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オランプ・ド・グージュ  復讐の女神

「祖国の子らよ!私の死に対して復讐せよ!」

1793年11月3日の午後4時。2週間前にアントワネット。5日後にはマノン・ロラン。

美貌と才能に恵まれたオランプ・ド・グージュ(Olympe de Gouges)の最後の気丈さと気高さ。

嘘をついて数ヶ月の命乞いをしたわりには・・・。誰かが、「自由な考えを持っている才人が殺された。きっとこれからも。」と嘆いています。

Olympe de Gouges Alexandre Kucharski (1741-1819)

オランプ・ド・グージュ


自分の主張を曲げることなく、常に正当であることを示したオランプ。

相手が認めるまで同じ主張を繰り返し(彼女の言葉を信じるなら)、自らを世に知らしめようとした一人の女性。

この時代、女性の権利を主張した人物でもあるのですが・・・。決して正義からではなく・・・。


辻村みよ子さんの訳で読んだ「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」は、粉飾されたような調子ではなく、事実を確認できる一冊です。

今回はこちらの「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」、wikiなどから、ルイ16世とアントワネットに関わった部分を主に引用、要約させていただきます。

彼女のルイ14世に寵愛されていたモリエールが残した「コメディ=フランセーズ」と、彼女が政治的に達する戯曲の公演との葛藤などは省略しています。また、彼女の政治的活動も大幅に省略しています。

ですから、私の辛口記事だけで、「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」、「オランプ・ド・グージュ像」を決め付けないでくださいな。本書では、楓のオランプに対しての辛辣な見方は、全くされておりませんので。


オランプ・ド・グージュ


肉屋のピエール・グーズの娘です。母の愛人だったル・フラン・ドゥ・ポンピニャン侯爵の娘だったと公言し、たいへん身分に執着していたように思えました。

本名はマリー・グース。おざなりな教育を受けた当時の一般的な女性です。読み書きが弱く、方言が強いこの女性は、のちに女流作家になります。

このオランプ・ドゥ・グージュいわく、「14歳になったばかりで、金持ちではなく、いい生まれでもなく、愛してもいない人と結婚させられて」という不幸を味わったそうです。

おかかえ料理人の妻となったのですが、このルイ=イヴ・オヴリィという夫は宮仕えを辞め、フルシェ通りに店を構えます。

社会的に裕福なプチブル層に属したわけです。結婚後2年にも満たず、彼女は未亡人になり、その後は人目をひく美しさで、「お金持ち」、「いい生まれ」の男性達と「自由婚(愛人)」を楽しむ未亡人となるのです。


 オランプの愛人生活

未亡人になったオランプは、文筆活動をはじめます。おざなりの教育で、口述筆記だったそうですが、戯曲、小説を書き、のちにギロチンへ導くことになる政治のパンフレットも書いていくのです。

おざなりな教育しか受けられなかったこのオランプ・ドゥ・グージュですが、「秘書回想録」に、「その美貌と、文学者の経歴と妾としての成功のおかげで、時代の先端をいく女傑と肩を並べるようになった。」とありますが、楓もそのように思います。

辻村みよ子さん訳、オリヴィェ・ブラン著の「女の人権宣言 オランプ・トドゥ・グージュの生涯」に、彼女の肖像画に触れています。

カルナヴァレ美術館に、1784年に作者不詳の「マリー=オランプ・オブリィ・トドゥ・グージュ」の未公開の肖像画が保管されていると。

彼女は「パリの美人」にも名が載ったほどで、ラヴォワジエ夫人、アニエス・ドゥ・ビュフォン、フランソワーズ・リヴァロル(文人リヴァロルの妹)、ランジュ嬢と競っていたのです。

そして、マリー・アントワネットのように、民衆の反感を買うほどの並はずれた贅沢さを持つ特権階級の一人になったのですね。

オランプが「才人の仲間入り」をするために愛人暮らしをやめたのは30歳のときのことでした。


 王妃マリー・アントワネットへの罵声

あるとき、オランプが大勢のお供を連れてコメディ=フランセーズに入ろうとしたら、王妃マリー=アントワネットが前を進んでいたそうです。

グージュの「シャンゼリゼのミラボー」の序文に、このときのことを書いてます。

「彼女の身のこなしといい、物腰といい、目もくらむほど優雅だったのは、今も覚えている。人々は小声で言ったのに、私は大声で「さらば、王家よ。王妃はいつかきっとご自分の思慮の無さに後悔して血の涙を流すでしょう。」と声をかけた」

その声は届いたのでしょうか。無視されたのでしょうか。本当に声をかけたのでしょうか。

marieantoinette_young

マリー・アントワネット


とにかく美貌と作家活動で成功しているものの、人としての名誉や女性としての名誉には成功しなかったように、私は感じています。

ただし一方では当時の作家たちと同じように、貧困者の救出に、自分の戯曲をそえ、オレルアン公の愛人に用立てる手紙、そして彼女の公演のいくぶんかの収入をあてるなどしていたようです。

こうしたオランプの活動と美貌は社会的にも人目を引くようになりますが、王妃マリー・アントワネットへの「王妃はいつかきっとご自分の思慮の無さに後悔して血の涙を流すでしょう。」という声かけが、何事も起こらなかったというのは、王妃にとっては日常になってしまっていたのではないでしょうか。

きっと「放っておきなさい。」と王妃は言ったのかもしれません。「あぁ、なんて忌々しい」と心の中でつぶやいて。


 オランプの政治的活動

1788年、「人民への手紙 −女性市民による愛国基金案−」は、オランプの最初の政治的パンフレットを刊行しました。

「権力を欲しいままにしている王妃、フランス人たちの国王よ。あなたがたの民の苦難をほんの少し綴ってみました。」とあります。

お金持ちや宮廷をたじろがせる「愛国者の提言」がありますが、オランプは王党派として王政への配慮はしていたのです。

そうして「アンパシャン(抑えられない焦燥感)」という新聞を創刊。ジュ・ド・ボム(球戯場の誓い)の頃。

オランプの言葉を借りれば「田舎は荒れ果てている。不幸な農民はつましい藁葺きの家に住み、もう食べるものとてない。豚のえさが今では彼らの食事となってしまった。昔は惜しげなけ動物に与えていたものを、今は人間が家畜と分かち合っている。民衆が欲しいのはパンだけだ。」という生活です。

La Fayette and Marie Antoinette 6th october 1789

1789年10月6日 ラ・ファイエット将軍と王妃マリー・アントワネット


1789年には彫刻家の妻を筆頭に芸術家たちの家族が、「豪華だけれど無意味な装飾品」を国庫へ寄付しています。

この同じ頃、ヴェルサイユではルイ16世は狩に、アントワネットはトリアノンで農婦として遊んでいたのです。しかもヴェルサイユ行進の翌日6日には、王妃の寝室にフェルセンが。

記事 惨殺されたフェルセンの最期

そして狩や農民ごっことおなじように、ルイ16世もアントワネットも「寄付・救済ごっこ」はしていたんすよ。「王妃の飾り帯」という国民から祝い金を贈る風習を廃止、「博愛の家(メゾン・フィランソロピー)」の後援、じゃがいもの普及の支援、施しものの配布など。

過去記事 マリー・アントワネット フランス紀行から(英国人の日記)

この1789年のヴェルサイユ行進(10月行進)では、なんとヴェルサイユのオランプの自宅にも侵入してきます。オレルアン家の厩舎の出(ル・フラン・ドゥ・ポンピニャン侯爵)だからでしょう。このときサド侯爵夫人はパリを脱出しています。


 国王、王妃への意見表明

1791年6月、国王のヴァレンヌの逃亡では「国王はその地位にとどまるべきか?」で、「宮廷の考え、王家の改革同様に、王妃、マダム・エリザベートにも改めていただかなければなりません。愛国心ある男女両方の市民を、特権階級と愛国的な旧貴族たちのポストにつけるのです。」

オランプは国王を非難しながらも、国王を取り巻く人々(王妃を含めて)は、国王に信頼を寄せていないことを知っていました。

この機に乗じて、「女性の国民衛兵」の組織化を提案します。また、これまで宮殿にいた王女、公爵夫人、侯爵夫人たちを追放し、祖国のために働く女性達を送るという意見を表明します。

「王妃、マダム・エリザベートにも改めていただかなければなりません。」というくだりは、祖国のために働いてください。ということなんですね。

オランプは国王が「死骸のピラミッド」の上に君臨しようと思っているのではないかと疑っています。

国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、コンデ公、デュヴェリエ宛てに4通の「請願文(公開質問状)」をしたためます。

Desrais / Frussolte, Frontispiz, Kupferstich, 1788, Paris, Bibliothèque Nationale. Gouges und Marie-Antoinette &First page of Declaration of the Rights of Woman and the Female Citizen

右:女性および女性市民の権利宣言の前文
左:オランプ、王妃アントワネット、ルイ16世


オーストリア皇帝と連絡を取り合っていた王妃マリー・アントワネットが戦争に追いやる決心をしているとオランプは思っていたのでしょう。

王妃の内通に関して、容赦なく指摘したのが、このオランプだったのですね。

残念ながら「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」では、コンデ公への請願文だけでした。(王妃の請願文がありました。女性の権利のところに追記しています)

「一人は歌い、踊り、15歳の若者も、もう自分がシーザーだと信じてしまいます。かわいそうに。銃をやっと担げるだけなのに。興奮は絶頂に達し、目が眩むほどです。誰もが戦いへ飛んでいくと信じて。誰もが死地に赴くのです。」

それでもオランプの、国王を拘禁することはないだろう。権限をとりあげることはないだろう。と考えているところが、政治家としては向いていないところではないでしょうか。

教鞭な弁やペンを剣にするところなど、ミラボーさながらのようですが、結局見通しが甘いのです。とても鋭い視点で発言しているのに、「まさか王が処刑されるなどありえない」という思い込みを前提にあるように思えます。


 オランプとランバル公妃、王妃マリー・アントワネット

1792年3月、暴動を鎮めようと仲裁にはいるエタンプの市長ジャック・ギヨーム・シモノーが群集に殺されてしまったのですが、議会は殉教者として葬儀を6月の祭典にしようと決議します。

暴動は生活物資の値上がりと穀物不足。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月

オランプは再びこの機に乗じます。

5月、自分の愛国心を世間に知らしめる絶好の機会だと、議会に出席。「フェミニストの愛国的な請願」を朗読するための、女性たちによる厳かな行列を考えだします。

ダヴィドの絵に描かれているような衣装をまとってそれぞれが「自由」、「ベロナ(戦争の女神)」、「正義」、「フランス」という寓意を演じるのです。

有名な画家ダヴィドは国王一家がタンプル塔に幽閉されたのち、委員となって国王一家の巡視にいくことになります。

さてこのオランプ。演出にも気を抜きませんね。男性にはできない政治的演説。こういうところが、賛美両論になるのではないでしょうか。

この祭典で、オランプは王妃マリー・アントワネットへ祭典の資金援助を依頼したのです。

「王妃様、エタンプのシモノー市長に捧げる祭典は法の勝利を讃える記念すべき日となりましょう。この法には王妃様も従わなければなりません。この法こそが抑圧されている者をささえ、王妃の権利をも守るのです。どうぞ過去を振り返り、そして未来に目を向けてください。」

この手紙は後に公表されたようです。



ランバル公妃


ところがランバル公妃はこの請願に答える必要はないと判断したのです。(Sai の言葉を借りれば、残念な女官長ですね!)

オランプは、なんとチュイルリー宮殿に赴き、ランバル公妃に言い放ったのです。

「暴君は遅かれ早かれ共犯者を破局の淵に突き落とすでしょう。」と。

ランバル公妃は恐れ慄き、ついにマリー・アントワネットの意見を伺ったのです。

マリー・アントワネットがオランプ・ド・グージュという女性に目を向けたのはこの時です。あの「コメディ=フランセーズ」で、オランプが声を張り上げたことも記憶にないでしょう。そして1791年の6月にオランプが王妃に出した請願書も見ていなかったのかもしれません。(ランバル公妃によって)

もしかすると、ランバル公妃の浅はかさで、アントワネットはフランス王妃としての役割を示す絶好の機会を潰してきたのかもしれませんね。

さて今回は、王妃マリー・アントワネットに伺いを立てる破目になったランバル公妃。

王妃は王室費用から1200リーブルを届けさせたのです。

Marie Antoinette, Queen of the French, 1792

マリー・アントワネット


王妃は、初めてオランプに興味をひかれ、臣下をオランプの自宅に差し向けて調べさせました。

オランプ曰く「使者は門番に100ほどの質問をしていった。元王妃にとっては年金と地位だけが知りたいことのすべてだが、私はそのどちらも縁がない。」と、1792年の「道徳的釈明」で述べています。

この「元王妃」とは・・・。同年のタンプル塔幽閉後だからでしょう。

6月3日の「法の祭典」は、シャン・ドゥ・マルスでおこなわれました。葬送行進曲の演奏がはじまり、行列が足元にさしかかったとき、突然の雷雨に見舞われました。

「白い衣装で樫の枝を頭にさしたこの一団は、彼女たちが期待したほどに成功しなかった」そうです。

ジャコバン派が厳しく非難した法律の祭典。そして雷雨。まるでアントワネットの結婚式の当日のようです。

オランプの未来もアントワネットの不吉と紙一重のよう。

記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉


 オランプ・ド・グージュが解説する ルイ・カペーの死刑判決

1792年6月18日のオランプからぺティオンへの手紙

「月曜にフォーブール・サンタントワーヌヌを下ってチュイルリー宮を襲撃する予定は、憲法に反しています。私はフォーブール・サンタントワーヌの王よりチュイルリー宮にいる国王を好むわけではありません。−(略)− けれども憲法がわれわれにチュイルリー宮の国王を与えている以上、国王への尊敬の念を失ってはならないのです。」

1792年6月20日、群衆がテュイルリー宮殿に乱入し、フランス国家への忠誠の象徴である赤い帽子(フリジア帽)を国王に被せるという事件です。(wikiより引用) このチュイルリー侵入事件の予定を、オランプは知っていたのですね。手紙を送られたぺティオンは、パリ市長のペティヨン氏。彼はこの事件のあと解職され、また復職しています。

記事フランス革命下の一市民の日記  1792年の6月

そのペティヨンは翌月の7月の連盟祭では、民衆から礼賛を受けるのです。ここでもオランプは賛美の外でした。

記事フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月

その後、オランプは王制を擁護する立法議会を紛糾します。

オランプはきっと、王を処刑することになるとは思ってはいなかったでしょう。ここがオランプの甘さ。そして決定すれば変わり身が早い。それが命とりになる。

王妃アントワネットに資金を援助させた「法律の祭典」ですが、オランプは恭しく、「王妃から資金を援助いただけた」という人間性ではありません。ほかの人に賞賛をしない人。

「私が王妃に資金をださせた」という人物像が楓の見方です。

そして8月10日事件。オランプの「北のドン・キホーテへの挨拶」では次のように述べています。

「この8月10日の健全な暴動が、すべての善良な市民を優柔不断につなぎとめていたゴルディアスの結び目を解いたのだ。」

2ヵ月前の手紙では、「けれども憲法がわれわれにチュイルリー宮の国王を与えている以上、国王への尊敬の念を失ってはならないのです。」と書いていましたのにね。

こうしたオランピアの曖昧な政治活動が身を滅ぼします。

7月に議会内で対立が激化したときに、オランプが仲裁するために配布したパンフレットは、「(男と女の)社会契約」というタイトルですが、「ルソーと同じ見解と思想で和解させた」といわしめたそのビラは、テルモメートル・デュ・ジュールによれば、「ラムレットの演説と同じで、もとをただせば根源はひとつで、それはチュイルリーにあると信じ込ませる正当な理由となる」となります。

司祭ラムレット(ラムーレット)の演説は、新聞報道され、ラムレットの抱擁、ラムレットの接吻という言葉でも残っていますが、オランプは何も残りません。

もっともだと思います。オランピアはどちらにも、たとえば王党派でもあり、民主派にもみられ、上流社会に憧れているとおりに貴族派にもみられるのです。ブレイの牧師そのもの。

自分の足で立ち、自由と平等を求めた女性とは言い切れません。それはすべてが「自分が」なんです。「国民が」という言葉にどうも置き換えにくい。

それは全てが奇抜で個性的な「私流」なので、先ほども書きましたが、「王党派でもあり、民主派にもみられ、上流社会に憧れているとおりに貴族派にもみられる」わけです。」というのが楓の見解。

「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」では、新しい女性のイメージを世間に示すことに寄与しようとしていたとありますが、あまりにも「私」が先にたってしまったのではないでしょうか。

Lxvitest Saint Agnes day, is the dies natalis of the Roi-Martyr,


アントワネットのかわりの、ファッションリーダーは私!という具合に。だから自分を売り込む機会は見逃さない。慈善事業も政治活動も。

ただし「私流」なので、人望と人が集まらないと思ったのです。

雄弁で相手をまかせても、恨みを買うだけで尊敬を集められない。王妃と似ています。

そもそも30歳まで、貧困から逃れるために「愛人」となって、数多くのパトロンまでもち、そのなかでパトロンを破産させるほど、他人にお金を出させたこのオランプが自立しているとも思えません。

ただ美貌と威厳という容姿に、演出が巧く、雄弁で口述筆記をさせた文筆に、素晴らしい才能はありました。

さて、「この8月10日の健全な暴動が、すべての善良な市民を優柔不断につなぎとめていたゴルディアスの結び目を解いたのだ。」と言ったオランプ。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月

そして9月虐殺がやってきます。

記事 ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸
記事  クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

オランプはこの血に染まった革命期に憤慨します。そしてヴァルミーの戦いも終わり、国王の責任が問われることになっていきます。

オランプは12月15日に、「私はルイの擁護者となるつもりです。ルイは国王として過ちを犯したと思います。しかし称号を剥奪され共和国となったいま、彼の罪はなくなるのです。ルイは彼の兄弟や息子より危険な人物でしょうか?ルイ・カペーの息子は無実で、彼の跡を継ぐでしょう。」という手紙を書きます。

おもいがけす、オランプはルイ16世の擁護者の一人となります。

1973年、1月14日からはじまった投票。387人が死刑賛成となりました。

オランプは「オランプ・ド・グージュが解説する ルイ・カペーの死刑判決」の赤いポスターをパリ中に張ります。

オランプはポスターを、鎖で繋がれた国王一家を、戦っているわが軍隊の真ん中に連行して、「敵の剣と味方の大砲の間」に立たせたらどうかと提案したそうです。

「王冠を抱いた賊どもが−。あくまでも罪を重ね、フランス共和国の独立を拒むなら、私は専制的で人殺しの一家からわれわれを救い出してくれる大砲に火をつける役目を謹んで務めましょう。」とオランプは「オランプ・ド・グージュが解説する ルイ・カペーの死刑判決」で述べています。

「王冠を抱いた賊どもが」というのはヨーロッパの諸侯をさすそうです。

そして1月21日金曜日。「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」ではこう書かれています。

一月二十一日の金曜日、国王の首が処刑台の上からころがり落ちた。


 オランプの誤算

私は「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」を読んで、オランプのことを辛口で書いています。

人それぞれの読み方があるので、皆さんもぜひお読みください。オランプという女性に共感する方も多いと思うのです。それも正しい読み方です。

ただ、私はオランプが、全ての手柄は自分の手柄、失敗は他人のせい、私だけは正しい、という生き方を拭えないだけです。それがまた、私の興味を惹いているのですが。(笑)

「国王の首が処刑台の上からころがり落ちた」あと、オランプはまた文筆活動に情熱を燃やし、戯曲を書き上演をします。

ところが野次ばかり。オランプは観客の前で俳優たちを罵倒します。そのとき観客のひとりが「作品が悪い」と言ったのです。

今度はルイの擁護についたことを非難する劇団員がいるとして告発します。

こうした諍いの一方で、敵対する党派を和解させようとします。ところが、相手に悪意を持たせるような解決になるのです。

この頃、オランプは1791年から93年までの政治に関する評論「政治的作品集」をパリの新聞記者に送ります。

「改竄され、印刷業者にはフレーズを変えられたこの作品集に寛大な態度を願っています。悪人中の悪人に献呈した作品には意義を唱えてください。それは名誉ある行為に見えたときなのです。」

悪人中の悪人とよばれたオレルアン公に、つい最近も献呈したばかりのオランプでしたが、国王殺しの公爵への疑惑をよび起こしました。

こうして同年、あらたな転機を迎えている革命に、オランプは流されないよう心に決め、諸著作集と手紙を国民公会へ送るのです。

ところがそれが怒りを買うはめになりますが、オランプはその後も「政治的遺言」というパンフレットを配布し、自説が正しいことを認めさせようとしていました。

そうしたさなか、息子のピエール・オブリィは母への親愛が無くなっていたのです。旅団長の等級と国民公会から勲章を受ける息子。

マリー・アントワネットの子供達のような幼い子ではありません。母の人間性に拭えない何かを感じ取ったのでしょう。

彼女も息子のことより「三つの政府の死闘」のポスターのことに関心があったのでしょう。

このポスターを貼るときに、オランプは自分が逮捕されることを知りました。自分以外のものは釈放され、オランプが一人残りました。

ところが、オランプは「自分の行動を正当化」し、自分の正当な要求を聞かせたくてうずうずしていたと「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」にありました。(翻訳上手!)

私が先に書いたように、「私だけは正しい」というオランプの一面。

彼女は話すこと、書く事は、相手にも正しいと認めてほしいのですね。異常なくらい。

だからこそ人望を集められない。相手を許容、あるいは認め、相手にお手柄を渡すなりするべきでした。

Olympe de Gouges

オランプ・ド・グージュの処刑 1793


それを否定したり、復讐したり、相手の説を強引に曲げたり、相手に非を押し付けたりしながら手にする正当化はいかがなものでしょう。

自分以外を認めたくないのでしょうか?

これまで手をさしのべてくれたキュビエールでさえ、この逮捕のときは嫌悪を抱いたのではないでしょうか。

「彼女の言葉を信じるのであれば、独房での一週間は酷いものだった」とありました。

「彼女の言葉を信じるのであれば」ですね。

裁判では。

「フランスに王制を復古させる企ては法律で禁止されていることをご存知ですよね。」

「私のポスターは、このような基本法ができる以前に練られたものです。」と答えたそうです。

彼女の言葉を信じるのであれば。

「刑事たちは、あらゆる物が私の嫌疑を晴らすためにあるのを見たら驚いて、封印するのをためらった。どれも愛国主義と共和主義精神に満ち満ちていると、彼らは調書で認めずにはいられなかった。」と「革命裁判所でのオランプ・ド・グージュ」で、オランプはそう述べています。

彼女の言葉を信じるのであれば。

10月、マリー・アントワネットの裁判がはじまり、死刑が執行されました。

そのあとの裁判がオランプ。名前と身分の供述。

年は38歳。これは年齢を6歳ごまかしていたそうで、45歳だったそうです。

不利な事実がのしかかると、「両手をあわせ、天上に目をむけ、突然驚きをあらわす仕種をし、法廷を見渡すと、傍聴席にむかって微笑んだ」とあります。

そして「私は妊娠しています」と。

数ヶ月の拘留で、彼女は妊娠していた可能性があります。たとえばオランプが賄賂をわたした看守(処刑されています。)ですとか。

彼女はマリー・アントワネットと同じく最後の手紙を書いています。

愛する息子に、罪なく死ぬと。

オランプは、何時間でも息子の肖像画のメダルを見ていたそうです。(泣)


オランプの 「女性および女性市民の権利宣言」  
解説からトピック&引用
Declaration of the Rights of Woman and the Female Citizen (1791)


「女性は、自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして存在する。社会的差別は、共同の利益に基づくのでなければ、設けることはできない。」(第1条)

「男女の区別なく各個人に対して、自由、所有、法律による保護(安全)、圧制への抵抗など、時効によって消滅することのない諸権利を要求した」(第2条)

「いかなる権威も、真に、国民、すなわち男女の総合としての国民の主権から発せられなければ行使されない」(第3条)

「女性の自然的諸権利の行使は、男性が女性に対して加える絶えざる暴虐以外のへの限界を持たない。」(第4条)

娘に対する家父長制家族の権力を無力化することが必要である。「何人も法律が命じていないことをおこなうように強制されない」(第5条)

直接・間接のいずれであれ、女性の選挙権が不可欠であることと、女性の被選挙資格について述べる。

「すべての女性市民はおよび男性市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。」(第6条)

人権宣言の「適法手続きと身体の安全」、「罪刑法定主義」、「無罪の推定」については、女性のための例外的な措置、慈悲を加えていないと本書にありましたので、そのままの条文でよいと思われます。(第7条)、(第8条)、(第9条)

「女性は処刑台にのぼる権利をもつ。同時に女性は演壇にのぼる権利をもたなければならない。」(第10条)

そのほか、女性の予算の作成と税金の決定および行政の管理について監視する権利を要求。女性が最高位の公職に就きうること。(「表現の自由」、「公の武力」、「租税の分担」、「租税に関与する市民の権利」、「行政の報告を求める権利」、「権利の保障と権力分立」、「所有の不可侵、正当かつ事前の補償」(第11〜第17条)

引用、要約 「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」
※前文、条文は条文対照としてずべて記載されています。

追記(書き忘れ!)

王妃へという請願文は解説にありました。請願文のあとに女性の諸権利と題する文章が続き、男性達の呼びかけの形式をとった前文、そしてこの「女性および女性市民の権利宣言」が続きます。さらにあとがきと「男女社会契約の形式」、「夫婦契約の形式」の見解が述べられているようです。

王妃の手紙には、女性の権利保障を確立する仕事は「偶然によって高い地位についた」王妃の仕事としてふさわしく、王妃が王国の半分の支持を得られるだろうと述べているようです。

オランプは偶然によって、と王妃の立場を示していますが、マリー・アントワネットは生まれながらの王妃だと思います。

ここにオランプの嫉妬の強さが現れていますね。何気ない言葉で相手を不愉快にさせる。アントワネットは、きっとクスリと笑って、相手にしないでしょう。金持ちケンカせず、でしょうか。

さて、オランプが擁護したルイ16世は自分の提案したギロチンで処刑されましたが、オランプも第10条に制定したように、自分のつくった女性の権利で処刑されました。


 オランプの存在表現

「あぁ、ファーマの運命的な願い!私はどうして、ひとかどの人物になりたいと望んだのだろう?」

オランプ・ドゥ・グージュはそう言ったのです。

上流階級に生まれたわけでもなく、お金持ちでもない。そうしたコンプレックスが結婚のときにも頭をもたげたと思うのです。

正義、自立、女性の権利。そんなものじゃないのです。オランプは奴隷解放を叫んでも、それはそのためのものじゃないのです。

ひとかどの人物になりたい!それだけなんです。それこそいい女ッぷり!女は自分のためだけに生きなきゃ!

最後の最期に、オランプの真実の言葉が聞こえました。そのオランプの真実の声を知ってこそ、このオランプの思慮のなさも、嘘つきも理解できる楓なんです。

恭しくあなたを才女に認めましょう。

そしてマリー・アントワネットを”元王妃”の女市民とさせたのは、このオランプでしょう。

上流階級に憧れていたオランプ。マリー・アントワネットは彼女の憧れであり、嫉妬と憎悪の対象でもあるのですから。

オランプの夢。本当はお姫様のような暮らしと愛され方だったのでは。

引用:要約 wiki 
オリヴィエ・ブラン 著 辻村みよ子 訳 「女の人権宣言 オランプ・ドゥ・グージュの生涯」
物語は続きます。遺児ピエール・オブリィ、そして解説と。この本の最後の解説も非常に参考になります。とくに人権宣言のお勉強にさしかかるときに。
| ロココ フランスの才女 | 20:01 | comments(2) | trackbacks(1) | pookmark |
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| - | 20:01 | - | - | pookmark |
コメント
ご無沙汰です。

記事へのコメントより記事に対して記事でお返ししたいところですが、ちょっと余力がなくいので、一言。

楓さんの裏の裏の裏を見抜くところで気がついた。このオランプ、わたしは、マリー・アントワネットに認めてもらいたかったと思いました。
| 兎穴の少女 | 2010/12/10 9:38 PM |

兎穴さん、こんばんわ。

いつもトラックバックありがとうございます。私も記事には記事でお返ししたいと思っています。

>余力がない

そういう時ってありますよね!私も、あっ記事アップされてるって思って、記事でお返ししようものの、う〜ん、と悩むことがあります。

やっぱり30分から1時間はPCの前ですもんね。いろいろ趣味やしなければならないことがあるでしょう。

そんなときにコメントを残して頂いてありがとうございます。

>マリー・アントワネットに認めてもらいたかったと思いました。<

私も実はそう思った。腹心というか、取り立てて貰いたかったのかななんて。

ルイ16世がミラボーに傾いたように。

オランプの「女性および女性市民の権利宣言」なんですけどね、これはマリー・アントワネットの請願文につけられたものですが、この女性の権利を王妃の名のもとで、成し遂げようと思っていたのではないでしょうか。(笑)
| 楓 | 2010/12/10 9:47 PM |

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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。この記事で注釈をしていないところな
| remove | 2010/12/10 8:04 PM |