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フェミニズムな映画 「太陽はひとりぼっち」   L'eclisse − The Eclipse(日蝕)
ご存知のように、映画「太陽はひとりぼっち」は、ミケランジェロ・アントニオーニの「愛の不毛」三部作(「赤い砂漠」も加えると4部作)のひとつ。どうして日本は「実存三部作」と訳さなかったのかが不思議です。

1960年の「情事」(L'avventura)、1961年の「夜」( La notte)に続きます。三作とも、イタリア・フランスの合作映画。映画の舞台はローマとムッソリーニ時代に建設された新都心エウローパ(エウル EUR)。
アラン・ドロンのタイトル「太陽」ニ作品はこちら
太陽が知っている La Piscine (1968)
太陽がいっぱい(PLEIN SOLEIL) リプリーがいっぱい
「愛の不毛」三部作に共通しているのは人物の心理や行動、その問題も謎のまま、説明もなく終わることです。そしてモニカ・ヴィッティ。


この映画は鑑賞したことがなかったんです。若い頃に観ていたら、どんな風に感じていたかしらと。

この女性は、ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)。若いのに人生に倦怠を感じている。アンニュイという言葉がぴったりですね。

すべてが退屈。結局恋愛していても、音楽を聴いても、映画を観ても、本を読んでも、生きていることも「つまらない」と感じている。「感動」する心を失っているのですね。好奇心、探究心を失い、独りよがりの思考?



槍を持って踊るなど民族を揶揄するヴィットリア


彼女はアフリカの音楽を聴いて、アフリカの写真をみて、ブラック・フェースでダンスを踊りだすのです。

ヴィットリアの心に映ったアフリカ。その原住民に対して決して良心的、好意的な気持ちが表現されている踊りではないと私は思います。ブラック・フェースのヴィットリアの踊りは笑えるシーンではないのです。

動画 太陽はひとりぼっち  Eclipse − The Eclipse
アフリカのダンスシーン Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962)

見ていた友人マルタは、不愉快になっていきます。ヴィットリアは異界アフリカに独りよがりな想像を抱き、それを退屈さからの逃避に利用しただけ。無垢で単純な自然なものの姿を知らない無知さ。


ヴィットリアの婚約者リカルディ。映画の前半でヴィットリアから婚約解消を言い渡されます。婚約を解消することが退屈さから逃れられると思ったのでしょうか。

いえいえ、当時のイタリアでは離婚と中絶は禁止されていたのです。そういう自己決定権がない時代に結婚に踏み切れないモヤモヤがヴィットリアを襲っていたのだと思います。

いろいろ試行錯誤して、退屈ではない新しい世界、新しい日々を探しているようなヴィットリアですが、なにものにも満たされることがない。そんなヴィットリアは婚約解消後に、顔なじみである証券取引所に勤めるピエロ(アラン・ドロン)と急接近。



ヴィットリアの母、そして半分だけのヴィットリア、柱とピエロ


この画面の左右は焦点をはずしています。だからこそ、ヴィットリアの印象は強いですね。しかも左半分しか柱から見えていません。両端はヴィットリアの母とアラン・ドロン演じるピエロ。

まるで形而上絵画を見ているようです。

画面左には、資本主義の証券市場において、「労働なき富」を得るヴィットリアの母。この映画で株の暴落で全てを失った投資側の一人です。画面右のピエロは資本主義の証券市場を舞台とする証券取引所の株の仲買人(ブローカー)側。ただ、ヴィットリアとの断絶を強調しているわけではないと思いました。

この半分だけのヴィットリアは、どちらにも属していません。短絡的にピエロとヴィットリアの深い溝、断絶だけを強調するのではなく、いろいろな発見ができる場面です。視線もそれぞれ違いますね。



証券取引所の株の仲買人(ブローカー) ピエロ


決して現代(金融資本主義社会)に適応させた場面ではないと思いました。12世紀のフランス、13世紀中頃のイタリアで生まれ、17世紀のイタリアにはヴェネツィア商人が中心となる、証券取引所の歴史は、1913年に、ピエロ演じるブローカーと証券取引所の「基本法」もできました。この映画「ひとりぼっちの太陽」の頃は、すでに投資家を保護するための法律もありました。(たしか)

この「愛の不毛の三部作」以前のファシズムは、1914年から1918年の第1次世界大戦からイタリアは経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振でした。そんな時代だからこそ、ファシスト党が台頭した政権時代で、映画「ひとりぼっちの太陽」の株の暴落は、「歴史は繰り返される」という暗示なのか、それとも「忘れるな」というマネー・ゲームの陥穽の警告なのでしょうか。

どうしてかといいますと、この1960年代はイタリア共和国。1959年のイタリアは「奇跡の経済」といわれたほど。1962年の「太陽はひとりぼっち」は、もしかすると別の時代を設定していたの?と読み取れない私です。ちなみに監督のアントニオーニは、株価の暴落と恋愛は同じとコメントしていたそうです。



「太陽はひとりぼっち」 の証券取引所のハドリアヌス帝神殿
19世紀はローマ証券取引所として使用されていました。


1950年になる以前のイタリアは、ムッソリーニのファシズムで、1945年にムッソリーニは銃殺され、ファシズムに抵抗していたイタリア・ネオリアリズム(ネオレズモ)がすでに映画や文学では確立されていました。

ですから、この 「太陽はひとりぼっち」は「ネオ・リアリズモ」以降の作品です。だから「内的ネオ・レアリスト」という言い回しがアントニオーニ自身から誕生したんですね。内面性という形而上的リアリティーをプラスしたような。そもそもフェリーニの影響。

でもどうして形而上的リアリティーなんて言葉を使用するのでしょう。実存主義では問題があるのでしょうか。

さて、アラン・ドロンの演じるブローカーのピエロは、記事後半の動画 Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 4/9−5/9 からご覧いただけます。



ロミオとジュリエットのバルコニーシーンのようなピエロとヴィットリア


ヴィットリアとピエロ。「ロミオとジュリエット」のようなバルコニーシーン。ヴィットリアのアパルトマンの前からなかなか離れないピエロ。そんなピエロの姿に、「新しい気持ち」を楽しんでいるヴィットリア。

無邪気さ、悪戯、子供のような恋愛ごっこ。

気のある素振り、気のない素振り、ピエロが求めてくる抱擁、キス、ベットへの誘いをすり抜けるヴィットリアは、まるで熟女が初心な青年をからかっているようにもみえます。

もうすでに女性原理があらわれて、ファシズム時代の男性原理が幻想となっているように。このあたりも「内的ネオ・レアリスト」の象徴でしょうか。



ヴィッティのガラス越しのキス


ヴィットリアとピエロのガラス越しのキスシーンは何度か登場します。

Monica Vitti & Alain Delon -"L'Eclisse" - Night In White Satin

アラン・ドロンが演じるピエロは、ヴィットリアに翻弄されているのでしょうか。それとも・・・。憂いの表情のヴィットリア。

「情事」、「夜」の女性たちに比べ、タチが悪い(笑)女性像ですね。


肩越しの抱擁に、一瞬の冷ややかな表情を見せるのは、アラン・ドロンのピエロのほうではないでしょうか。

肩越しに憂いの表情のヴィットリア、一瞬の冷ややかな表情はピエロ。アントニオーニはもしかすると、この二人のそれぞれの立場から作品をつくりたかったのではないかと思いました。

「クロスも本も男と同じ、すぐに飽きが来るのよ。」と言い放つヴィットリアですが、実は「クロスや本のように、男はなんでもすぐに飽きるものよ。」と、男がすぐに冷めてしまうものだということを知っている。それもつまらない人生。そのヴィットリアの鏡でもあるピエロ。彼もそう思っている。



ピエロのガラス越しのキス


最初のキスは肝心。そして一夜を共にすると、恋の終わりにむかっていくだけ。

ヴィットリアは楽しさのあとにくる終焉を、きっと子供の頃から知っていたのでしょう。ほら、クリスマスやお誕生会が終わったあとのそんな虚しさ。

でも、年代をわたって同じ本を読み返す楽しさを知らずに大人になってしまった女性。それとも読み尽くしてしまったのでしょうか。

表現主義といわれるフランツ・カフカ。彼の「城」を思い出します。行こうと思ってもたどり着けない城。



絡み合い離しまた絡み合うピエロとヴィットリアの手と手


「明日会おう 明日もあさっても」
「えぇ、次の日もその次も」
「その次も」
「今夜もね」
「8時にいつもの場所で」

8時のその場所に、ヴィットリアは行かなかった。そしてピエロも行かなかった。最後の10分間は意味のない意味ある人々で、FIN 。

Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 1/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 2/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 3/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 4/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 5/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 6/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 7/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 8/9
Michelangelo Antonioni's L'eclisse (1962) 9/9



La Gara Atomica La Pace e Debole


映画のラストの10分間に、新都心エウローパ(エウル EUR)に住む、様々な人物が登場します。この映画は、退廃的な男女の心理を描いただではないことは、このラストの10分間をご覧になればおわかりになるでしょう。最後の10分間は二人は登場していません。

各国競う核 虚飾の平和 (意訳)

La Gara Atomica 原子力祭 と書かれた新聞の裏
La Pace e Debole 虚飾の平和(弱まる平和)

彼が読んでいる新聞に書かれています。日常に潜む不安要素。1939年から1945年にかけての第二次世界大戦。この映画に登場する人々は、その世界大戦を知っています。それから15年後のこの作品。

ヒトラーとムッソリーニの政権とその死からも15年後。



深夜のファロ・イタリコ(Foro Italico)
ポールが風に啼く音にたたずむヴィットリア


この日常に潜む不安要素は、最後の10分間だけではありません。

深夜に、マルタの逃げた愛犬を追い、ファロ・イタリコへ向かいます。階段を上がって、「犬の会合」に出くわします。ヴィットリアは、見つけたテリア犬を二本足で歩かせて陽気になっていますが、ふと何かの音が聞こえてくる。ヴィットリアは音のするほうへ歩いてきます。鉄?のポールが風で揺れている音。

不安になり後退りしますが、音は音楽のリズムのようにも聞こえてきます。そしてふと見上げると彫像があり、ここがファロ・イタリコで間違いなければ、男性の裸身の肉体を表現した大理石像(あのスタジオ・デ・マルミの選手の彫像)です。

フォロ・ムッソリーニとも呼ばれていたこのエウローペのスタジアムは、ムッソリーニ時代はエンリコ=デル=デッビオ(Enrico Del Debbio)、戦後も建設は続けられていました。

(注) この場面は、おなじくローマ・オリンピックの競技場だった テスタッチオにあるベロドロモ・オリンピコ(Velodromo Olimpico)としている解説がありました。



リカルドとヴィットリアとキノコの給水塔


アントニオーニ監督の風景描写は、ワン・ショット=ワン・シークエンスの特徴と芸術性ではなく、ファシズム以前の象徴された風景と共和制となってから造られている風景を、ワン・ショット=ワン・シークエンスで強調していると感じています。

1957年に建設されたエウローパのきのこ型の原爆にも似た給水塔。現在はモニュメント・タワーとして残されているようですが、この映画を理解するには、この映画に撮影された事物をとらえていないと、本質から離れてしまう気がします。

初めて「キノコ」型の給水塔が建てられたのは1950年代初期のスウェーデン。そのコピーがここに映し出されているのです。この当時は給水塔が必要、あるいは現代でも水を貯めておかなければならない地帯がありますね。

さまざまな産業施設が建設。1960年のローマ・オリンピックで建設されたものでしょう。この給水塔の近くにはパラロットマティカ(PalaLottomatica)はピエル・ルイジ・ネルヴィとマルチェッロ・ピアチェンティーニの設計。これらをオブジェとして表現しているのではありません。



車泥棒の死体と車両が引き上げられたエウル池公園でのヴィットリア


なぜなら、ここにはムッソリーニの遺物がそっくり残っているのです。ここ新都心エウローパ(エウル EUR)に住むヴィットリアの設定はそんなところでしょうか。1942年に計画されたローマ万博。ムッソリーニの失脚後は1960年のローマ・オリンピックと、この中止されたローマ万博がエウローパに、ファシズムの名残となって映し出されている、アノトニオーニ曰く内的ネオ・リアリスト」で「ネオ・リアリズモの継承」の象徴のように。

この時代から10年後のニューヨーク。

1970年代のアニー・ホールは、カウンセリングに通い、ランチを楽しみ、セックスして、会話して、別れてもよき友人で、でも誰でも心に傷があって、それでも陽気な人々です。

アニー・ホールの制作上のタイトルは無快感症や快感喪失を意味するAnhedonia(アンヘドニア)。「ミスター・グッドバーを探して」(Looking for Mr. Goodbar)では、ドラッグやポルノフィルム、フリーセックスと死。ラディカル・フェミニズムを扱っていたのでしょうか。

そして1970年代は女権運動がさかんだったフェミニズムの第二期。



L'AVVENTURA 1960 アントニオーニ 「情事」の場面


この映画を一口で、私流に申し上げるなら、ネオ・リアリズモやもっともらしいアントニオーニの名著やインタビューは遺物で、このヴィットリアは、快感消失。(笑)

上流階級の人間喪失、疎外感は、あのルイ14世時代からすでにフランスでは根付いていたもので、大衆の時代になって、大衆層の生活ににじみ出てきたのですよ。

17世紀のモリエール、18世紀のモーツァルトのオペラ、ヴォルテールやルソー、サド、そして19世紀のマラルメ、ボードレール、ランボー、ジョルジュ・サンド、そして20世紀にかけてのジャン・コクトー。作家や思想家たちは、人間喪失、疎外と疎外感を潜ませています。

そして実存主義のサルトルを忘れてはなりませんね。



ヴィットリアを引き止めることもなくソファーに埋もれるピエロ


現在を見つめて未来へと視線を向けるアントニオーニではなく、過去に視線を向けている気がするのです。

サン・テグジュペリの「星の王子さま」は、まさに「謎のまま、説明もなく終わる」のです。

星の王子さまの行方はどこに。著者サン・テグジュペリの死をもって、それを暗示する予言的な終わり方とも思えてくるのは、偶然にも未来のサン・テグジュペリの行方不明。

解釈は、このように読み手や鑑賞者の未来にもあると思うのです。ですからこの記事はすべて自己流ですので、引用などはご遠慮くださいね。



ピエロの部屋の絵画をみたあとの窓の風景も肖像画のような映


イタリアの画家、デ・キリコ(Giorgio de Chirico)は、形而上絵画をはじめたのは1910年のことです。アーノルト・ベックリン(Arnold Böcklin; 1827-1901)やマックス・クリンガー(Max Klinger; 1857-1920)の影響を受けたということですが、静謐、郷愁、謎、幻惑、困惑、不安などを感じることが多いとwikiの解説にもありますが、不毛な風景を描いているのですね。

これまでの絵画の遠近法の焦点をずらすなどの形而上絵画は、このように鑑賞者に影響を与えるのと同じく、アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」は、内と外、表と裏、上と下、縦と横、右と左、対角線、平行線、前と後ろ、そして円を描いているような人間の関係と映像は、鑑賞者を幻惑させます。



形而上絵画の影響を思い起こさせる顔のないヴィットリア


この顔だけが見えないヴィットリアは、ピエロの内面から見るヴィットリアではないかと思うのです。ヴィットリアは「男はみんな一緒」と思っているように、ピエロも「女はみんな一緒」だと認識している象徴としてヴィットリアの顔を不自然に切り取った映像にしたのでは。

ピエロの車が盗難にあい、車泥棒の死体と車は川から引き上げられ、車体を気にするピエロと同じで、目の前のピエロの欲求しか目に入らない。

槍を持って踊るなど民族を揶揄するヴィットリアの踊りとおなじく、人間喪質を強調しているのでしょう。



ローマ市内のピエロの部屋 牧神パンとピエロ


ピエロにはヴィットリアの顔はみていないのかもしれません。顔をすげかえても女はみんな一緒。お互いに理解しあい、愛を確認したいというピエロは、実はピエロ自身が満足したいだけだと思うのですよ。

美術品に囲まれたピエロの部屋には、「牧神パン」の彫像があります。パーンはサテュロスのように描かれるのですが、笛を吹いているところから、推測。

バーンが追えば逃げ、とうとう水辺の葦に身を変えたニンフの神話を、ピエロとヴィットリアに重ねてみました。

その牧神パーンは、「誘惑」の名人。男性の強さと性的能力の源泉として崇拝されています。つまりピエロは「愛」ではなく「誘惑」を成し遂げたかったのではないでしょうか。



典型的な主婦が雇う子守女


「各国競う核 虚飾の平和」という新聞を読む男の人と同じ最後の10分間に登場する典型的な主婦像を象徴する子守女。
「女らしさの神話」では、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、「これだけの生活?」と自分に問うのを怖がっていた。(wiki 引用)
このように、専業主婦を幸福と思う女性もいれば、結婚し子供を育てるだけの人生に当惑する女性もいます。

ヴィットリアは、1960年代のウーマン・リブ運動がひろがる過渡期の女性。


よく「日常の何不自由のない生活から生まれる怠惰や倦怠、そして、原因の分からない不安感」といいますが、いつも違うのよね〜と思っています。「これだけの生活?」という不自由があるわけですね。

もともと人間は不自由である存在だと思うのです。でも作家芥川龍之介さんの「不安」はなんだったのでしょうか。

芥川龍之介さんが自殺したのは第一次世界大戦後の1927年。「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残しています。
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コメント
こんばんわ。「太陽はひとりぼっち」ってこういう映像だったのですか。見たことも聞いたこともありません。まだ全部の動画は見ていないけれど、いろいろ検索したところ、フェミニズムに結びつけたのは楓さんだけですね。でもそれは間違いなさそうだと感じています。ピエロはヴィッティと合わせ鏡でつくられたキャラクターかもしれません。また、TBの記事も読ませてもらいました。楓さんが「謎のまま、説明もなく終わる」に引用した星の王子さまは「情事」の行方不明みたい。また牧神パーンは、これも男性原理に当てはまるのでは?
| 静流 | 2011/07/14 10:13 PM |

こんばんわ。ma-saです。ご無沙汰しています。

この映画では、アラン・ドロンは主役のモニカ・ヴィッティの添え物なんですね。だからこそ、アラン・ドロン。

哲学的な解釈は苦手ですが、映画的な哲学の「形而上的リアリティー」?普通は形而上学のリアリティとかリアリズムというのは聞こえてきますが、そうした実存的な主題があるとは思いませんでした。

「情事」は見たことがありますが、「太陽はひとりぼっち」は独特な印象。奔放な女性にもみえるヴィッティは、倦怠の女性。太陽を覆い隠す月はいったい誰かと。そしてヴィッティは太陽ではないと感じてます。
| ma-sa | 2011/07/14 10:46 PM |

こんばんわ。inoueです。

マサちゃんが、「ヴィッティは太陽ではないと感じてます。」とコメントを残していますが、僕はヴィットリア(ヴィッティ)は、太陽を失っていく人間だと感じています。人間性を感じない。温かみ、安らぎというものが欠如している。

この映画が社会派映画だという前提で、そうした人間喪失を「日蝕」というタイトルにしたのではないかと。アラン・ドロンのピエロは車泥棒の死をまったく感じていないけれど、たとえば自分の領域を侵した者を加害者として、ピエロは被害者。被害者は加害者の自己責任の死に憐憫を感じるかなと思い、そのシーンで彼を人間喪失と描いているなら、なんか違和感ある。

そして最後のラストの10分間は、なんか映像の迫力にかける。新聞を読む男まではよかったのに。アントニオーニの若い頃のこの作品。みんな高評価だけど、楓も感じているような「奇跡の経済」時代に「株の暴落」で、なんか何かが違う気がして、本質より目的でつくった映画のようです。うまく説明できない。
| inoue | 2011/07/14 11:15 PM |

楓さま、こんにちは〜! なでしこ、凄かったですね。今日はとても佳き日かと思います。
一方でブルボン=パルマの流れをくむオットーさんの葬儀が盛大に行われているようですね。
最近イザベラのことでとてもワクワクすることがあったので、今回の映画の感想と合わせて、悩みつつイザベラのほうにコメントを入れてしまいました。
なでしこのスピリッツを見せてもらったから、というのでもないのですが、私はまた心境の変化があり、新しい情熱を探そうと思っています。その前に詩集でウォーミングアップし、読了していないマドレーヌの本と百年の孤独、という人生最高の読書(と言われてますね・笑)をしようかなと思っています。今回の記事では、なぜかエリュアールの「直接の生命」が浮かんでなりませんでした。
| ふくちゃん | 2011/07/18 1:18 PM |

ふくちゃん
実存主義といわれるサガンですが、作品的にはまた別のようです。「悲しみよ、こんにちは」は、サガンが18歳の時の作品。映画「太陽はひとりぼっち」の中で流れるように生きる人々が、「今、ここに存在している自分」を探しながら虚無感に苛まれる心情と、サガンの個人主義的でモラルに反するものとは接点がないように思えました。また、反ファショといわれるエリュアールですが、彼の個人的な愛の表現を詩にした「直接の生命」は、サガンのタイトルに引用されていますが、映画「太陽はひとりぼっち」のデス・コミュニケーションには結びつきませんでした。発想の逆転って大切ですね。
http://kafka.arekao.jp/entry-270411b48cc38b210c9e59bf3a39edc1.html
| 楓 | 2011/07/21 8:50 PM |

Inoue さん、こんばんは。
>本質より目的でつくった映画のようです。うまく説明できない。<
本質より目的でつくった映画というのがズバリだと思います。プロバガンダのようでもあり、社会派映画のようでもあり。映画という本質よりも、このどちらかの目的が強く感じられます。

>自分の領域を侵した者を加害者として、ピエロは被害者。被害者は加害者の自己責任の死に憐憫を感じるかな<
そういう考え方もありますね。このピエロの人間喪失の象徴にはならないということですよね。罪には罰を下した。これが車泥棒ではなくピエロの家族、あるいは友人を殺害した犯人と置き換えると、車泥棒も殺人者も同じ罪人。

>ヴィットリア(ヴィッティ)は、太陽を失っていく人間<
日蝕は、人間喪失を意味しているのでしょうか。月が虚無で。ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」では、虚無が襲ってくるのでしたね。
| 楓 | 2011/07/21 8:52 PM |

ma-saちゃん、こちらこそご無沙汰でした!

>太陽を覆い隠す月はいったい誰かと。そしてヴィッティは太陽ではないと感じてます。<
きっとヴィットリア(ヴィッティ)が月だと感じているのでしょうか。または誰かの虚無が次々と広がっていく。そういう考え方もありますね。人間の心を侵食していくのは人間だけ。政治も人間が行っているものです。侵食されても復活できるのが日蝕ですから、人間喪失も元通りになる可能性があるということでしょうか。

>そうした実存的な主題<
私も知りませんでしたが、形而上的リアリティーを実存主義でもいいのでは?と思ったので。また、背後にはファシズムの時代につくられた建築物がわざわざワンショットで映っているので、意味を考えてみたんです。もちろん個人的な感覚で記事を書きましたし、観賞する側の特権で、自分が受けた印象です。一人一人違うのが映画や本の感想ですよね。もっとも共感や共有もありますが、いかがでしたか。
| 楓 | 2011/07/21 8:54 PM |

静流さま
>フェミニズムに結びつけた<
ファシズムが終わったということは、男性原理よりも女性原理が登場するという単純な考えです。そうすると、この主人公の女性が女性原理に目覚めながら、何をどうしたらよいのかという初めての感覚が、わからない不安が倦怠に結びついたと考えてみたり。この時代、実際に女性はどうだったのかということを思えば、女性運動がさかんになっていた頃でしたね。

>ピエロはヴィッティと合わせ鏡でつくられたキャラクターかもしれません。<
そう感じられたのですか。凄い!私もそんな気がしてきました。性別は違えど、政治がかわって経済も生活も変わっていく中で、二人とも何かしら考え方が変わる過渡期で、「今、ここに存在している自分」を探すことに精一杯。人間喪失というよりも、「自分の存在意味」を手さぐり状態で確認していて、他人に目をむける余裕ではないような二人でしょうか。
| 楓 | 2011/07/21 8:57 PM |

こんばんわ。こちらでは二度目のコメントです。コメントするのために、「太陽はひとりぼっち」の記事を書いているブログをほとんど読み漁りしました。(コメントで楓さんの記事にダメージを与えてしまうのではと思い、勉強)

解説書にない楓さんオリジナルの記事には圧倒。

あるサイトでの「太陽はひとりぼっち」は、邦訳されているもの、日本人著者の解説書などの著作からの引用が多く、そのご本人も言葉をピックアップしてつなげての主張で、楓さんのように映画を見て、その当時の社会や背景に疑問を持たず、ただひたすら解説書のとおりに書いていているので、違和感がありました。

解説書や手引きなどなく書かれたこちらの記事は、一個人の映画鑑賞での作品分析、記事内容の濃さに感服しました。

この二人には性関係の直接な描写はなく、あえてプルーストの「スワンの恋」が思い当たりました。スワンに対して会うたびにオデットが彼に無関心になり、うわのそらになっていく過程はずいぶんと描かれていて、実際の性描写はありません。オデットの家に行くスワンは性欲よりも、愛を確かめたいという一途な気持ち。結局、彼は最後に「なぜあんな女を好きになったのか」と思うのですが、ヴィットリア自身も男も女もそんなものという、はじめから情熱へのあきらめを感じています。

人間喪質という点では、個人主義というヨーロッパの歴史があり、人間喪質はアダムとイヴの時代から人間に与えられていたもので、ことさらこの時代、そして現代の風潮にあわせたものでもないと感じました。

楓さんの記事とコメントの返信で、この人間喪失について、>上流階級の人間喪失、疎外感は、あのルイ14世時代からすでにフランスでは根付いていたもので、大衆の時代になって、大衆層の生活ににじみ出てきたのですよ。<、>人間喪失というよりも、「自分の存在意味」を手さぐり状態で確認していて、他人に目をむける余裕ではないような二人<とあるように、政治や経済の仕組みが激変して、生きることへの不安定さと自分はいったい何?という疑問が、退廃的な行動に結びついていったのだと思ったのです。

絵画や文学を引用しての記事は比類なき傑作。またTBされている「夜」、「情事」、「太陽が知っている」、「太陽がいっぱい」の方々も映画を鑑賞してのオリジナルな記事と独自の視点があって共感できました。
| シネマ狂 | 2011/08/04 10:35 PM |

シネマ狂さま、こんばんわ。凄いコメントありがとうございます。まず目を引いたのがプルーストの「スワンの恋」ですが、根拠を述べて頂いたので理解できました!なるほど、二人の、二組のカップルは虚無的な時間を共有しているという解釈で良いでしょうか。虚無的な関係には頷けます。ニヒリズムのように「絶対的真理は存在せず」という部分的な引用になりますが、デカダンには、このように今の瞬間に何を考えて何を感じるかということができない二人(二組)だと思いました。(笑)

そもそもイタリアでは、デカダン(退廃的)というと、作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの文学や政治に象徴されていて、実はイタリア・ファシズムの先駆者です。この映画の不思議さは、ファシズムに抵抗するネオリアリズモの延長上の作品にあって、退廃的な人物描写は、後遺症でしょうか?

人間性喪失(人間喪失)とは、あくまでも「人間として存在するための条件、あるいは性質」だと考えているのですが、長所も短所も善も悪も人間性であって、本文に書いているのですが、「ピエロの車が盗難にあい、車泥棒の死体と車は川から引き上げられ、車体を気にするピエロと同じで、目の前のピエロの欲求しか目に入らない。槍を持って踊るなど民族を揶揄するヴィットリアの踊りとおなじく、人間喪質を強調しているのでしょう。」としたのは、彼らは「無関心」だということです。シネマ狂さまのコメントから引用させていただきますね。

>人間喪質はアダムとイヴの時代から人間に与えられていたもので<

シネマ狂さまは、きっと善悪をわけたのではないですか?そういう鑑賞方法もあると思います!引用していただいた「自分の存在意味」を手さぐり状態とは、まさに真理を探していると思ったのです。

>生きることへの不安定さと自分はいったい何?という疑問が、退廃的な行動に結びついていったのだと<

おっしゃるとおりです。「生きることへの不安定さと自分はいったい何?」というシネマ狂さまの一文も「真理とは何?」だと解釈している私ですが、よろしいでしょうか?

>またTBされている「夜」、「情事」、「太陽が知っている」、「太陽がいっぱい」の方々も<

ありがとうございます!皆とのコラボ記事なんですぅ!
| 楓 | 2011/08/05 12:12 AM |

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