモンはロベスピエールらと共に処刑されたのです。

そして、ルイ・シャルルの過酷な運命に導いたバラスが、7月28日に彼を発見することになるのでした。

ルイ・シャルルの不潔さについて、マリー・テレーズの書き記したものが記事になりました。

記事 マリー・アントワンネット 記事紹介

シモンとルイ・シャルルは心を通わせていました。でも、バラスが連れてきたローラン。彼はさらに3ヶ月の期間をルイ・シャルルに何もしてあげなかったのです。そこでローランの監視役に来たのがゴマンです。

記事 アントワネットの子供達 18世紀の子供達

藤本ひとみさんは、この頃生命の価値は平等ではなかったといいます。私も平等ではなかったと思います。それが藤本さんと同じ根拠かどうかはわかりませんので、あくまでも私の所見です。

この当時の80%を超える農民達。都市に住まない農家には「ガラス」はありませんでした。彼らはいくら酷く扱われても王家のようにベットで死ぬことはありませんでした。藁か床。あるいは道端。

ルイ16世、マリー・アントワネットはパリの国王、王妃ではありません。フランスという大国の国王、王妃だったわけです。

シモンのように平等を叫んでも、公平に扱われているのですね。階級という名のもとに。

さて、ルイ・シャルルの心臓は、アントワネットの家系と一致したそうです。アントワネットの遺髪との一致ではありません。

私はルイ16世とアントワネットが養子にした子供たちや、一説にあるルイ16世とその愛妾フィリピーヌ・ド・ランブリケの子エルネスティーヌ・ランブリケなどが本当に存在したのかを知りたいですね。

彼女は手術をしたルイ16世の初夜伽の相手と思われますので、出産したあとはどう関係したのかはわかりません。

ルイ・シャルルに関しては、私はまだ謎を秘めたままです。出生にしても。

ただ、そこで亡くなった少年が、犠牲者になった「身代わりの少年」でないことを願うだけです。人の命は平等ですから。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月


オランプ・ドゥ・グージュの叫び さらば、王家よ。



最初の子どもはマリー・テレーズ・シャルロットで、皆様が一番ご存知の王女。マリー・テレーズ王女は女の子でしたので、祝賀を受けるためにパリに出向いたアントワネットへの賛辞が少なく、王妃はいたく憤慨。

大使のメルシーがアントワネットの王妃らしからぬ行為を諌め、大人しくしていたようですが、翌年にはまた仮装舞踏会、そしてトゥ・コワニー公爵とのスキャンダル、トリアノンの改修にその郊外の森林をそっくり移動したため、この年の支出は35万2275リーヴル。

ルイ14世、ルイ15世からの財政赤字でフランス王政は続かないという見通しは誰でもご存知のはずです。

そして兄ヨーゼフ2世も、母マリア・テレジアも彼女を諌めました。よほど酷かったからですよね。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月

フランス革命も、もともとといえば世界的飢饉の頃で、冷害による作物の不作、ル・シャブリエ法によって自由競争ができるようになり、パンは高騰、そして税金で手元にわずかしか残らない市民たち。

それなのに、王妃は国庫を空にする。

個人の生活をしていただけではないんですよね。王室費は「年額2500万リーヴルが支出される。王妃には、未亡人になった場合の寡婦資産を考慮し、年400万リーヴルが支出される。」とaleiの記事にありました。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年 5月

Les Reines de France-Marie de Médicis, Anne dAutriche, Marie Thérèse dAutriche, Marie Leczinska, Marie Antoinette, Marie Joséphine de Savoie et Marie Thérèse Charlotte de France

フランスの歴代王妃 1830 
左下から2番目にアントワネット


ポリニャック一族に年間50万リーヴル。
ランバン公妃に年間15万リーヴル。
フェルセンには俸給8000リーヴル、年金12000リーヴル。

これは王室費からでたのでしょうか。国庫でしょうか。

1791年は、王室費は極端に切り詰められたわけではないのですね。それなのに、1789年にはルイ・ジョセフの葬儀が出せないくらい、王妃は切なかったのです。

ブルボン王朝が立ち行かなくなったのは、先代からの累積赤字のせい?いえいえマリーアントワネットとは関係ないとはいえないのです。

近年、アントワネットの人物像に対して、見直されているのは、中傷のこと、フランスのしきたりのことですよね。王妃の義務ではないのです。

アントワネットが本来の理由で処刑されたのは、このような中傷ではありません。証拠が遅れた為に、中傷を理由に裁判が続けられたのです。決して政治に無関係で完全な被害者だったわけではないのです。

masaちゃんの記事 マリー・アントワネット

記事 マリー・アントワネットが愛したもの
記事 オランプ・ド・グージュ  復讐の女神

オランプ・ドゥ・グージュは、コメディ=フランセーズにいた王妃に大声で叫びました。

「さらば、王家よ。王妃はいつかきっとご自分の思慮の無さに後悔して血の涙を流すでしょう。」


 誇り高きマリー・アントワネット 殉教者としての処刑



 Marie Antoinette

マリー・アントワネット
(1792年のものと別バージョン)


誇り高きフランス王妃とマリー・アントワネット。フランスをはずしてはいかがでしょう。生得的地位、社会的圧制に誇りを持っていたのですから。

誇り高きフランス王妃として評価するなら、敵国と内通し、フランスの国民を犠牲にすることはできないはず。本来、王妃としてフランスを守ることが義務でしょう。

その生得的地位を得ている王族、上流世界での習慣のなかで厳禁とされていることがあります。

他人に対して不愉快な気持ちを表現すること、恐れ、驚きを表すこと、身体の苦痛を表すこと、資産・財産の苦境を嘆くことは厳禁だったのです。

これが上に立つものの誇りを育てるからです。そして身分が高いものとして、「いかに生きるか」、「いかに死ぬか」の心得を持たせるのです。

裁判で姦通の質問には、はじめは無視し無言だったのです。そして繰り返すその質問に、傍聴席の母親に初めて語りかけたわけです。それは彼女の誇り。

そして、社会的圧制を続けたのがフランス王妃マリー・アントワネットです。職権の乱用での人事介入、自分の身を守るための政治介入、王室費と王妃に与えられる費用の浪費です。フランス王妃としての社会的義務を果たさずに。

さて、私が訳に挑戦したエリザベート王女へのマリー・アントワネットの遺書

Madame Elisabeth  CHARLES EMMANUEL JOSEPH LECLERCQ

マダム・エリザベート(エリザベート王女)
全体像、作者名は先のリンク記事からどうぞ。

私は代々信じてきました神聖なるローマ・カトリックの宗教を奉じて死んでいきます。

心の慰め(霊的慰藷)も期待しません。この世にその宗教の司祭がいるのかどうか、いたとしても彼らが私のいる場所に一歩足を踏み入れれば危険に晒されるかどうかもわからぬまま、死んでいきます。

私は生まれてからこれまでの全ての罪の赦しを、神願います。これは今までにもお祈りしてきましたが、私の最後の願いになります。

身分が高いものとして、「いかに生きるか」、「いかに死ぬか」の心得、そして失ってはならない自分への誇り。

彼女の遺書にははっきりと「いかに死ぬか」のシナリオが書き込まれています。

sai からの引用

タンプル塔に幽閉されてから、彼らは徐々に「死刑」を身近に感じ始めたのだろうと思う。「死刑とは犯罪人にとってのみ恥ずべきもの」と考えるマリー・アントワネットには耐え難い屈辱だ。

それを回避する手段はもう残っていないとしたら、どういう扱いで死刑になるか・・・だ。・・・名誉あるもの。

Marriage between Louis XVI and Marie-Antoinette J.-B. Butay, 1785, private collection

ルイ16世とアントワネットの結婚生活 1785 部分
全体像は→王太子妃 マリー・アントワネット


ルイ16世の遺言にも、アントワネットの遺言にも、宣誓司祭、非宣誓司祭に対しての最後まで葛藤が見えてきます。

「 ルイ16世はイエス・キリストの受難と自分を重ねている。無能な王が殉教の王になるために。」とsai は書いています。

ルイ16世は告解を聞く司祭は非宣誓司祭のフェルモン神父でした。アントワネットは宣誓司祭への告解を拒否しています。

これは聖職者の民事基本法を拒否していたルイ16世に準じた行い。つまり、フランスの国民たちが支持した民事基本法の宣誓司祭を拒否し、「神聖なるローマ・カトリックの宗教を奉じて死んでいきます。」と残したアントワネット。

これはあきらかに殉教者としての遺書になるわけです。

記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
この記事の一番最後の一言がルイ16世の殉教を述べています。
このマリー・アントワネットの作品をじっくりご覧くだい。

M. Magnin, Confessor to Marie-Antoinette

マリー・アントワネットの告解を聞く司祭マグニン(伝説です)


アントワネットの告解の伝説の場面が描かれています。聖ジョージの旗を背にしたような司祭。

清教徒(ピューリタン)革命で処刑されたイギリスのチャールズ1世は、 ウィンザー城のセント=ジョージ礼拝堂に葬られました。聖ジョージ、あのゲオルギウスのことですね!

アントワネットは文中でご紹介したように「イギリス革命」の本を読んでいました。ルイ16世もです。ピューリタン革命は、宗教革命です。

これはいろんな解釈ができますよ。ローマ・カトリックとイギリス国教、議会派と王党派。

この作品はマリー・アントワネットが聖体拝領の伝説から描かれたのか、告解をしなかったアントワネットへの揶揄なのか、物語の中から創作された部分なのか、いずれにしても想像力を試されますね。

非宣誓司祭のマグニンに告解し聖体拝領したという伝説があります。史実ではそれはないはず。

私はこの絵をみて、宣誓司祭との告解を拒否した、殉教者となるべくマリー・アントワネットの思惑に、おもわず笑み。

The Queen of Louis XVI King of France at the Guillotine, 16 October 1793

マリー・アントワネットの処刑
1793年10月16日


マリー・アントワネットは、いまこの時代に当時に王妃が受けていた中傷が見直しされているとは思ってもいないでしょう。マリー・アントワネットにとって、レズビアン、浪費に賭博などの中傷の回復よりも、彼女が殉教死したという伝説を残したかったはずです。

そしてその敬虔なクリスチャンとして、フランスを心ならずも敵にしてしまったというマリー・アントワネット像を残しておきたかったのです。

ところが、いつの時代も悲劇や他人の不幸だったことを美談にしてしまい、この王妃の誇りを傷つけるどころか、憤慨させていることでしょう。(笑)

誇り高きマリー・アントワネットは、不幸、悲劇ではなく、「敬虔で、殉教したもっとも気高い王妃」として名を残したいのです。

そして「いかに死ぬべきか」

ルイ16世が逃亡(ヴァレンヌの逃亡)の決意をした「聖職者の基本的民事法」の拒否を、逆にマリー・アントワネットは殉教の意義をそこに見出したのです。

そして「いかに死ぬべきか」

マリー・アントワネットは誰かが用意していた、新しいシュミーズに、清潔で真っ白なドレスを身につけ、美しく、威厳をもち、そして毅然と死にいくことなのでした。

ただひとつ不満なのは、最後の言葉。誇りと気高さを言葉に残すことができなくて、残念です。

私の好きな女性とは、自分にこそ忠実な人。マリー・アントワネットは自由を求めて、フランスに革命を起こしました。

宮殿の古いしきたり、作法を改革し、古い貴族達を追い出し、政治に介入し、フランスの国民を戦争へ借り出し、取り巻きや気晴らしの遊びに浪費して、そのため革命に飲み込まれたフランスの国。

オペラ、観劇、賭博に舞踏会、数々の宮廷恋愛を楽しみ、そのアントワネットの趣味は文化として残りもしなかった。ただ「いかに生きるか」を趣くままに、ありのままに、自分に忠実に。

もう、そろそろ「不幸、悲劇」の冠ははずして差し上げたらいかがでしょうか。

さて、こうしたアントワネットの「いかに死ぬべきか」の覚悟の処刑の日。当時の一市民の日記にはどう綴られているのでしょうか。そして歴史の専門家はどう見ているのでしょう。

フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月
| ブルボン家 | 17:23 | comments(6) | trackbacks(4) | pookmark |
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| - | 17:23 | - | - | pookmark |
コメント
お邪魔します。はじめてみる絵が何点かあります。コメントで質問は無礼かと思いますが、あの「?マリー・アントワネットの死に首?」ですが、あれはデス・マスクを描いたものでしょうか?

文中の[もう、そろそろ「不幸、悲劇」の冠ははずして差し上げたらいかがでしょうか。]

賛成、大賛成。今一度、マリー・アントワネットやヴェルサイユの薔薇の記事を書いた人は一度見直すべし。

ルイ17世にしても、独房とはいえ全てが揃っていたわけで、自分でしなかった。ゴマンとのおかげで、清潔な部屋とベットと身体で亡くなることができたというわけです。

ところが排泄物と不潔な部屋でそのまま亡くなったと考えている人も多い。それは間違いではなく、そうあってほしいという日本人の悲劇的な傾向によるものと考えます。

その一方で、タンプル塔で亡くなったのがルイ・シャルルで可哀想、残念だというコメントもあります。もうすでに、日本人は物語の中だけで思考し、それが別の少年であればハッピーエンド。

これは日本人の「人を憐れむ」という身勝手な意識で、ルイ16世一家は「可哀想で悲劇的でなければならない」という決め付けから生まれる偽善です。

それを[亡くなった少年が、犠牲者になった「身代わりの少年」でないことを願うだけです。]とお書きになられています。結構なことです。この少年の心臓をルイ16世ではなくアントワネットの家系と一致させたのかが謎を解く鍵です。

あと、どうぞ良いお年をお迎えください。わたくし、明日から海外にまいります。では。
| 静流 | 2010/12/23 8:36 PM |

はじめまして。なかなか書かれなかったアントワーヌ・シモンの話は、こちらの記事とリンク先の記事でも読ませてもらいました。

読んでいる本が違うのか、政治や社会情勢の流れもつながってきます。

そこでですが、これはあくまでも私の考えですが、シモンははじめはコルドリエ・クラブで、処刑のときはジャコバン派。あるいは初めからジャコバン派かなと。なんせロベスピエールと同じ処刑日だからです。

また記事にあるようにシモンは虐待を加えたという事実はなく普通の家の子として扱ったといいます。

あとはエリザベート王女のところにコメントさせてもらいます。
| 靴屋のシモン | 2010/12/23 8:54 PM |

ご無沙汰です。

靴屋のシモン、また上品な絵を見つけましたね。(嫌味)ほとんどが虐待シーンの版画と殺人者の手配書のようなシモンの顔だし。そして「目が飛び出るほど殴られ、壁に叩きつけられる。」なんて書かれている。これこそデマで。小説にこれは現在は違うって注釈がないのか、読む側にある程度の知識がないとダメかもね。

王党派の作家たちが書いたかもしれないというところにマレ・デュ・パンが登場していますが、ありえます。他にナポレオン没落後に過激王党派だったシャトーブリアンはどうですか。彼はマリー・テレーズが嫁いだアングレーム公爵の父シャルル10世の身近にいた人で、マリー・テレーズの回想録に手を加えさせたかも。
| ComicStrip Jr | 2010/12/23 10:44 PM |

静流さま、あけましておめでとうございます。

新年は海外なんですね。まさか、フランス?パリでしょうか?

質問の件ですが、それを描いたものですね。フランスがレカミエ夫人の時代になると、青ざめた化粧が流行するようになるのは、とても美しかったからだといわれています。

わたしは、マルキ・ド・サドが書いたジュスティーヌのように、美徳な人が称される冠だと思っているのですね。

ですからアントワネットは誇り高き王妃、もっとも気高い王妃が合っていると思います。

今年もよろしくお願いいたします。
| 楓 | 2011/01/03 5:29 AM |

靴屋のシモンさま、あけましておめでとうございます。はじめてのコメント、ありがとうございます。

コルドリエ・クラブで、のちにジャコバン派という考えもアリですね!ただ、ジャコバン派というのは区別がつきにくく、たとえばコルドリエ・クラブを粛清しましたが、いわゆるジャコバン派のひとつでもあるのですね。

流れというべきか、宗教のようなもので、仏教、キリスト教はあきらかに違いますよね。

でもカトリックとプロテスタントはキリスト教ですよね。

つまりその派=教とお考えなられるのもよいと思います。

今年もよろしくお願いいたします。
| 楓 | 2011/01/03 5:34 AM |

ryo-ちゃん、あけましておめでとうございます。

そうそう、シャトーブリアンがいましたね。

今回、書初めでプチ・トリアノンを書いたのですが、ユベール・ロベールも王党派になりますよね。

本人の意思とは関係なく、宮廷に仕えた画家ですし。

シャトーブリアンについて今度調べてみますね。

今年もよろしくね!
| 楓 | 2011/01/03 5:40 AM |

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フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月
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| remove | 2010/12/23 5:29 PM |
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アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル(1746年6月12日 - 1795年5月7日) アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはあのエベール、ダントン、親戚のカミーユ・デムーランそして彼の同志だったロベスピエールにも死刑を求刑した。被拘禁者に起訴状が渡されると48時間以内に裁
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