Fiddle-de-dee, Fiddle-de-dee, The Fly Has Married the Bumble Bee
Fiddle-de-dee, Fiddle-de-dee,
The fly has married the bumble bee.
Says the fly, says he,
"Will you marry me,
And live with me,
Sweet bumble bee?"
Says the bee, says she,
"I'll live under your wing,
And you'll never know
That I carry a sting."
Fiddle-de-dee, Fiddle-de-dee,
The fly has married the bumble bee.
So when the parson
Had joined the pair,
They both went out
To take the air,
Fiddle-de-dee, Fiddle-de-dee,
The fly has married the bumble bee.
And the flies did buzz,
And the bells did ring -
Did ever you hear
So merry a thing?
Fiddle-de-dee, Fiddle-de-dee,
The fly has married the bumble bee.
And then to think
That of all the flies
The humble bee
Should carry the prize.
Fiddle-de-dee, Fiddle-de-dee,
The fly has married the bumble bee.
フィドル・ディ・ディー、フィドル・ディ・ディー
蠅と丸花蜂が結婚するって
蠅は丸花蜂にプロポーズ
さあ、いっしょに暮そう
僕のかわいい丸花蜂
丸花蜂は蠅に云う
あなたと暮らして世話をする
物は試しね いきましょう
私を騙すと一刺しよ
馬鹿馬鹿しいったら馬鹿馬鹿しい
蠅と丸花蜂が結婚したって
彼らは教区の信徒になり
牧師さまに誓約すると
二人は外に飛び立った
馬鹿馬鹿しいったら馬鹿馬鹿しい
蠅と丸花蜂が結婚したのさ
チャペルの鐘が鳴り響く
すぐさまそれは広まった
めったに聞いたことがない
こんな可笑しい出来事を
馬鹿馬鹿しいったら馬鹿馬鹿しい
蠅と丸花蜂が結婚したよ
蠅の仲間は考えた
つつしみ深い蜂にご褒美を
馬鹿馬鹿しいったら馬鹿馬鹿しい
蠅と丸花蜂が結婚したよ
※訳は私(楓)でございますので、翻訳というより意訳です。無断転載はご遠慮くださいね。
楓の戯言
ルイス・キャロルも鏡の国のアリスの中で、赤の女王とアリスのやりとりは、Fiddle-de-deeそのもののやりとりです。
感嘆詞のFiddle-de-deeはいわゆる「なげきことば」で、あのOh My Got と一緒ですね!ちなみにハエとハチの結婚に立ち会った教区の牧師ですが、ルイス・キャロルの父親も、司祭だったのですよ。
マザー・グースでは、Hey diddle, diddleで、二行目にThe cat and the fiddleで、diddleはfiddleの韻を踏んでいます。フィドルは、民族音楽のヴァイオリンです。
この蠅と丸花蜂の結婚は、身分違いの結婚、宿敵同士との結婚の比喩なんでしょうね。つまり15世紀の「薔薇戦争」ではないでしょうか。
この薔薇戦争はヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの、宿敵同士の結婚によって和解しましたが、そもそも白薔薇のヨーク家がエドワード4世が、身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚が、政権を不安定にし、ますますランカスター家とヨーク家の王位継承の争いが複雑になってしまいました。
ところが、最後の和解では、リザベス・ウッドヴィルの長女エリザベス・オブ・ヨークが、ヘンリー7世と結婚をし、テューダー朝が誕生し、めでたしめでたしとなるんですよね。
赤の女王に「Fiddle-de-dee」のやりとりをさせたルイス・キャロルのセンスは流石ですね!
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(C)wiki
函館のトラピスト修道院で、露風は文学概論、美学論の講師(1916年から1924年)として務めていました。その当時に書かれた「赤とんぼ」です。幼い頃両親の離婚によって祖父に引き取られ、その祖父の家の「子守娘」の「姐や」に背負われている姿。母を思う心が投影されたような詩ですが、自作解説がある童謡です。昭和12年の日本童謡全集1(日本蓄音器商会)に、「赤とんぼの思い出」として書かれています。
その自作解説は後にして、まず3つの「赤蜻蛉(赤とんぼ)」をご紹介します。
三木露風 三つの「赤とんぼ」
児童詩「樫の實」 8月号 赤蜻蛉
夕焼、小焼の山の空、負はれて見たのは、まぼろしか。
山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か。
十五で、ねえやは嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた。
夕やけ、こやけの赤とんぼ、とまってゐるよ、竿の先。
童謡集「眞珠島」 赤蜻蛉
夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か。
山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは まぼろしか。
十五で姐やは 嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた。
夕焼小焼の 赤とんぼ とまってゐるよ 竿の先。
童謡集「小鳥の友」(大正15年11月) 赤とんぼ
夕焼、小焼の、あかとんぼ、負はれて見たのは、いつの日か。
山の畑の、小籠に、つんだは、まぼろしか。
十五で、ねえやは、嫁にゆき、お里の、たよりも、たえはてた。
夕やけ、小やけの、赤とんぼ、とまってゐるよ、竿の先。
最後の「赤蜻蛉、とまってゐるよ、竿の先」は五・七・五の俳句にもなりますね。ご存知の方が多いと思いますが、13歳の頃にすすめられて作った俳句だということ。この時代に「少國民」(当然ながら現在は死語)という少年誌、たぶん石井研堂が編集していたものだと思いますが、投稿していたらしいです。
森林株式会社(現モリリン株式会社)のトンボ随想から
さて三木露風の随筆「赤とんぼのこと」があります。これは愛知県の森林株式会社(現在はモリリン株式会社、素敵な社名ですね。)の商標がとんぼで、商報にトンボ随想を連載することになりその寄稿者の一人が露風でした。
赤とんぼ
三木露風の随筆「赤とんぼのこと」(昭和34年)から
夕焼、小焼の
赤とんぼ、
負われて見たのは、
いつの日か。
山の畑の、
桑の実を、
小籠に摘んだは、
まぼろしか。
十五で姐やは、
嫁に行き、
お里のたよりも 絶えはてた。
夕焼、小焼の、
赤とんぼ、
とまっているよ、
竿の先。
「とんぼが飛ぶ頃になると、」からはじまるのですが、そこに最初に関わった樫の實(樫の実)に発表したことが綴られています。
その「樫の實」では「赤とんぼ」ではなく、「赤蜻蛉」でしたね。
三木露風の随筆には、トラピスト修道院で夕方の四時頃に、竿にとまった赤とんぼが、それはもう長い間動かなかったのを露風は見ていた様が綴られています。
「家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。北海道で、赤とんぼを見て、思いだしたことである。」
その北海道でみた赤とんぼは秋なのでしょうか?秋に平地に群を成すアキアカネ。アキアカネは夏(7月〜8月)に一旦姿を消して高原など気温が低いところへ移動します。北海道は涼しいですが。
この赤とんぼは8月号に掲載されています。トラピスト修道院でみたのは夏にも低地にいるナツアカネなのかもしれませんね。
もともと赤とんぼの季語は秋。負われてみたのは秋だったのかもしれません。
私流の「赤とんぼ」解釈
私流で解釈すると、この子守娘とは五木の子守唄を思い出させます。非人という被差別階層の娘。
露風の「赤とんぼ」では、貧しい小作農の娘が口減らしに子守奉公に出された時代です。子守りを労働とする娘たちは10歳前後。その小さな体で5歳の露風を背負うにはどれほどの苦労があったでしょうか。
私も5歳の息子を背負うことがたまにあったかもしれませんが、小学校(六歳)に上がってからは一度も背負った記憶がありません。(体格のよい息子なんですよ。)
母と引き離されたその切ない思い出を書いたのが「赤とんぼ」なのでしょうか。この「赤とんぼのこと」には幼くして離別した母への思いなど、一切綴られていません。私には露風の母への思慕と同じく、貧しい境遇で親元を離れ、奉公にきた子供達の望郷も綴った気がしてなりません。
子守娘も背負われた露風も、母への思慕という共通の思いを抱えているのではないでしょうか?
この部分こそ、音楽や国語にもっと生かしてもらいたいなぁって思うのですが、文部科学省での指導要録がありますから、先生って本当に大変。
そしてこの詩に対して、社会的な背景を理由に、文部科学省が子供に奨励するようなものではないという声もあります。
被差別階層の娘たち。その呼び名の「姐や」、売春婦に身を落とす行く末などがあげられるようですが、子供たちは義務教育や高等教育ではこうした社会的背景や歴史を学びますし、学ばなければならないことでしょう。
美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」も差別用語が含まれているとして放送自粛されたようですが、この制度自体(自粛)の廃止があって、いまは多くの人々の胸を打つ作品と認められています。
感動を与える作品に対して、それが子供や世間に奨励するようなものではないとすることのほうが恐ろしいです。
三木露風の「赤とんぼ」自作解説
三木露風は日本人の誰でもがもつ懐旧の情と、幼い時代に脳裏に焼きついた美しい自然の情景を、「赤とんぼ」で表現し、子供に対しては大人が言葉の意味を説明してあげるように書いています。
三鷹市所蔵の昭和34年頃の露風の日記にです。この頃に愛知県の森林株式会社の商報の依頼があったのですね。
69号の商報、「赤とんぼのこと」の最後の一行は「飄々として、處定めず飛んでいる虫である。」でした。
森林株式会社(現在はモリリン株式会社、商報
↑ リンク先からお読みいただけます。
「トンボ随想」への寄稿 昭和34年
三木露風「赤とんぼのこと」(全文、自筆原稿も紹介)
日本童謡全集1(日本蓄音器商会) 昭和12年
私の作った童謡「赤とんぼ」はなつかしい心持から書いた。それは童話の題材として適当であると思ったので赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思ひ出を内容にしたのである。その私の思ひ出は、実に深いものである。ふりかへって見て、幼い時の自己をいとほしむといふ気持であった。まことに真実であり、感情を含めたものであった。思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう。幼年の時故郷にいない者は稀である。幼年と故郷、それは結合している。であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐旧の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである。私は多くの思ひ出を持っている。「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった。「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。「赤とんぼ」を子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である。さうして各説に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持もわからせるやうにすることである。それらのことは必要事項で、あとは子供の有する感受性で感得するといふことにしたいのである。
離縁された母への思慕を露風が「赤とんぼ」に綴れない秘密として書かれたものでもないと思っています。
(C)plume-de-ville
「お里のたよりも 絶えはてた。」と母の便りが途絶えたことを、はっきりと綴っています。唯一、母の便りを聞かせてくれた姐やが嫁に行ってしまって、もう誰も知らせてくれる人がいなくなったのですね。(奉公人の姐やの里という解釈があるようですが、姐やは嫁に行きましたので、里に戻ったのではありません。)
負われてとは背負われての意味ですが、大人が子供に聞かせるときに、それをキチンと説明してほしいというほどに、この詩を多くの日本の子供達へむけて綴ったのではないでしょうか?
そういう詩に謎があるとは思えません。もちろん解釈はまちまちでしょう。そういう印象をも受けるということで、それが隠された謎解きのように正解を求める詩ではないと思うのです。この詩はクイズではないのですから。
なにより露風がお願いしているように、「各説に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持もわからせるやうにすること」ではないでしょうか?
露風曰く「赤とんぼを子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である。さうして各説に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持もわからせるやうにすることである。」
あとは子供の有する感受性なんですね。
楓の戯言
ここで楓の戯言です。
和田典子さんの「三木露風 赤とんぼの情景」は読んでいません。露風の生涯や作品についての研究書です。(ぜひ読んでみたい!)
この本を学校の授業で「赤とんぼ」に引用している先生方も多いようです。
私と私の母の関係は、母が亡くなってから、より一層に強いものとなっています。
それは死してから、その母の人生の中で、わたしが良い娘だったかしらと自責の念に苛まれることがあるのです。
また母にしか伝えたくないこと、頼りたいことが、いまでもあるからです。
もっと親孝行したかったぁ。あと息子に子孝行できるかなぁ。
マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
↑ この記事は10年前に投稿しております。
本日投稿の記事「ブルボン家 マリー・テレーズ 復讐の女神」は、2009年に下書きしたものです。
では、ごらんください。
「今日が、私の人生で唯一の幸福な日です。」
マリー・アントワネットの娘、フランス王太子妃となったマリー・テレーズの最後の言葉。彼女の死まで、幸せと言う日は一日もなかったのでしょうか。
マダム・ロワイヤル(Madame Royale, 第一王女の称号)と呼ばれたマリー・テレーズは、1778年12月19日に誕生しました。
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの娘。
マリア・テレジアの名を継いだ第一王女はプライドが高く、ブルボン朝とハプスブルグ朝の血に誇りを持っていたというあたりは、マリー・アントワネットの洗礼でしょうか。
アントワネットは慈善事業には必ずマリー・テレーズの手を引き、連れて行ったという話があります。
1789年の革命時は10歳。
オーストリアの宮殿では招かれざる客として迎えられ、マリー・テレーズも救いの手を差し伸べてもらえなかったという感情が、孤独な生活を余技なくしていきます。
ただ一人、心打ち解けたのがゾフィー・フリーデリケ・ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・バイエルン。のちにゾフィー大公妃となる、あのエリザベート皇后の姑。
夫のフランツ・カール・ヨーゼフ大公は、長兄の退位では皇位継承第1だったにもかかわらず、フランツ・ヨーゼフに譲位するほど、政治的に野心はなく、ゾフィーが嫁いだ頃は、とても肩身のせまい思いをしていた時期。
マリー・テレーズの宮廷の立場において、二人は互いに「情」を育てていきます。
一方、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、スウェーデンで外交顧問に就き、ウィーンでマリー・テレーズと再会します。
このときマリー・テレーズは、一言も発することもなく冷淡だったと聞きますね。
ところが ”ふくちゃん”のコメントによると
フランツ二世は、マリーテレーズがフランスの亡命貴族と面会することや、手紙を交わすこと、ましてやフェルセンが早速訪ねてきても、彼と会うことを許さなかったそうです。
でも二人は短い時間、幾度かはシェーンブルンでも会うことができ、マリーテレーズがカール大公ではなく、アングレーム公を頑固に選んで、ミタウに亡命宮廷を持った時には、私の記憶では少なくとも二人は二度は会って、ルイシャルルのことや母の遺産について話したりしています。フェルセンがわざわざ訪ねてきてくれるからです。
マリーテレーズは最初にオーストリアでフェルセンの姿を見た時、母たちの大切な友人、かつ、バレンヌ逃亡をフェルセン自身の資産を投げうち、しかも一緒に逃げてくれた彼の姿を見て、言葉をかけることは皇帝に許されなかったけど、本当にとってもうれしかったそうです。
2010/11/24 コメントより引用
10歳でフランス革命に巻き込まれ、幽閉され、17歳でウィーンに引き取らたマリー・テレーズ。ほとんど王党派の家族と育ち、その後は一人の身となり、釈放後は亡命ばかり。
タンプル塔に幽閉されて、家族だけで過ごした日々に、なにかルイ16世やアントワネットの間違った教えがあったような気もするのです。
ルイ16世、アントワネットの残した言葉
ルイ16世 Saiの記事から
「私は無実の罪をきせられて死ぬのだ。死に追いやった人々を許し、こう神に祈ろう。これから流される血が二度と再びフランスを血で染めぬように。」
アントワネット ふくちゃんのコメントより
「エリザベート内親王に、自分は罪なくして、ローマカソリックの信徒として死刑に臨む、とあんなに毅然とした遺書は書けないと思うのです。」
Sai は記事のなかで、ジャック・ブロスが著作の中で、ルイ16世はこの決定的な言葉を残したために、有罪の国王が殉教者となってしまった。と書いています。
無能の王ルイ16世の言葉とは思えません。Saiの記事を読むと、誰がそう納得させたのかがわかります。
不運だと思うのは、孤独で愛情がなく育ってしまったことです。それこそ私は、孤児になった王女マリー・テレーズを抱きしめたいくらいに、心が痛い。
そして、いつでも政治的に利用できる王女として手元に置かれたことです。
タンプル塔に刻まれた言葉
Marie-Thérèse-Charlotte est la plus malheureuse personne du monde. Elle ne peut obtenir de savoir des nouvelles de sa mère, pas même d'être réunie à elle quoiqu'elle l'ait demandé mille fois. Vive ma bonne mère que j'aime bien et dont je ne peux savoir des nouvelles. Ô Mon dieu, pardonnez à ceux qui ont fait mourir mes parents. Ô mon père, veillez sur moi du haut du Ciel. Ô mon Dieu, pardonnez à ceux qui ont fait souffrir mes parents. (C)wiki
マリー・テレーズ・シャーロットはこの世で最も不幸な人間。
長い間、母のことを知らず、また知らされず、ここに住む。
天から見守るわたしの父
神よ、父と母を死なせた人々を どうぞ、お許しください。
フランスのwikiより引用、訳は私なので信用しないでくださいね。
まだ小さいマリー・テレーズ。母アントワネットの処刑の意味を理解できずに、罪もなく両親は断頭台に消えたと思っているのですね。
神よ、父と母を死なせた人々を どうぞ、お許しください。
このいたいけな言葉は神に向かって彫られたのですね。マリー・テレーズは父と母を死なせた人々を許しはしなかったのです。
王政復古のなか1814年にフランスへ帰国したマリー・テレーズは、超過激王党派として、ルイ16世の死刑に票を入れた人々を国外追放していきます。
フェルゼンがマリー・テレーズと再会したのは1796年から1798年頃かと思われますが、再会の印象で、王妃の面影に涙を流したという説と、面影がすっかりなくなり驚愕したという説があります。
ルイジョゼフの死亡説もそうですが、マダム・ロワイヤルも二人説が存在します。
もしフェルゼンの感じたことが後者であれば、別人のマダム・ロワイヤルを示唆するために、あとになって加えられた説なのでしょうか。
ルイ16世とマリー・アントワネットは、慈善事業で孤児を養子・養女にしたという話もありますが、もうひとつは、ルイ16世とフィリピーヌ・ド・ランブリケの間に誕生したというエルネスティーヌ・ランブリケを養女にしたという逸話。
ルイ16世には寵姫がいなかったといわれているようですが、真実はどうなのでしょう。
1777年の先天的性不能の治療を受けたあとに、手術の成功を確かめるため、宮廷で準備した女性ではないかと思っています。
このエルネスティーヌの誕生は、マリー・テレーズと同じ1778年だということです。
このエルネスティーヌがマリー・テレーズのなんらかの事情のため、1795年のオーストリアに引き渡されるときにはすりかわったかも。(ロマンス小説脳の楓が考えたお話し。)
1816年、マリー・アントワネットがエリザベート内親王にあてた最後の手紙を受け取ったのは誰なんでしょう。マリー・テレーズの回想録を書いたのは、誰なんでしょう。
真実はどちらにあるのか、これはマリー・アントワネットの生涯の読み物ではなく、史実として知りたいことです。
100年後に公開される予定だったマリー・テレーズの遺言。
いったい誰が何のために公開もせず、眠らせてあるのでしょうか。真実と事実との照合でしょうか。
感動的とさえいわれる残された手紙や遺書、回顧録などは、アントワネットには非常に多いと感じています。
ジェーン・オースティンが好きだったというエミリー・エデンは、同じように遅れて30年後に出版された著作があります。
オースティンのように現代に記憶が残る著作はほとんどありませんが、2作出版されました。セミデタッチド・ハウス (1859)、セミデタッチド・ハウスの二人 (1860)で、現在もネットでも読むことが可能です。
男爵家に誕生し、生涯独身でしたが、キャロライン・ラムの夫だったメルボルン卿とのシックなロマンスもあったようですよ。
オークランド卿の妹であるエミリーエデンは著名な作家および芸術家でした。 彼女は後世に向けて、「インドの王子と民族の水彩スケッチ」と題された200近くの研究からなる3巻のアルバムを残しました。 しかし、アルバム内のほとんどの絵は、王子の生活ではなく一般の人々の生活に関係しています。 カルカッタからラホールへの兄妹での旅行中に、彼女は出会った興味深い人物を絶えずスケッチし、姉に宛てて1866年にロンドンで「アップザカントリー」というタイトルで長い手紙を書きました。エミリー エデンは最高のドローイングマスターからイギリスでレッスンを受けました。 彼女の作品から判断すると、彼女は熟練したアマチュアアーティストであり、インドの太陽の下で、絵画の才能の花を咲かせました」
キャロライン・ラム 1805年頃
メルボルン子爵夫人キャロライン・ラムは、あのデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャヴェンディッシュの姪です。彼女は1812年に恋多き詩人でもあるバイロン卿とのロマンスが囁かれますが、嫉妬の感情に負け、自殺を図ったりゴシック小説 グレナヴォンでバイロンを非難するなど、ちょっと厄介な女性ですが、美貌の一族なんですね。
ご訪問の皆様
どうぞ、自粛を楽しんで、ご自愛くださいませ。
また、お仕事の皆様、応援しております。
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コロナウィルスで大変な時期ですね。6年くらい留守をしていたブログですが、毎日来ていただいている訪問者の皆様ありがとうございます。
私も仕事の関係で、あちらこちらを仮住まいしながら、いまは中国地方におりますが、仕事上の関係で、名古屋にも仮住まいがあり、その住居には
いくらかの私物を残しており、なんともかんとも戻れもせず、ゴキブリの心配とコロナの心配をしつつ今日に至っております。
どうぞ、意味のある日々を過ごし、ご自愛くださいませ。
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角盥(つのだらい)に梶の葉を浮かべ水鏡で星を眺める風流さ。冷泉家に伝わる七夕は、乞巧奠として伝え続いています。索餅を食べているのでしょうか。
この梶の葉七枚に七首の歌を詠んだのは室町時代から盛んになったそうですが、七遊(歌・鞠・碁・花札・貝合・楊弓・香)を楽しんだのもその頃の七夕らしいです。
楸(ひさぎ)の葉に金銀それぞれ七本の針をさし、五色の糸を通し、桃・梨・茄子・瓜・大豆・干鯛・鮑の七つの供物と庭の立琴、星の薫物をしつらえたそうです。この七にちなみ、七夕の日、七つの桃を手に、髪に七つの花の輪で漢の武帝を歓待したということです。
そして玄宋が楊貴妃にささやいたのも七月七日だったのですね。
バラ サン=テグジュペリ
作出国フランス 作出年 2003
作出 デルバール社
リチャード・W・ブラウン撮影 ターシャ・チューダー
画像引用:トーヴァ・マーティン 「ターシャ・チューダーの庭」
Tovah Martin
コメント:図書館で何十回も貸してもらっているターシャのシリーズ。買うならこの1冊を最初に。なぜならターシャの庭に咲くメインリストとその植え方を鑑賞することができるから。 |
由来は慈善の「アレキサンドラ・ローズ・デイ」です。英国エドワード7世王妃アレクサンドラは、美貌の姉妹としても有名でした。ロシア皇帝アレクサンドル3世妃マリア・フョードロヴナです。
アレクサンドラは、愛妾アリス・ケッペル、姑ヴィクトリア女王と女性につきものの確執を生涯に渡り悩まされました。
ご覧のようにとても誇り高い王妃アレクサンドラ。イングランドのエリザベートと呼ばれていたほどです。
スイートピーを愛し、祝典では装飾に使い、エドワード朝を象徴する花で、デビット・オースティンの薔薇「ジ・アレキサンドラ・ローズ」は、このスイートピーを思わせるような一重咲き。
王妃アレクサンドラの写真と肖像画
右 フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター画
イングランドのエリザベートと呼ばれていたのはその美しさもあるでしょう。ですが二人の共通点は姑との対立でした。
ひとつ違ったことは王妃アレクサンドラは夫に愛されなかったことでしょう。彼女の醜い首の傷跡が二人を裂いたのかはわかりません。あまりの誇り高き故なのかもしれませんね。
■パパン(p’pa=プパ)と負傷したロシア兵のための展覧会に行ったルウルウ。閑散とした展覧会で、ルウルウはパパン(p’pa)から離れてダニャンの素描を見に行く。
ダニャンはパスカル・ダニャン=ブーヴレのことだと思います。エルミタージュ展で見ていないとわからないですね。「ルーヴル美術館の若い水彩画家」、きっとご存知でしょう。
■パパンはカタログからロォブルの「室内」を示します。
ロォブル?Loebl?いったい誰でしょう。
■「クゥルトワの小さな画を観たほうが面白いわ・・・」
ギュスターヴ・クロード・エティエンヌ・クルトワで間違いないと思います。
さて、過去記事「ナナの誕生 ドミ・モンド」からフランスの娼婦を参照してください。
なぜかと申しますと、プチ・パレェにおけるプパとルウルウの会話にクルチザンヌ、ボーデルがでてきます。なぜかというと展覧会で娼婦を見かけたルウルウ。
もともと「マドゥモアゼル・ルウルウ」は風刺小説です。邦訳からはなかなか伝わってきません。
この時代は娼婦の時代。展覧会では小説のナナをはじめ、高名な娼婦たちの肖像画も多く描かれたのでしょうね、印象派によって。
ジィップが風刺したかったのは何なのか。ところが森茉莉は「ルウルウ」に自分の理想の投影図を書き出したので、森茉莉の「ルウルウ」で、ジィップの風刺小説のヒロインの条件を満たさない。
森茉莉さんかぶれ、マニアはこの1冊と選ぶけれど、この本に対しての感想や書評を一切していない。マニア以外で感想を書いているブログ記事をようやくひとつ見つけました。
決して上流階級の魅力的でキュートなお嬢様の可愛い作品ではないのですよ。
そう思っている読者の皆様、毒舌をお許しくださいませ。これは当時の歴史、女性の社会的地位、そして芸術・文化・文学の果てまで、本当は風刺してるんです。
美男子として名高いエメリヨンは当時の誰を例えている?
貴族のジィップはナショナリズムで身分制度を否定していました。大おじミラボーは、貴族でしたからフランス革命初期の議員では第2身分で議席をとることができましたのに、あえて第3議席で指導者となったのです。賄賂は暴露されましたが(笑)。
ルウルウはフランスの自由・平等・友愛を象徴しているんです。そして、その時代の流行や習慣を揶揄したり比喩したりしているんです。決して可愛いおしゃまな女の子じゃないんです。
私思ったのですけど、アンチ森茉莉なんですね、きっと。ですから森茉莉かぶれやマニアさまたちには、そういったことは問題じゃないんです。ただおしゃまで可愛い女の子、そして老女になってもピュアでありたいという女はいつでも14歳なんだと思うのですね。私はそうじゃないですね。 ジィップ という作者がいるので。
それはとっても素敵なことだと思いますが、私はジィップの国粋主義とその風刺を尊重したいのです。どなたかこちらを翻訳していただけないでしょうか。
さて本質です。
ジィップはルウルウを通して、自由な恋愛と結婚、女性の地位の「向上、そして反ユダヤ(たぶん)であって、大人の行動を揶揄しています。
ルウルウの名前の由来。ルイーズ、ルシールはルウルウ、ルルと呼ばれます。ルイーズはルウルウが通称で、「誉れ高き戦い」を意味します。ルルは「可愛い」という意味。
つまりルウルウは戦いの女神なのですね。
当時流行していた英国の「5時のお茶」。展覧会でパパが見つけた「ファイブ オクロック ティイ(five o'clock tea)」、そして最初にご紹介しているクルトワの作品でもおわかりのように、室内装飾も服飾も日本趣味(ジャポニズム)の時代だったのです。
5時のお茶、日本風ティー・ガウンの大流行。そしてサロンに反抗する画家たち。この時代はサロン・ド・パリとして知られる美術展に、サロン落選の美術展としての「サロン・ド・リフュゼ」と、フランスの芸術家たちはサロン・ド・パリと分離しはじめます。
5時のお茶の絵画化である「ファイブ オクロック ティイ(five o'clock tea)」は、メアリー・カサット、ジュリアス・ルブラン・スチュワートを推薦しましょう。
さてこの「5時のお茶」ですが、軽食をとりながらお茶を飲む。甘いお菓子にサンドウィッチ。貴族たちがサロンでお茶とお菓子でもてなした18世紀。ジィップの時代19世紀にはブルジョワ層にもその習慣がひろがります。
記事 紅茶でアロマ アンナ・マリアのアフタヌーン・ティー VS ジョジアナのクリーム・ティー
パテシィエ アントナン・カレーム(1784-1833)が広げたのです。美食評論家といえば「美味礼賛」の著作者ブリヤ=サヴァラン、グリモ・ド・ラ・レニエールがいます。
森茉莉さん関連記事
記事 「それぞれの魔法の庭」
記事 「バラを食べるマリア」
記事 「マドゥモアゼル・ルウルウ ルウルウの政治」
記事 「アヴェ・マリア 森茉莉もしくは牟礼魔利(ムレ・マリア)」
余談
「じゃぁ、カミーユに会ってくるわ!」と笑顔で軽やかに断頭台の階段を駆け上がったその女性はリシュル。カミーユとはご存知のカミーユ・デムーランです。
やさしのリシュル
森茉莉による翻訳本「マドゥモアゼル・ルウルウ」
ジィップの大おじミラボー
オペラグラスを持つジィップ(1849-1932)
コメント:30年くらい前に「まっぷたつの子爵」を読んでからのおつきあい。「魔法の庭」は短編集。どんな物語でもユーモラス。大人、少年、動物や猫。読みながら心が快い〜。
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時々に他の作家の作品を読んでいると、森茉莉の想像、妄想と比較したくなるのです。今回はイタロ・カルヴィーノの「魔法の庭」なんです。
蔓棚の支柱の間に吊るしてあったドラが成り、こもった音がしばらく響いた。二人の子どもはキンポウゲの花壇の陰にうずくまった。たちまち白い上着の召使が二人、大きなお盆を持ってやってきて、黄色と橙色の縞模様のパラソルのしたの丸テーブルにお盆と置くと、引揚げていった。ジョバンニとセレネッラはテーブルに近づいた。紅茶とミルク、それにスポンジケーキがあった。あとはテーブルについてたべるだけだった。二人分の紅茶を注ぎ、ケーキを二切れとり分けた。・・・(略)・・・それにお菓子の味もミルク紅茶の味も分からなかった。その庭にある全部がそうだった。美しいのに味わうことができないのだ。
あぁ、私が思うには、文学的には憧れや楽しみの先の幻滅。日常的には紅茶の注ぎ方や香りを嗅ぐことを知らないがためにプルースト現象さえもっていない。
イタリアの国民的作家
イタロ・カルヴィーノ(1923-1985)
あるいは本質を知らない。
だから味わうことができない。
ところが茉莉さんだったらどうでしょう。
扉のうえに飾るのは古雑誌から切り取られたボッティチェッリの春。錆びたベルは音が鳴った気配だけを残している。恐るべきこどもは腐った雑誌にうずくまっている。たちまち白い上着の召使が一人、大きなお盆を持ってやってきて、パラソルに見立てるように黄色と橙色の縞模様のタオルをかけた丸テーブルにお盆と置くと、茉莉は腰掛けた。紅茶とミルク、それにスポンジーキがあった。あとはテーブルについてたべるだけだった。一人分の紅茶を注ぎ、ケーキを一切れとり分けた。・・・(略)・・・お菓子には薔薇の花びらを添えて、ミルク紅茶はプリンス・オブ・ウェールズ。その部屋にある全部がそうだった。一帯のゴミ畑なのに味わうことはできたのだ。
森茉莉の恋人たちの森。読み返すきっかけがあって、ハッと気がついたことがあります。
やはり森茉莉さんは恐ろしい。登場人物「植田夫人」は48歳。いまの私より若いこの夫人を徹底的に醜く描いているのです。美青年ギドウが、美しい植田夫人の醜い肥満がはじまって、少々倦怠気味になっている。
アンチエイジングを気にするお年頃の女性なら、グッとくる場面。さすが森茉莉。
晩年の森茉莉さん(1903-1987)
シャネル曰く生活、人生が顔にあらわれる
「醜い肥満が始まった夫人の体は、若いギドウの軽い嫌悪を呼び醒ましてゐる。それが夫人に鋭い苦痛を与え、技巧を多く必要とするやうになった夜の、又は午後の狂乱の中で、夫人の神経は尖り、研ぎ澄まされて、ゐた。」
かしずかれた令嬢の頃の森茉莉の零落ぶりを植田夫人の醜い肥満にたとえたのでしょう。
想像力の魔法で茉莉さんの周囲も読者も、それはお金はないけれど贅沢な精神で暮らしていると勘違いさせられている。
腐った畳にきのこが生えて、森茉莉はお風呂にも入らない。おぞましさと哀れさ。私にとって貧乏であっても贅澤な精神=清貧であって、清潔で美しいことです。森茉莉の美や贅沢サヴァラン、自由な精神を崇めている茉莉マニアには申し訳ないですが、やっぱりこの人は私にとってはボーダーの尺(尺度)だと思っています。
森茉莉さん関連記事
記事 「バラを食べるマリア」
記事 「アヴェ・マリア 森茉莉もしくは牟礼魔利(ムレ・マリア)」
18歳以前に一度読んだ記憶。モノクロの映画はたしかテレビのロードショーでヒッチコックの「レベッカ」を見ていた。それは小学生の頃?
レベッカ。ずっと愛読書のように・・・、お嫁入りのときも、息子が成人してからも、短大を卒業したときにもらったルーマニア製のガラスの扉のついた書棚に置いたままで。
二度目は30代?そして50を超えて3度目の読書。
成熟した読み手となってますますのめりこんだのは、「わたし」と亡くなった美しい前妻レベッカ、レベッカの忠実な使用人デンヴァース夫人との心理的葛藤とその秘密?
違う、違う、違う、違う、違うのです。
この成熟した年齢になって読み込んだのは、ホントに最初。マキシムへの恋の場面。本当にプロローグのあの場面なんです。
引用:茅野美ど里さん翻訳の「レベッカ」から
ついにその日が来てしまった。ここを去るのだ。何もかも終わりだ。あすの晩にはメードよろしく夫人の宝石ケースと膝掛けをもって、私は列車の中だ。
そうなんです。身寄りも家もない主人公「わたし」がヴァン・ホッパー夫人のコンパニオンでお給料をもらっていた物語のはじまりのこと。
モンテカルロでマキシムに会い、親切にされてからまもなく、ヴァン・ホッパー夫人は明日にはここを発つというのです。
主人公「わたし」は絶望。
引用:茅野美ど里さん翻訳の「レベッカ」から
彼は慣れ親しんだホテルの食堂のあの席でひとり本を読んでいて、わたしのことなど気にかけず、考えもしない。発つ前にラウンジで別れの挨拶くらいはできるかもしれないが、・・・(略)・・・
「ええ、お便りください」とか、
「ご親切にしていただいて、きちんとお礼を申し上げたことがなくて」とか「スナップ写真ができたら転送してください」、「でも宛名は?」、「連絡します」などとおきまりの言葉をかわすのだ。
そうです。自分ではどうしようもない身分と職業、そして相手にされないだろうその恋。突然の出発。なにもかもはじまったばかりだったのにね。
だから、マキシムが自分がいなくなったあとも、そのことを別段気にすることもなく過ごす彼を容易に想像できますし、とりとめのない会話で終わるのが「私」には充分に理解しているのです。ある意味、分別があるのかと。
引用:茅野美ど里さん翻訳の「レベッカ」から
「あと四分半、それでもう二度と会えない」とわたしのほうは思いつめているのに。モンテカルロを発つことになり、二人の間も終わってしまうので、よそよそしさがしのびこみ、話すこともなくなってしまう。会うのはもうこれ一度きり、これで最後だ。
わたしの心は悲痛のあまり泣き叫んでいる。「愛しているの。胸が張り裂けそう。こんなこと初めて。もう二度とないわ。」
「愛しているの。胸が張り裂けそう。こんなこと初めて。もう二度とないわ。」
この気持ち。みなさん一度は経験されたでしょう。成熟した年齢になってこそなのでしょうが、マキシムの後妻となる「私」のこのときの受身の立場のつらい心理がよく伝わってくる。
若くもなく既婚者の私には、これからないだろうと思われる恋愛が、もしもの予感があれば、決して「一期一会」で終わらせたくないと思うかも(願うかも)しれません。
「もう二度とない」
私の年齢で誰かと恋愛がはじまれば、私もきっと同じセリフが自然に口をつくのでしょう。
ダフネ・デュ・モーリア
コメント:成熟した読み手となってますますのめりこんだのは、「わたし」と亡くなった美しい前妻レベッカ、レベッカの忠実な使用人デンヴァース夫人との心理的葛藤とその秘密?いえいえ。それは、「わたし」がモンテカルロを去らなければならないと夫人に告げられたあの場面です。 |
ダフネ・デュ・モーリア
コメント:「わたし」がはじめてみたマンダレー。生い茂る緑に囲まれ、美しい花々が咲き乱れ、そしてツツジの花。それが燃えていく。あの美しかったマンダレーはない。 |