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ジャンヌ・デュ・バリー 傾国の美女デュ・バリー夫人
フランスのヴォクリュール。ジャンヌ・ダルクが誕生した地に、1743年8月17日マリ=ジャンヌ・ベキュー(Marie-Jeanne Bécu)が生まれました。

Mme Du Barry

デュ・バリー夫人
by フランソワ=ユベール・ドルーエ


身持ちの良くない女の私生児。のちのデュ・バリー夫人です。

ところが母アンヌ・べキューがブルジョワ層の金融家と再婚するなり、パリの聖心崇拝会の修道女として正規の修行、そして語学、算術、歴史、音楽を学んだのです。

15歳で修道院を出たジャンヌ。美容室ラメッツ(Lametz)、マダム・ラ・ガルドのコンパニオンなどの職について、17歳の時に、モード・サロン「ア・ラ・トワレット(À la Toilette)」の美人の売り子として人気を博します。この当時のジャンヌの顧客に女流画家アデライド・ラビーユ=ギアールがいます。

ジャンヌの取り巻きには、ルイ15世の官職保有層のひとり、サント・フォアがいました。つまりルイ15世はサント・フォアの驥尾に付すかたちとなったわけです。

1763年、ルエ(極道者)と呼ばれる貴族ジャン・デュ・バリーは、貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などをジャンヌの相手として売春をさせます。優雅な生活と引き換えに。

一説に

「ジャンヌはマドモワゼル・ランジュ(マドモワゼル・ランゲ)の如く パリにセンセーションを巻き起こす」

Girodet, Mademoiselle Lange en Danaé (1799)

スキャンダルになったダナエに扮したランジュ嬢 1799年
ジロデ(Anne-Louis Girod)


ランジュ嬢というのは女優で、当時は肖像画にも多く描かれた人。1799年にジロデの「ランジュ嬢のダナエ」がサロンに出展され、相当なスキャンダルを呼びました。でも、デュ・バリー夫人より30年くらい後の人です。ということは、夫人が亡くなったあとに、こうした比喩が用いられたのでしょうか。

Madame du Barry
As Mademoiselle Lange, she immediately became a sensation in Paris
ジャン・デュ・バリーは、家柄や教養のある男性をジャンヌに相手をさせたのは、ポンパドゥール夫人の後釜に据えるつもりでいたのです。目論見とおりに社交界でも通用するような話術や立ち振る舞いを会得していくのです。

宮廷入りに一計を案じ、弟ギヨームと偽装結婚をさせ、ジャンヌ・デュ・バリー伯妃が誕生したのです。

こうしてルイ15世のもとに送られたデュ・バリー夫人に、「この種の卑しくも恥ずべき情事」として宮廷のなかに反デュ・バリー夫人派が対抗してゆくのです。ポンパドゥール夫人の重臣だったエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール公爵。



フローラに扮するデュ・バリー夫人 1770
by フランソワ=ユベール・ドルーエ


そしてデュ・バリー夫人には反ポンパドゥール夫人派のリシュリュー枢機卿。

反デュ・バリーの空気を読んでいたルイ15世は早々に披露の儀式を執り行います。1769年、ジャンヌ26歳。認証式に必要な代母にマダム・ド・ベアルン。アレクサンドル・デュマ(父)の「ある医師の回想」の第1部ジョゼフ・バルサモに登場もするマダム・ド・ベルアン。このデュ・バリー夫人の認証式にかかわる一騒動が書かれています。

デュ・バリー夫人はポンパドゥール夫人と違い、初めから国王の威を借り、宮廷儀式や枢密顧問官会議に積極的に関わりだします。

ジャン・デュ・バリーによって相手をさせられた紳士たち。思想を持ったア文士、ヴェルサイユの慇懃や礼節に染まりぬいた貴族たちの相手との経験は、デュ・バリー夫人が政局に臆しない寵姫として振舞える所以です。

ポンパドゥール夫人のように、ルイ15世の四内親王アデライード王女、ルイーズ王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らに侍るようなところもなく、この「叔母君殿下」とショワズールはデュ・バリー夫人の排斥運動を煽動します。

Portrait-of-the-Countess-du-Barry-xx-Francois-Hubert-Drouais

花の女神フローラに扮するマダム・デュ・バリー
by フランソワ=ユベール・ドルーエ

そのかみ、余の幸運と栄光は娼婦たる女性の賜物
されば、いつの日か、寵を失うのも彼女らのためならん

ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の取立てでショワズールは出世。今度はデュ・バリー夫人によって引き降ろされる番、という戯れ歌が流行。

こうしたなか。ショワズールはマリー・アントワネットと王大子ルイ・オーギュストの縁談のために奔走します。のちにアントワネットはショワズールの失脚で、デュ・バリー夫人に一層の敵意をもつようになります。

このマリー・アントワネットが王大子妃として興しいれになったのはデュ・バリー夫人が30になったときでした。

1770年、5月14日午後3時、コンピエーニュでルイ15世、王太子ルイ・オーギュスト、叔母君殿下たちと一緒にデュ・バリー夫人はマリー・アントワネットとなった大公女マリア・アントーニアを迎えたのでした。

Madame du Barry

デュ・バリー夫人


オーストリア宮廷には愛妾が存在していませんでしたが、フランスの宮廷での特別な女性権力者という愛妾の存在。

道徳的に王太子妃はデュ・バリー夫人を憎んだのでしょうか?

違うと思います。叔母君殿下が最高地位者でもなく宮廷で権力を発揮していたことにマリー・アントワネットは気が付きます。そして特別な女性権力者愛妾のデュ・バリー夫人。

身分が卑しい女性が、「蔑むべき売春婦」が、宮廷で権力を持っていたことが許せなかったのだと思います。

このデュ・バリー夫人とその取り巻きは何を目論んでいたのでしょうか。

王権強化や国家財政の建て直し、司法制度の革新のために高等法院の力を削減



デュ・バリー夫人の私室で
コーヒーあるいあはチョコレートを渡すザモラ
ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ


王妃マリー・アントワネットとその取り巻きは何を目論んでいたのでしょうか。
義務を果たさず権利を主張すること
この違いを考えると、少々デュ・バリー夫人の肩を持ちたくなります。

There are many people at Versailles today
今日もヴェルサイユはたいへんな人ですこと
マリー・アントワネットが最初で最後にかけたマダム・デュ・バリーへの言葉。



デュ・バリー伯爵夫人
by フランソワ=ユベール・ドルーエ

貴女はデュ・バリーさまを、陛下の宮廷にも社交界にも出入りを許された貴婦人として、仰ぎ見る以外の目を持ってはなりませぬ。
母マリア・テレジアの手紙からアントワネットを諭しているのですが。ポンパドゥール夫人とは違い、王妃マリー・レクザンスカが亡くなっているのです。

各国大使はフランス国王を動かすために、誰を動かすのかを知っています。デュ・バリー夫人です。ところがマリー・アントワネットも叔母君殿下たちも、外交の主役ではありません。

マリア・テレジアは国を治める女帝として、デュ・バリー夫人の存在をアントワネットに知らしめます。ところが、たった一度の言葉かけで終わりにしてしまう。

それではデュ・バリー夫人はどういう器だったのでしょう。



ルイ15世とデュ・バリー夫人


仇敵ショワズールの求めに応じ、「すべてを水に流す」ことができる女性だったのです。ショワズールと国王の仲を調整したり、アントワネットのために、日に日に広まる噂を鎮めるため、事態を国王に話したわけなんですね。

王太子妃マリー・アントワネットにも誠意をみせていたとありました。

1774年、ルイ15世が天然痘に罹り、国王は王太子妃からデュ・バリー夫人の身を守るため、ポン・トー・ダム修道院に送ります。表向きは親類縁者の追放になります。

宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官の人脈でパリ郊外のリシュエンヌに起居し、その後はド・ブリサック元帥・シャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり優雅な生活を送りますが、革命後のイギリスでは亡命貴族たちの援助をおこなってもいます。

ところが、1793年に舞い戻ってくるのです。



フランス革命 デュ・バリー夫人とランバル公妃
(C)buzzle.com


彼女と一緒の牢獄にいたのが、オルレアン公ルイ・フィリップ2世の愛妾グレース・エリオット。王妃の処刑の毅然とした死に際に二人は感動を覚えます。

こうしてデュ・バリー夫人も断頭台に消えてゆくのです。

泣き、叫び、懇願の果てに。

ジャンヌ・ダルクと同じ地に生まれ、同じように捕らわれ、同じように処刑されたヴォクリュールの二人目のジャンヌだったのです。

記事参考文献
マリー・アントワネットの生涯 藤本ひとみ
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン
さて、デュ・バリー夫人の生涯は皆様にとって、どのように映ったでしょうか。彼女が残した芸術品に触れながら、すこし探ってみたいと思います。



Seven Plaques Mounted on a Pedestal Table


こちらはマルタン・カルラン(c.1730-1785)の製作による、デュ・バリー夫人のペデステルテーブルに置かれていた円卓磁器です。

中央にはカルル・ヴァン・ロー (Carle Van Loo)が描く「愛妾を前に演奏会を開く偉大なスルタン」が描かれています。まわりの6つの絵柄は、アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau)の複製。



Martin CARLIN (attribué à ), Charles-Nicolas DODIN

マルタン・カルラン作 デュ・バリー夫人のコモード 1772
© R.M.N./D. Arnaudet


こちらがマルタン・カルランが製作したマダム・デュ・バリーのコモードです。中央に描かれているのがフィルールの版画によって知られていた、ジャン=パティスト・パテール(1695−1736年)の「L’Agréable société〜楽しい仲間」で、左右逆にしたそうです。

ルーブル美術館より引用
3枚の磁器板は、愛と音楽を謳っている。側面には「喜劇」 と「悲劇」 が見られ、これは、1752年カルル・ヴァンロー(1705−1765年)によって、ベルヴュ城のポンパドゥール夫人の社交サロンのために制作。
絵付けは、 シャルル=ニコラ・ドダンです。ポンパドゥール夫人の陶器の絵付けも手がけています。



Jean-Honore Fragonard, 1773


Jean-Honore Fragonard, 1773


フランソワ・ブーシェ、カルル・ヴァン・ローに師事したジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)は、ルーヴル美術館の学芸員でもありました。ところがアカデミーに入会もせず、サロンとも一線を画し、ひたすら寓意的で官能的な装飾画を作成していくような画家。

デュ・バリー夫人はルイ15世からの賜物であった「ルーヴシエンヌの館」の装飾画をフラゴナールに依頼します。

「恋の成り行き」(1773年)の4連作。

左上が第一場面でなないかとされている「逢引」、右が第三場面の「恋人の戴冠」です。左下は「恋文(恋の告白)」で、右下が第二場面の「追跡」。

ところが新古典様式のお城には似合わないということで、フラゴナールに返却されています。




こちらはフラゴナールの「物思い」です。こちらが4連作のあとに描かれた最後の1枚ということですが、1790-91年に描かれています。これがデュ・バリー夫人ではないかということです。フランス革命のなか、失墜した夫人とブルボン朝、ロココ時代の終息を象徴しているのではないかと言われています。



ルーヴシエンヌの館はパンティエーヴル伯(ランバル公妃の義父)が権利を放棄したあと、ルイ15世がデュ・バリー夫人に与え、彼女はそこを1793年に処刑されるまで所有していました。

改装はアンジュ=ジャック・ガブリエルに依頼し、クロード=ニコラ・ルドゥーの手によって「愛の神殿」つくりが始まります。

ジョゼフ=ニコラ・ギシャールが彫刻を施し、ジャン=バティスト・カニーの金箔とフランソワ・ラビットの布張りで装飾されます。

Jean-Baptiste GREUZE - Tournus

壊れた甕
ジャン=バティスト・グルーズ


この絵画はデュ・バリー夫人が直接依頼したといわれている作品で、ルーヴシエンヌの館にあったものです。

作品解説 失われた純潔 ルーブル美術館より引用

無邪気な目を大きく見開き、紫色のリボンと花を頭に挿した、子供っぽい無垢な少女が佇み、ドレスの中で散った花を両手で押さえている。ひび割れた甕が、少女の左腕に掛けられている。フィシュ(三角形の婦人用スカーフ)は乱れて、少女のふくよかな喉下が垣間見え、ドレスの身ごろに付けられた一輪のバラの花弁はむしられ、白サテンの美しいドレスはやや無造作に身に付けられている。

失われたというより奪われた純潔のような気がします。

デュ・バリー夫人は芸術家たちを擁護し、作品の質の高さを見極める目を持っていました。彫刻も好きで、その当時の優れた彫刻家たちに作品を注文していたようです。とくにご贔屓だったのがオーギュスタン・パジュ。

芸術への執着はファルコネの「入浴する女」の出来上がりに、依頼したイメージと違うと壊させたりもするほど。



デュ・バリー夫人


アーサー・ヤングのフランス紀行にデュ・バリー夫人に触れた日記があります。

1787年6月14日[トゥールズにて]

ほかに見物したものに有名な伯爵夫人の夫兄弟、デュ・バリー氏の家がある。日陰者の世界から身請けし、実弟の正妻におさまらせたという逸話を講じて、一身代つくることに成功した。

デュ・バリー夫人の肖像画があるが、本人にそっくりだそうである。あんな絶世の美女に宝石箱を与えた一件で、国王が犯した愚考の数々も、つい許す気になってしまうだろう。
誰が描いた肖像画をみたのでしょうね。実際に会った王妃マリー・アントワネットのことを「今日見た中で一番の美人」と表現していたアーサー・ヤング。肖像画のデュ・バリー夫人を「絶世の美女」と日記に記すあたり、気になりますね。





首飾り事件のネックレスデザイン画
(C) wiki


ルイ15世が宝石商シャルル・ベーマーとポール・バッサンジュに依頼した、デュ・バリー夫人への贈り物。

もともとデュ・バリー夫人のネックレスとして注文されたものが、ルイ15世の逝去とデュ・バリー夫人の追放で、立ち消えになってしまったものですが、のちのフランス革命の一端にもなった事件ですね。

大小540個のダイヤモンドからなる160万リーブルの首飾り。

アントワネットは、デュ・バリー夫人のためにつくられた高額なネックレスに購入を躊躇します。

ここで不確かなのは、「躊躇してた」というところ。はっきりと断らなかったのですね。アントワネットは断れなかったのだと思います。「どうしようかしら・・・」と。

その曖昧さに仲介を頼まれたラ・モット伯爵夫人はその首飾りを自分のものにするため、画策します。

誰が原因をつくったのでしょう。「躊躇した」王妃ではないでしょうか。



デュ・バリー夫人は人間らしい愛と快楽を求め、贅沢で優雅な生活に身をおいてきました。彼女が特別に浪費したわけではありませんが、ルイ15世が彼女のために浪費したのは確かなことです。

ルイ14世の時代から、重税に苦しんだ第3身分の平民たち。

マリー・アントワネット フランス紀行から
ルイ15世の寵姫のなかでもっとも名が残ったポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人。デュ・バリー夫人はポンパドゥール夫人のように、いくつもお城を改装した記録はありません。

私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール
ポンパドゥール夫人の時代の戯れ歌の一節に

当節、御代はならず者
城や出費で国庫は空で
国家はお先真っ暗やみ
国王なんにもなさらない

結局、ポンパドゥール夫人の優雅な生活がのちのちに歪を生み出したのかもしれません。



Portrait de Madame du Barry (1743-1793) Vigée-Le Brun Elisabeth Louise

デュ・バリー夫人
Vigée-Le Brun Elisabeth Louise
エリザベード=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


元凶はポンパドゥール夫人。そして王妃についたのが空っぽな頭のマリー・アントワネット。その狭間に生きたデュ・バリー夫人。

どちらにしても国庫の底力で、夢のような生活を一時期でも過ごせたのですから、断頭台で消えたこともあながち間違いだとも思いませんが。

それにしてもフランスに戻らなければよかったのに。

運命の力が引き戻したのでしょうね。

wiki に、「傾国の美女とも哀れな女であったとも言われる」とありました。傾国の美女とはご存知のとおり、寵愛のために 国をも滅ぼす美女のこと。

国庫を空にした傾国の美女は果たしてデュ・バリー夫人なんでしょうか?

王国の黄昏時に寵姫となったデュ・バリー夫人。哀れな宿命の女性。
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